メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

    カテゴリ: エピソード

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    ラモーンズのマーキー・ラモーンがMCを務める「Virgin Radio」にてジェイムズ・ヘットフィールドが「Here Comes Revange」の歌詞についての着想について語っていました。UltimateGuitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    jmz_revenge

    −復讐(Revenge)についての曲があるけど、これは何に着想を得たものなのか?

    ひとりの父親として、以前のように物事や世界がどれだけねじ曲がっているかを見たりするのとは違ったものに影響を受けている。

    でも、それから子供たちがとても賢くなっていることに気付かされたよ。彼らはオープンだし、なんとかなるって感じなんだ。でも俺の父親は「世界は地獄になっちまった!」って言っていたし、彼らの父親(自分)も同じことを言っている。

    それでわかったんだ。それは一種の心理療法だってね。世の中で起きていることについてちょっと不平を言うようになる。

    で、俺たちのファンがいて、彼らの立場に身を置こうとしてみたんだ。とてもたくさんの公演に来てくれたカップルがいてね。彼らがメタリカに興味を持ったのは、若い娘さんが俺たちの大ファンで、酔っぱらった運転手によってひき殺されたからだった。

    それには衝撃を受けたよ。「どうしたら世界でポジティブなものを見出して、自分の娘とまた通じ合うことができるだろうか」それがメタリカであり、彼女が愛した音楽だったんだ。理性がポキっと折れて、冷酷になってこんなことをした奴なら誰でも攻撃をしたくなる代わりにね。

    だから俺は彼らの立場に身を置いて(考えた)、復讐は実行するのに本当に力強く素晴らしいものだと感じなければならないが、その衝動を満たすものではなかったんだ。


    UltimateGuitar.com(2017-09-25)

    インタビュー全編はこちらから。アルバムのプロダクション面や故レミー・キルミスターについても語っています。


    ジェイムズは以前、Metallica.comにてファン会報誌SoWhat!のエディター、ステファン・チラジとのインタビューで『Hardwired...To Self-Destruct』全曲の歌詞について語っており、「Here Comes Revenge」については次のように話しています。
    ステファン
    子どもが殺された悲しい物語についてたくさん読んだのかな?それにどうやって折り合いをつけることができたんだろう?

    ジェイムズ
    そうだね。モーガン・ハリントン(※)がいる。誰かを奪われた家族についてはたくさんのことがある。息子が死んだ友人もいるし、名前は挙げたくないけど、ずいぶん長い間ツアーに帯同してきているカップルがあの曲の助けになったし、俺にとってインスピレーションになったんだ。彼らの娘さんが酔っ払いの運転手にひき殺された。彼女はメタリカが大好きだったんだ。このご家族が娘さんと繋がったままでいる方法がメタリカのショーに来て彼女が楽しんでいたものを楽しむということだったんだ。そうやって繋がっているんだろう。あれには本当に驚かされた。とても強いよ。それは自分にも起きうる傷つく出来事だね。つまり人生をぶち壊し、ただ座って四六時中そのことについて考えては、何度も何度も思いを巡らすんだ。「どうしたら物事を変えられたんだろう?もしこうだったら?ああだったら?」どうしたら怒りを抑えられるだろう?どうしたら子どもの人生を奪った相手に怒らずにいられるだろうか?それは俺にとって本当の強さだと思う。俺がするであろう考え方を書いているからね。復讐が起きるのを祈って、それが答えだと考えるだろう。結局そんなことは起きないとはわかってるけどね。

    ※2009年にメタリカのライヴを観に行った後に行方不明となり、遺体となって発見されたヴァージニア工科大学の学生。事件究明のためにメタリカは有力な手がかりを申し出た者に賞金5万ドルを提供。ジェイムズは事件の手がかりを求める動画メッセージを公開した。後に別の殺人事件の容疑者が当該事件の容疑者として再逮捕され終身刑となった。

    Metallica.com(2016-11-19)

    Here Comes Revenge


    RL72 - The Making of "Here Comes Revenge"


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    ボストンのラジオ局「98.5 The Sports Hub」の番組「Toucher & Rich」で行われたカーク・ハメットへの電話インタビュー。「Enter Sandman」のリフを思いついた時のエピソードについて語っていました。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    kirkhammettmetallicabaltimore2017

    −「Enter Sandman」のリフを思いついた時の思い出はある?

    とても詳細にね。すごくハッキリした思い出があるよ。あれは深夜2時か3時くらいだった。俺がサウンドガーデンのアルバム『Louder Than Love』を聴いていたんだ。その頃はまだサウンドガーデンが少しアンダーグラウンドでインディーのレーベルにいた時だったね。俺はあのアルバムが大好きなんだ。サウンドガーデンの素晴らしいアルバムだよ。で、そのアルバムを聴いていたら、触発されて自分のギターを手に取ってあのリフが思いついたってわけ。

    クールなリフだった。リフがクールだってことはわかる。演奏してみてクールなリフだったら、すぐにでもノれるからね。だから、おぉこれはかなりクールだぞ、いいフィーリングでいいサウンドでいい音の組み合わせだって。

    ラーズがリフを聴いたら「最初の部分を4回繰り返してくれ」って言ってね。俺がやってみせたら「そう、それだ」ってラーズが言ったんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2017-09-13)

    インタビュー全編はこちらから。カークがコレクションした映画ポスター展、失くしたiPhone、Alcoholicaと呼ばれていた時期の話などをしています。
    http://boston.cbslocal.com/audio/toucher-rich/kirk-hammett-interview/



    LouderThanLove
    Louder Than Love


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    メタリカ草創期最大の功労者のひとり、ブライアン・スレイゲルが自らのレーベルMetal Bladeを興し、音楽に身を捧げた半生を綴った『For the Sake of Heaviness: The History of Metal Blade Records』を2017年8月29日に上梓。

    ForTheSakeOfHeaviness

    この著書の中でクリフ・バートン、ジェイソン・ニューステッドをメタリカ加入に繋げた逸話について語られていました。billboardの抜粋記事を管理人拙訳にてご紹介します。

    1982年の後半、私(ブライアン・スレイゲル)は『Metal Massacre II』をリリースしようと楽曲を集めていた。受け取った投稿のひとつにサンフランシスコのトラウマ(Trauma)というバンドからの3曲入りデモがあった。かなり専門的に録音されていて、彼らのマネジメントは(訳注:ハリウッドの伝説的クラブ)トルバドール(Troubadour)でショーをするためにやってきたのだと私に告げていた。そして私に彼らを見に来たらどうだと提案されたのだ。

    ショーに出かけた結果、バンドはまぁよかったが驚くべきものはなかった。ただベーシストはこの世のものとは思えないものだった。彼がいるステージ側では何かが完全に狂っているのを見る事ができた。青いデニムのベストとベルボトムを着ていて、本当に飛び抜けている。私は彼の名前がクリフ・バートンだということを掴んだ。

    クリフには大層感銘を受けてね。トラウマの「Such a Shame」を『Metal Massacre II』に収録することを承諾した。それがリリースされる少し前に、私はラーズ・ウルリッヒと出会って、彼から「新しいベーシストが必要なんだ」と聞かされたんだ。

    Trauma Such a Shame


    より多くの練習して、ミュージシャンとしての各々の能力を磨き始めてみて、メタリカのメンバーはベーシストのロン・マクガヴニーだけが進展していない唯一のメンバーだと気が付いてしまった。ロンは素晴らしい男だったし、すごくクールではあったが、ラーズは自分たちが書いていた新しい楽曲からすると、ロンは技術的観点からそこまでに達していなかったと私に話していた。そしてラーズは私に他に誰かピッタリの人物を知っているか尋ねたんだ。

    私はこう答えた。「そういえば、サンフランシスコのトラウマってバンドのベーシストは目を見張るものがあったね。彼らはまた別のショーでやって来るから、行ってチェックしてみるべきだよ。」とね。

    トラウマの次のLAのショーでラーズとジェイムズに会った。ライヴが始まって5分くらいで、ラーズは私に向かって笑みを浮かべて「あいつが俺たちの新しいベーシストになる」と言っていたよ。

    ・・・新しいバンドを見つけるための主な情報源のひとつは、Metal Bladeに所属する他のバンドたちからだった。例えば、ビッチ(Bitch)がフェニックスでショーをするために出ていて、戻ってきたら彼らがこう言うんだ。「俺たちの前座がフロットサム・アンド・ジェットサム(Flotsam and Jetsam)ってバンドだったんだけど、あいつらすごいぞ。チェックするべきだよ。」

    彼らは当時『Metal Shock』というデモテープを持っていたんだが、私はそれを聴いて恋に落ちたね。それから彼らのライヴを観るためにフェニックスに行ったんだ。彼らはビッチが言っていたようにすごかった。フェニックス滞在中にそのエリアのもうひとつのバンド、セイクレッド・ライク(Sacred Reich)を見出し、Metal Bladeの名簿にサインすることになった。

    当時、レーベルには熟練のバンドがたくさんいたけど、フロットサムのメンバーは既存のバンドよりも経験豊かなようだった。私はすぐにレコードを作るという考えについて彼らと話した。我々には提供する資金があったおかげで、アルバム『Doomsday for the Deceiver』をレコーディングして1986年7月にリリースできた。

    doomsday
    Doomsday for the Deceiver


    フロットサムのアルバムに費やした1万2000ドルはそれまでにレコードに投資した最大の予算だった。我々は彼らが素晴らしい未来の可能性を秘めていると信じていたから、本当に良いと思っていたんだ。実際、それは非常にうまくいった。

    メタリカのクリフ・バートンがその年の後半に悲劇的な死を遂げた時、私はラーズ・ウルリッヒから電話をもらった。「あぁ、ベーシストが必要なんだ」と悲しそうに言っていた。それはクリフが死んでちょうど2週間後のことだった。「誰か知ってる?」私はすでにアーマード・セイント(Armored Saint)のジョーイ・ヴェラが(メタリカ加入に)興味がないと言うのを聞くまでは彼を(メタリカのベーシストに)と考えていた。ラーズがその質問をした時、私はすぐにフロットサム・アンド・ジェットサムでプレイしていたジェイソン・ニューステッドを考え付いた。「キミのために完璧な男を私は知っている」そう彼に言ったんだ。

    同じ頃、エレクトラのA&Rでメタリカとサインをしたマイケル・アラゴがフロットサムのレコードを聴いて、本当に気に入っていた。マイケルと私は双方ともメタリカのメンバーにその楽曲を送っていたんだ。「うん、彼は面白そうだ。俺たちに繋げてくれないか?」と彼らが言ったんで「もちろん、最初に彼に話をさせてくれ。彼が(メタリカ加入に)興味を持っているか確認したい。」と答えたよ。

    私はジェイソンがメタリカの大ファンだということを知っていた。私が電話した時、彼は心底びっくりしていた。でも彼が難しい立場にあるということも言えた。フロットサム・アンド・ジェットサムは彼のバンドだった。彼が曲を書き、全てのことをこなしていた。私にとっても少々ほろ苦いものだった。素晴らしいバンド(フロットサム・アンド・ジェットサム)が素晴らしいレコードを出したばかりなのにってね。でもメタリカのメンバーたちは私の良い友人だったし、彼らにとって明らかにジェイソンは完璧にハマる人物だった。私はジェイソンにとっても、メタリカにとっても、ベストなことを望んでいたが、それを実現するためには何かを失うということもわかっていた。

    「一晩考えさせてくれ」ジェイソンはそう私に言った。翌日、彼は私に電話をして、メタリカ加入の道に進むことを私に告げた。彼はメタリカのために私が引っ張ってきた2番目のベーシストだった。しかし私は物事がどのように進む可能性があるか彼に正確に伝えた。なんと言おうが彼はまだ若く、23歳の子供だったからね。ジェイソンは本当に賢かったが、このメンバーの移行というのは彼にとって簡単なものではないということを私はわかっていた。彼は自分で全てをコントロールしていたバンドからメタリカに行ったんだ。そこでは何についてもコントロールできない。私はこう言ったのをハッキリと覚えているよ。「このバンドにはジェイムズとラーズがいるということを知っておく必要がある。キミは何も言えないだろう。キミはただのベーシストになる。キミはそれでOKとしなければならない。何も貢献できないかもしれない。バンドの方向性に関して何の介入もできないだろう。キミはステージに立ってただベースを弾くことになる。」

    彼は最初はそれでよかったが、15年後に彼がバンドを去る主な理由のひとつはわかっている。身体的にボロボロになっていた事実を除けば、自分自身の楽曲を書き、自分自身のことをすることができなかったということだ。彼は自分の運命をコントロールしたいと思っていた。でも彼が持ちえた功績とキャリアがどれだけ素晴らしいものだったか!

    ジェイソンと彼らを繋ぎ合わせたことは、私とメタリカとの正式な関係の終焉を告げることとなった。我々はいつも親しい友人のままだし、彼らはいつも彼らのキャリア面においてMetal Bladeが果たした役割について信じられないほど感謝してくれている。私がジェイムズに会うたびに、彼は「俺たちにスタートの機会を与えてくれてありがとう。もしあなたがいなければ・・・」と言ってくれるんだから。

    billboard(2017-08-21)

    今回の上梓された著書についてラーズとジェイムズは次のようなコメントを寄せています。

    ラーズ・ウルリッヒ
    Metal Bladeはハードロック界 いつもシーンの最前線に立ち、時代と共に歩み、連勝街道ひた走り、動きの中に身を置き、全ての競合相手より生き永らえた。もちろん、Metal Bladeの中心はブライアン・スレイゲルだ・・・ブライアンの情熱、信頼性、メタルに関する全てのものへの献身は尋常じゃない。
    ジェイムズ・ヘットフィールド
    ブライアンって人はいつも・・・この種の音楽にあまりにも多くのことを果たしてきたから、俺は彼に最高の敬意を持っているよ。レコード業界の浮き沈みや音楽の人気の浮き沈みを通じて、ブライアンは戦い続けて、自らが正しいと感じることを続けているんだ。

    ForTheSakeOfHeaviness
    For The Sake Of Heaviness : The History of Metal Blade Records


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    バンクーバーのラジオ局「CFOX」のインタビューにてカーク・ハメットがジョー・サトリアーニから受けたギターレッスンについて語ってくれました。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。
    kirkhammettmetallicacfox2017

    −ジョー・サトリアーニのギターレッスンを受けるきっかけについて

    1981年に彼からレッスンを受けた。俺たちは前からお互いに知っていてね。カリフォルニア州のバークレーにある小さな音楽店でレッスンをしていたんだ。俺の友だちみんなが彼からレッスンを受けていて、彼らは文字通り一晩でとてつもないほどのギタリストになっていた。だから俺は彼をみつけて言ったんだよ。「俺も一晩でとてつもないほどのギタリストになりたい」ってね。それでしばらくのあいだ、約1年ほど彼からレッスンを受けたんだ。

    −ジョー・サトリアーニの最初のギターレッスンについて

    実際にはとても厳しいものだった。最初のレッスンではこうだ。「自分の課題を学べ。キミの時間を無駄にするな。俺の時間を無駄にするな。一週間で俺がキミに与えたもの全てがわかるようになる。」俺はもう「この人はマジだ。」って感じだった。でもどうなったか?俺はレッスンを受けてめった打ちだった。でもしばらくすると、俺は彼から週2回のレッスンを受けていたんだ。彼が用意した課題に対して俺は喉から手が出るほど切望するようになっていた。「さぁ来い!なるほどそういうことか!もっと学びたい!」って感じだったよ。

    ジョー・サトリアーニはいつもそういう風にプレーしていたと言わなきゃならないね。俺が初めて会って以来、彼はずっととてつもないプレイをしていたよ。誰もやったことないような、おそらくいまだに演奏されないような全ての音、全ての小節、タッピング、クレイジーなフレーズ。つまり彼はミュージシャンとして、それくらいユニークで個性的な人なんだ。


    BLABBERMOUTH.NET(2017-08-17)

    ちなみに2016年の「Classic Rock」誌のインタビューでジョー・サトリアーニは生徒としてのカーク・ハメットについて次のように語っています(管理人拙訳)。
    才能と熱意でいっぱいの子どもだったよ。カークは素晴らしい生徒だった。とても学習意欲があってね。彼の指は大きく動いていた。マイケル・シェンカーやウリ・ジョン・ロートみたいなギタリストのように素晴らしいセンスを持っていたよ。彼は間違いなく音楽の才能がある。

    BLABBERMOUTH.NET(2017-08-17)

    インタビュー全編はこちら。『Hardwired...To Self-Destruct』でやってて一番エキサイティングな曲は「Halo On Fire」であることやピーボディ・エセックス博物館で行われているカークのホラー映画ポスターコレクション展「It's Alive!」について語っています。


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    2017年8月、ピーボディ・エセックス博物館にてカーク・ハメット所蔵の映画ポスター展開催

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    ラーズ・ウルリッヒが8月6日のサンディエゴ公演を前にした地元ラジオ局「101.5 KGB-FM」のインタビュー。メタリカが獲得すると思われていた1989年のグラミー賞「Best Metal Performance」部門をジェスロ・タルが受賞した件について次のように答えていました。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。
    jethro_metallica

    その日の本当の勝利はテレビ放送で「One」を演奏したことだよ。俺たちは間違いなくグラミー賞で放送された最初のロックバンドなんだ。あの当時、ヒップホップはなかった。まったくね・・・。とても保守的な体だった。だから俺たちがそこにいたってのはクールだったんだ。

    そして80年代中ごろから後半にいたる、大物リストに名を連ねた様々な音楽界のセレブたちが顔を恐怖でひきつらせながら目の前に座っているのを(ドラムセットのなかから)ステージ上で座って観ていたよ(笑)それこそが本当の勝利なんだ。

    ジェスロ・タルが勝ったって事実はまた別の勝利になった。なぜなら俺たちが先端的で、まだ主流ではないってことが示されたからね。それに彼ら(グラミー賞会員たち)はこれを埋め合わせるために次の2年間、俺たちに賞を与えることになったわけだし。

    まぁね、俺たちは本当によくやったし、敬意を表するよ。2年に1回は放送に招待されるなんて幸運だ。素晴らしいことだよ。グラミー賞ほど聴衆に届くテレビ番組はない。俺たちはそんなパーティーに招待されていつも感謝しているんだ。

    当時、俺たちはちょっと場違いのように感じていた。だけどすべて素晴らしい結果になったね。


    Ultimate-Guitar.com(2017-08-17)

    インタビュー全編はこちらから。


    1989年、初ノミネート時のグラミー賞授賞式での「One」


    グラミー賞はジェスロ・タルが獲得


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    Podcast番組「Alphabetallica」にて行われたメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンの父親、レイ・バートンのインタビュー。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    ray_james

    −受け取っている印税について

    私が受け取っている印税から、彼(クリフ)が通っていた高校、カストロバレー高校の音楽教育のために奨学金として寄付しています。だから奨学金を受け取った子供たちはそのことについて私に感謝している。

    クリフもおそらく自分のお金でそういうことをしていたでしょう。彼は何が何でも教育に逆らっていたわけじゃないですからね。学ぶことが大好きだったので。


    −クリフ・バートンが初めてメタリカで収入を得た時について

    あのアルバム(メタリカのデビューアルバム『Kill 'Em All』)がどんな意味を持つかなんて全く考えたことがなかった。クリフが初めて印税の小切手を受け取った時、これは大事になる可能性があると気付いたのです。

    たしか1500ドルでした。彼(クリフ)は「母さん、父さん、これが俺が初めて受け取った印税小切手だ。さぁ今夜はディナーに連れて行くよ。」と言ってね。「OK、では行こう!」と。カストロバレーのすぐそばにあるヘイワードで、彼が大好きなお寿司の店に行ったんです。それが将来大きくなるかもしれないと思った最初の出来事だったかもしれない。


    −メタリカとしてのクリフ、そして現在のメタリカについて

    ジェイムズとラーズ、そしてデイヴ・ムステインを初めて観たのは、サンフランシスコのストーンでのライヴでした。(妻の)ジャンと私はクリフが新しいバンドで演奏するのを観に行き、彼らはとてもうまく行っていた。彼らは皆、止まらないモップのような髪の毛をしていて、とても楽しませてくれる。そして素晴らしいことに、彼らはいまだに楽しませてくれます。

    私はメタリカのコンサートに行くのが大好きです。音楽は私の好きな(ジャズの)ビッグバンドではないけれども、面白い。音楽というものは楽しいものであるべきで、彼らは確かにそうですからね。

    ジェイムズはシンガーとしてもフロントマンとしても素晴らしい仕事をしている。彼はまさしく完璧な適任者です。一度、彼に高校でチアリーダーだったか訊いたことを覚えてますよ。大笑いしてましたね。彼はチアリーダーとは程遠かったと。

    いつも私を驚かせてくれました。言ってみれば、とても無口で目立たなかった子が、まず素晴らしいギタリストへと変化を遂げて、自身のヘヴィメタルの曲を歌い、群衆を巻き込むようになったのですから。

    −息子クリフ・バートンについて

    彼は格別の子どもだった。私たちにとっては一人の良い人間でしかなかったけど、彼は決して私たちに何か問題を起こすようなことはなかった。ドラッグにはハマっていなかった。ただ、ビールとアルコール類は例外でした。

    一度だけ彼が(友人でドラマーの)デヴィッド・ディドナートと酔っぱらって帰ってきてね・・・(笑)深夜2時にドアがノックされて、(クリフの母親の)ジャンが応対に出た。すると会話が聞こえてくる。ジャンが「レイ、こっちに来て!」と言うので、起きて行ってみると家のなかでデヴィッドがクリフと取っ組み合いをしていた。私たちはクリフを彼の部屋に連れて行った。彼はひどく酔っぱらっていたよ!(笑)

    とにかくジャンは全てのことを心配していた。だから私はジャンに「何回かあったことだから、後は私がやるよ。ベッドに戻りなさい。」と言ってね。クリフをベッドに座らせると、シャツを脱がせて彼が寝る準備をして。彼は18歳かそこらでした。

    私が彼のシャツを脱がせて寝させると、彼は顔に酔った笑みを浮かべて「あなたは世界で最高の父さんだ!」と(笑)アルコールでどうなってしまうのかというのは面白いものだね。

    そんな風に私が本当に素敵な父親であるかのように扱われたから、私はいつもそうあり続けた。もちろん、それは私がそうなりたい、そうしようと思っていたところですが。

    母親、父親との関係にとても好意的な子どもを持つと、子どもについて何もとやかく言えないものだよ。まさにそれがジャンと私の場合でした。

    Ultimate-Guitar.com(2017-08-09)

    インタビュー全編はこちらから。


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    クリフ・バートンの父、メタリカ加入時のクリフの様子を語る

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    ニューヨークで行われている国際現代美術展に参加しているジェイソン・ニューステッドがLoudwireの「Wikipediaに書いていることは本当か嘘か」を質問する人気企画「Wikipedia: Fact or Fiction?」に登場。

    jason_wikipedia_fiction

    メタリカ加入時のオーディションや初来日の際に起きた「ワサビの洗礼」エピソードを語ってくれました。管理人拙訳にてご紹介。

    −メタリカのオーディションで、50人以上のミュージシャンが参加する中、あなたは密かにバンドのセットリストを手に入れて、それを練習してラーズに成果を見せた。あなたが(メタリカの)あらゆる曲を知っていたことにラーズは驚いたとありますが?

    うーん。あの当時、12月にオジーと共にしていたツアーでどんなセットリストを演奏していたかを把握することは難しいことじゃない。本当に(メタリカとして)ギグをしたいと思って彼らの曲を準備しようとするなら、一緒にやろうとする曲は大事な秘密ってわけじゃないし、把握することは難しいことじゃなかった。引き金を引くと決めたなら、自身の力を発揮できるに足るだけのセットリストは準備しておくし、知っておいてしかるべきだよ。

    本当なのは(メタリカ以前に所属していた)フロットサム・アンド・ジェットサムの俺の手描きのロゴが一番上に書かれたノートに、彼らが俺の地元で最後にライヴを行った時にやった曲を順番に書いていたってことだね。ドラム越しにラーズにそのノートを手渡して、ラーズがロゴとリストを見てる時に、俺は書いてある曲なら知ってるって言ったんだよ。そしたら彼が「そりゃすげぇ、クール!」と言って、じゃあ一緒にこれとこれとこれをやろうとなった。そうして一緒に演奏して数日後に電話があったのさ。

    クリフのご両親がいらしたんだ。(ラーズの父)トーベンもいた。まだご両親とも健在で俺に非常によくしてくれた。彼らが全員来る時に俺が戻って来て、二度目にお会いした時にはハグをして欲しいと。ジャン・バートン(クリフの母)はすぐに俺を抱きしめて「あなたという存在は一人しかいない。みんなもそう。どうか無事でいて。」と言ってくれたんだ。


    −メタリカはあなたをだましてワサビの塊を食べさせて洗礼を浴びせたとありますが?

    真実に遠からずってとこかな。バンドに入って11日で日本でツアーを行った。メタリカが日本でツアーをするのがそれが初めてだった。それで俺たちは飲んで飲んで飲みまくり、パーティー、パーティーだ。それでカークがこう言うんだ。ジェイソン、これはミントアイスクリームだとね。俺は泥酔していて、アイスはすぐ溶けるだろうとか言ったんだけど、このミントはすげぇから絶対試した方がいいよって言われてね。それで俺はOKってスプーン一杯頂いたんだ。箸は使えなかったからね。口にしたら「Fuuuuuuuuuuck!!!!」
    jason_mint

    そこで座ってふと気がついて見上げたら、テーブルには知らねぇヤツがいる。みんないなくなってしまったんだ。でもテーブルは満員。ロードクルーのヤツらやその場にいた人たちが俺のいるテーブルへみんなを呼んでいたんだ。終いには気がついたらアジアの女の子や知らない人たちでテーブルが埋まっていた。知っているヤツがいないか見回したよ。支払いは俺だって。あの当時、円相場が強くてね。俺は週500ドルもらえていた。ベースを弾いてサンドイッチを食べてビールを飲むには大金だよね。ハッピーだ。そういう状況だった。彼らは俺に週500ドル渡していたんだ。でも支払い請求を見たらゼロがずーーーーっと並んでいるんだ。
    jason_bill

    俺は支払い請求を見て、こんな最悪な夕食に誰もいないのかと思った。そしたらアイツら上の方から俺の顔を見てやがったんだ(笑)当時のマネージャーのボビーが降りてきて、(大丈夫だと)俺の背中を叩いて支払いを済ませたのさ。参ったね。それがワサビストーリーの全貌だよ。

    インタビュー全編はこちらから。上記のエピソードの他にキッスのジーン・シモンズに影響を受けてギターからベースに転向した話やプロデューサー、ボブ・ロックについて語っています。


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    Podcast番組「Alphabetallica」にて行われたメタリカのベーシスト、故クリフ・バートンの父親、レイ・バートンのインタビュー。Ultimate-Guitar.comの文字起こしを管理人拙訳にてご紹介。

    ray burton

    −メタリカ加入時のクリフの様子について

    おそらく1982年かそのくらい、83年だったかもしれない。息子は(母親の)ジャンと私のところにやってきて、「母さん、父さん、5年間サポートしてくれて本当にありがとう。」と言ったんだ。私たちはそれほどではないにしても確かに彼をサポートすることができた。すると息子は「もしうまくいかなかったら、スタジオ・ミュージシャンになろうと思うんだ」と言っていた。

    それは彼が私たちに提案したものだった。もちろん私たちは「思うようにやりなさい!外に出て試してみなさい。私たちは出来る限りオマエをサポートするつもりだ。」と言ったよ。それはかなりうまいこといった。

    クリフが生きていたら、どうだっただろうとよく考える。彼が好きだった音楽をいまだに演奏しているであろう姿がありありと目に浮かぶね。


    一度、彼にスタンダードなベース演奏について口にしたことがある。彼は「そうだね、それについては考えていたんだ。いつかはそれに取り組むよ。」と言っていた。このことは彼が音楽の演奏能力を広げようと考えることができることを私に示してくれた。

    −メタリカに加入してクリフは変わったか

    クリフはまったく変わらなかったよ。彼はとても謙虚な人間だった。彼は人気が出た時のロック・ミュージシャンがなるみたいな調子付くタイプが気に入らなかった。

    ヘヴィメタルを荒々しくプレイすることが好きなだけで、決して変わることはなかった。彼は道やレストランで高校の友だちに会ったら、椅子から立ち上がって彼らに挨拶に行くだろう。常にその点で変わったことがないんだ。いつも友だちに感謝していた。だから全く変わらなかったんだろう。

    彼はジャンとかなり頻繁に電話で話をしていた。何回か私が彼と話したことはあったが、彼女が一番彼と話していた人だったね。彼ら(メタリカ)は見事にやってのけた。サポートを得られたのは素晴らしいことだ。彼はそれをとても感謝していたよ。


    Ultimate-Guitar.com(2017-07-28)

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