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メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章デンマーク編最終回。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズとヘヴィメタルとの本格的な出会いからアメリカに移住するまでのお話。

    - ヘヴィメタルとの出会い -

    フロリダのテニス・スクールに通い始めた時、ラーズはよりもっと私的な、それでいて非常に興味を持てる「学校教育」をコペンハーゲンで既に受け始めていた。この「学校教育」は後に彼がヘヴィメタルへ進み、テニスを排除する決断を下す上で重要な影響を及ぼすこととなる。「学校」で受けた基本的な授業はNWOBHM(New Wave Of British heavy Metal)だった。

    ロック史におけるその他多くのストーリーと同様、それはジャズから始まった。1978年秋のある日、ラーズとトーベンはストロイエにある街の音楽店、ブリストル・ミュージック・センターに行った。1階がトーベンが頻繁に出入りしていたジャズのフロアで、地下フロアがロックが大半を占めるフロアとなっていた。よってラーズは父親が上でブルースを鑑賞しているあいだ、地下フロアに居座ることができたのだ。

    ロック・フロアのカウンターには、ケン・アンソニーというヘヴィメタル界ですでに大きな経験をしてきた当時23歳の長髪の青年が立っていた。ケンもディープ・パープルやその他70年代のハードロックを聴いて育った。しかしさらに新しいものやもっと強烈なサブジャンルとされていた「NWOBHM」に関してとんでもなく膨大な知識を持っていた。「NWOBHM」はこれまでより攻撃的で、ブラック・サバスやジューダス・プリーストのような革新的なバンドから影響を受けたヘヴィメタルの明示型だった。78年、NWOBHMは反体制的でかなり市場に出回ってきたパンクの影にまだ隠れていた。セックス・ピストルズとそのマネージャー、マルコム・マクラーレンの無秩序でありながら、よくしつらわれた「パンク革命」のおかげで新しい波が来ていたのだ。

    ラーズはいつも先取りした好奇心の強い子だったので、すぐにケンと連絡を取り合うようになった。ケンは自分の好みだがあまり人気のない音楽スタイルを自分より若い弟子に紹介することができて本当に幸せだった。

    「ラーズにはたくさんの音楽をみつけてきたよ。ちょうどNWOBHMが始まった頃だったから、その界隈のタイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、ウィッチファインダー・ジェネラルといったバンドを(店内で)流していた。彼は少なくとも週に1度は店に来るようになった。」とケン・アンソニーは振り返る。

    ラーズ「ブリストルはコペンハーゲンの音楽の聖地だった。地下フロアは当然のごとく(笑)ロックとハードロックがあった。「ヘヴィメタル・ケン」がドイツやカナダ、日本からたくさんレコードを仕入れていた。バウワウ、トライアンフ、ティーズ、ストリートハード、ナイト・サン、ルシファーズ・フレンド、トラストとかそういった全てのバンドをね。週に何度も行っては、午後ずっと居座ってヘッドホンが使えたカウンターで曲を聴いていたんだ。」

    ケンとの出会いはラーズにとって新しい音楽、つまり目立たないNWOBHMのバンドたちに関する啓示となった。ラーズがフロリダに発つ時、両者は連絡のやり取りを続けることをお互いに同意した。ラーズがフロリダの学校で過ごした時間は全然ハッピーな時間ではなかったので、それはいいことだった。

    「あそこは全寮制のテニススクールだった。でも俺は「テニス刑務所」って呼んでいたけどね・・・。急に学校の生活リズムに合わせるのは俺にとってはハードなことだった。俺は自由に育てられたってこともあるし、78、79年頃にはハッパを吸い始めていたからね。そんな生活から途端にあそこじゃ貯蔵庫のある1つの部屋に4人ぐらいが生活していた。俺とベルギーのヤツを除いて、みんなあのアカデミーの近くの学校に通っていた。だから俺たちがテニスをしていた時は午後中、他の誰もいなかった。夜11時には消灯でテレビもないのにそこから出られないんだぜ。」

    あらゆる意味で、あのLundevang通りの天井の高い家でアートと音楽で夜更かししていた生活から突如変わったのだ。したがって、1979年のクリスマス休暇は学校から離れる待ち望んでいた時間となった。ヘラルプで過ごす待ちに待ったクリスマスはラーズを生気づけた。一番重要だったのはブリティッシュ・ヘヴィメタルをケンと一緒に天国のようなブリストルで過ごしたことだった。

    「あの当時、イギリスでは本当に何かが起こっていた。」とラーズは回想する。特に覚えているのはモーターヘッドの2つのアルバム『Bomber』と『Overkill』、そして「ブルースブルース」と呼ばれていたリード・シンガーがいたサムソンというデビューしたてのバンドだった。アルバム『Survivors』はその当時からのラーズのお気に入りの1枚となった。

    しかし大晦日の後、すぐにラーズは「フロリダ刑務所」に戻っていった。

    「2、3ヶ月で、もう耐えられなくなったよ。同部屋の外国人にできうる全ての悪いことを提案した。学校をこっそり抜け出して、ビールを買おうと地元のセブンイレブンに行き始めた。ある晩にはハッパを吸った。才能あるアメリカの上流階級のお方々が寝静まった後で俺たちはハッパを吸っていたんだ(笑)。それから彼らが俺たちをチクった。そうして先生と5、60人の生徒とで会議が招集されて「誰かが悪かった」だの「ここでこんなことは許しません」だの言う人がいた。それから俺たちは全生徒の前で立たされて、悪い見本だと言われたんだ。親父があんな人だから、平手打ちだけでどうにか済んだ。親父はとても人気があって尊敬もされていたから、そこで退学にはならなかった。」

    こうしてラーズは自らの決断でテニス・アカデミーを退学することにした。

    「3月、4月の段階でもうこんなくだらないことは十分だと思った。あの自由なコペンハーゲンで育った後じゃ、あらゆるルールをしっかり守るなんてできなかったから、俺は最悪のトラブルメーカーのひとりになっていた。でも、たぶん退学を決めたのはさまざまなことが起因していたと思う。毎日2時にバックハンドをライン上に打つ練習を30分、2時半からフォアハンド、それから1時間サーブの練習して、50回の腕立て伏せ、それからコートのサーブ・コーナーからネットラインまでダッシュしなければならなかった。日柄一日そんなクソみたいなことをやっていた。とてもよく規律が守られていたよ。まるで軍隊さ。(退学の決断をしたのは)だんだんテニスから離れていって、全ての時間を費やして誰かさんになるために練習をするっていうのは自分のためにならないと気が付き始めたからかもね。」


    「振り返ってみると、俺には続けられるだけの持って生まれた才能が充分になかったんだ。ジョン・マッケンローみたいな人は100%持って生まれた才能だし、彼の当時のライバルだったイワン・レンドルは別の極致、つまり毎日8時間練習漬けだったんだ。こういう2つの極致、すなわちテニスをたやすくやっていた選手とテニスに多くの時間をつぎ込まなければならなかった選手がいた。俺は自分のやり方だけでやっていくだけの充分な才能は持っていなかったんだ。ちゃんと練習しなければならなかった。トップに留まるためのあらゆる練習をやる忍耐力を持っていないと気付き始めたんだ」

    「デンマークではそこまで競争はなかったし、ウルリッヒという名だけで扉が開けた時もあった。でもアメリカでは才能の次元が違ったし、みんなもっと覚悟を持っていたし、ハングリーだった。アメリカでは親からのプレッシャーがもっとキツかった。70年代のデンマークではそんなことはなかったかもしれない。でも、このフロリダでの滞在によって俺は結論を得たんだ。あれは俺のためにならないと。でも、1年経つまでそのことに気付かなかった。」


    ラーズは自らの才能を徐々に気付かせたフロリダでの学校生活を振り返るのを終えた。気付いたのは「テニスの経歴とテニスそのもの」vs「強く浮かび上がってきた他の情熱」であった。

    コペンハーゲンに飛んで帰る代わりに17歳の都会っ子は西海岸、正確に言うとサンフランシスコのベイエリアの東側、バークレー・ヒルズへ引っ越した。そこは70年代、トーベン・ウルリッヒがベテラン・トーナメントでプレーしていた頃にウルリッヒ家が滞在していた場所であった。テニス選手たちは地元のテニスクラブのメンバーと個人的にしばしば住宅を提供されていた。そうしてウルリッヒ家はフォルミケッリ家と良き友人となった。

    「彼らと自由に外出していた。」ラーズは語る。「俺たちは家の女主人、マリエルのことを「西のおばあちゃん(Grandma West)」と呼んでいた。彼女は実際、アメリカでは家を提供してくれた俺のおばあちゃんだった。」

    1980年の春、ラーズはそのフォルミケッリ家と「西のおばあちゃん」と共にそこに住んでいた。この滞在でラーズがヘヴィメタル界に深くのめり込んでいくさまざまな出会いがあった。

    「ある日、地元のレコード屋でヘヴィメタルの輸入盤が置いてあるところに行った。レコードを見渡していると、それまでで一番クールなジャケットのレコードを見つけたんだ。本当にヘヴィに見えた。それはアイアン・メイデンという、それまで聞いたことのないバンドだった。俺はそこに立ってアルバムを眺めていた。それは新しくリリースされたばかりで、たくさんのライヴ写真とかそういうものが裏面にプリントされていた。それから俺はそのレコードを数週間聴いたよ。本当に最高だったんだ。」

    アルバム『Iron Maiden(邦題:鋼鉄の処女)』は、表のカバーに骸骨のようなモンスターの絵がプリントされていた。先にラーズが語ったようにバンドメンバーのライヴ写真はラーズを極致まで魅了した。この『Iron Maiden』でラーズは後に最も伝説的な筋金入りのファンの一人となった。

    ラーズは5月にコペンハーゲンに戻った。穏やかな空気、花香る木々や低木に春の輝き、生き生きとした人々の笑顔と相まって、おそらく街に戻る最も理想的な月だっただろう。同時にNWOBHMはピークを迎えていた。ラーズはケンの店にいた。そこでは絶えず若きメタルの弟子のために新しいレコードと情報が仕入れられていたのだ。

    「ケンのことはヘラルプの友だちや家族の前では「アイドル」と呼んでいた。」ラーズは80年春当時のケンの立ち位置について語る。「彼は本当にヘヴィメタルのアイドルだったんだ。彼はメタルとつながる全てだった。彼の家に招待された日には、お店が閉まった後もレコードを聴くことができた。俺はヘヴィメタルの聖地に招き入れられたみたいだった。」

    ケン・アンソニー「ブレンビュベスターにあった俺のアパートにヘヴィメタルのコレクションがたくさんあった。だからラーズはよくやってきた。彼のためにテープに録音して、その全てのバンドについて教えてあげなければならなかった。俺たちは座ってソーダを飲んでチップスを食べてヘヴィメタルを聴くのさ。彼はまだ全てを知りたがる少年に過ぎなかった。俺たちは同じ趣味を共有していた。それは素晴らしいことだ。音楽はその核となった。テニスとか他のことについては一切話さなかったよ。」

    夕方にトーベンはKirkebjerg通りに面したケンのアパートまでラーズを車で送り、真夜中に車で家に連れて帰った。ラーズは数日後、新しい何かが手に入ったかどうかケンに電話するのだった。

    「ラーズはひっきりなしにここにやってきた。」
    ケンは笑顔を浮かべて語る。「週に何度も電話してきて新しいレコードはないか、それらを聴くために金曜日に来なくちゃならないかと尋ねるんだ。そうして頻繁に来ていた。そういった全ての音楽は持っていたのは俺だったからね。」

    しかし、街の反対側にあるウルリッヒ家では、テニスはまだ重要なものだった。ベテランのトーベンはまだかなり熱心に多くのトーナメントに参戦していた。ラーズの最も基礎となるゲームの楽しみはいまだ無傷だった。フロリダで意気消沈を味わったにも関わらず、彼の野心はそのままだった。おそらくテニスをプレーすること、テニスの経歴に適切な場所を見つけることができたからでは?もしそうならば、答えはコロナ・デル・マーにある。そこはロサンゼルスにあるスポーツスクールで、ラーズが奴隷のようにテニスを練習することなく、テニスと勉強に集中した場所である。

    ラーズ「俺は高校を出て大学に進み、そのあいだテニスをし続けて、大学を出てからプロ選手になろうとしていた。そういう考えだったんだ。」

    「ラーズは集中していたよ、本当に。」ステイン・ウルリッヒは語る。「彼はテニスのスター選手になるんだと言っていた。テニスで食っていくんだと。コロナ・デル・マーのテニス・キャンプはテニス選手製造所だった。当時すべての最高のテニス選手たちがここで育てられたんだ。」

    そのうちの一人がアンソニー・エマーソンだ。彼はウィンブルドンの覇者ロイ・エマーソンの息子でロイはトーベン・ウルリッヒと一緒にプレーをした選手だった。エマーソン家とウルリッヒ家は一緒に旅行をしたこともある。ラーズがオーストラリアで初めてアンソニーと会ったのは、わずか2歳の時だった。

    「親父はロイ・エマーソンの真の良き友人だった。彼は(カリフォルニアの)ニューポート・ビーチに住んでいて、それが俺たちがそこに行った主な理由だったんじゃないかな。」
    ラーズはそう考えていた。

    ニューポート・ビーチへの引越しは息子のテニスに対する明るい将来への関心だけでなく、親自身の希望もその動機となった。トーベンの参戦するテニス・トーナメントのほとんどはアメリカだった。そしてアメリカとデンマークのあいだを行ったり来たりするのに多くの時間を費やしていた。ローン・ウルリッヒもロサンゼルスですでに交遊関係を持っていた。

    こうして1980年夏、トーベンとローン夫妻はLundevang通り12番地のあの大きな家を売り、家族はヘラルプを離れカリフォルニアに引っ越した。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    アルバム『Iron Maiden』での強烈な出会いを考えると、念願かなって共演できたバックステージでラーズがこんな顔になってしまうのは無理もない。

    maidenallica
    ラーズ・ウルリッヒ、スティーヴ・ハリス(アイアン・メイデン)とともに

    メタルの師とあおぐケン・アンソニーとのエピソード、興味があるとトコトン行くとこまで行ってしまうのは今も昔もあまり変わっていないようです(笑)。なかなかあきらめきれないテニスはいつ踏ん切りがつくのでしょうか。

    いよいよ第2章アメリカ上陸編ではジェイムズとの出会いが待っています。
    (2章から記事のタイトルは変更予定)

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はテニスファン・テニス選手としてのラーズのお話。

    - ドラムを始める前にテニス -

    ラーズはドラムは休んでいたが、長年のあいだ、テニスの練習中ですらエアギターを続けていた。「いつもテニスコートでラケットを手に持ってギターソロを披露していたよ。」同じテニスクラブの選手だったクリスチャン・シェルフィグはそう振り返る。ラーズは全ての少年のアイドルだった同世代の一流選手、ビョルン・ボルグのファンにならないだけの潔さをいつも持っている若き音楽オタクだった。

    「ビョルン・ボルグは75年、76年、77年、そして78年、デンマークでだって他のどこでだってスターだった。」ラーズは子供の頃のテニスのスター選手の歴史を語り始めた。「スウェーデンのことなら何でも、もしスウェーデンの選手がいたら、相手選手を応援する(笑)。でも長年に渡ってビョルン・ボルグは俺にとって信じられないくらい素晴らしい選手だ。見るたびにね。1976年にエキシビジョン・マッチで(デンマークで)試合をしたんだ。76年のポンドゥス・カップ(Pondus Cup)っていうトーナメントでKBホールでビョルン・ボルグ vs イリ・ナスターゼ戦のボール・ボーイをやったんだ。ボルグが街にやってきた時、俺はいつもネットでボール・ボーイをしていたよ。彼らと一緒にコートに立てるから、花形のポジションなんだ。本当にすごかったし、ビョルン・ボルグはとてもクールだった。」

    クールであることはそれほど問題じゃなかった。後年になってからもラーズはいつも流れに逆らって、ニッチの方へ向かっていた。テニスのアイドルの場合、彼はアルゼンチン選手、ギリェルモ・ビラスに模範となる姿を見いだした。

    「75年、76年、そして77年は、ジミー・コナーズとボルグの年だった。イリ・ナスターゼの力が落ち始めて、ジョン・マッケンローが初めて出てきたのが77年だ。でも77年のビラスは凄かったね!彼はスター選手だよ。77年のすべてのトーナメントに勝って、何度かボルグにも勝っていた。そしてボルグよりも髪が長かったしね!親父がアメリカで買ってきたエスクァイア誌に、ビラスがどんな詩を書き、音楽を演奏するか、また全ての女性やモデルが彼をめぐって争うほどの素晴らしい人なのかデカくて深くて長い記事が載っていた。」

    「彼は何かを持っていた。彼には未知な素養、ミステリアスな何かがあった。他と違って、「アンチ・ボルグ」でもあった。彼が「アンチ・ボルグ」なのは、彼がボルグではないからだ。それが大きかった。他のテニスの駆け出しの選手たちはみんな「ボルグ、ボルグ、ボルグ、ボルグ!!!」ってだけ。他の誰も知っちゃいない。だから俺は親父のおかげでもっと他のことをたくさん知っていることを自慢したし、少しばかり誇りに思っていた。親父は国際テニス連盟だか何だかいう組織のメンバーだった・・・。そうだ!ATPだ!76年から77年にATP週刊国際テニスっていう週刊紙が送られてきていた。たぶんデンマークでそれを読んでいたのは俺たちだけだったと思って間違いないと思う。それを(ラーズの所属するテニスクラブ)HIKまで持っていった。それは毎週16ページ、テニスについて書かれていた。それからクラブにはデンマークのテニス雑誌が3ヶ月おきにやってきた。他のクラブの選手はみんなそこから選んでいたから、ビョルン・ボルグについてはデンマークの雑誌で読むことがあった。一方、俺はと言えば英字新聞もあったのさ。クラブの他の連中よりもテニスについてより詳しく知っていたんだ。欠けていたのは他の駆け出しの選手たちのように上手にプレーできなかったってことだけ(笑)。でも俺はもっと夢中になっていたんだ。」

    ラーズ・ウルリッヒは本当にテニスの全ての面において夢中になっていた。自分の部屋で自分のテニストーナメントを作ってしまうまでに。

    「俺と友だちのピーター・スタースと何ヶ月も「机上テニストーナメント」を一緒に作っていたよ。32人の名前を挙げて、スイスのバーゼルで1週間開催するテニストーナメントを作った。ランキングリストから選手たちを組んで、選手の名前を選んでから小さなティーカップを引くんだ。だから700は違うセット数のティーカップがあった。6-3とか4-6とかそういうの。週末はそれにかかりきりだったね。」


    ラーズがビラスの名前で、もし負けているセットのティーカップを引いたときズルをしなかったかどうかは教えてくれなかった。「それはピーターにきかないとダメだね。」ラーズはいたずらっぽく笑ってそう答えた。

    10代のラーズは自分のテニスにますます集中していった。彼は学校からまっすぐPhister通りのテニスコートに行って、数時間のあいだ、そして学校のなかでさえもテニス選手として過ごした。

    「最後の数年間は学校との取り決めをした。俺たちがスポーツをする時、週に2回はあったんだけど、俺は砂利の上で走り回る代わりにHIKでテニスをしてもよいとお墨付きをもらったんだ。悪くないだろ。」ラーズは言った。彼は時おりハートマン通りのクラブショップにいたり、試合に備えてテニスコートを取っておいたりしていた。彼はコートが空いていたらすぐにテニスをした。ほとんどの時間は彼の優秀ないとこで、後にデンマークのナショナルチームの選手となるステインと一緒に。

    「ラーズは自分のテニスに時期尚早なくらい集中していたよ。彼は13歳だった。当時のデンマークを振り返ると、多くの人たちはテニスにそこまで集中していなかった。彼は日に2時間はテニスをしていた。俺なんかよりずっと多くやっていたし、ある時点では俺よりも上手かった時さえあった。あまりの熱心さに少し驚いたよ。「何であいつはそんなに集中できるんだ!?」って。あれは普通じゃないんだって思ったね(笑)。かなり印象的だったよ。」
    ステイン・ウルリッヒはそう語る。

    ラーズは昔ながらのテニスの平均的な練習マシーンではなかった。ラーズが他の人とトレーニングをしていると、強調した言い方で「ラーズ!集中集中!」という声がPhister通りに響き渡った。叫び声はほとんど錯乱状態の女性トレーナー、ロス・ジョーンズのものだった。

    ステインはうなずいて回想する。「ラーズには俺たちとは全然違うテクニックがあった。ロス・ジョーンズは俺たちにとても昔ながらのテニスを教えようとしていた。そして単にラーズを見限ったんだ。彼は極端なトップスピンを使っていたビョルン・ボルグとギリェルモ・ビラスの好きなところを真似しようとしていた。ラーズがやっていたことは技術的にはいいものじゃなかった。でも彼はたくさん練習をしていたよ。うまくなるために集中していたんだ。」

    ステインはソファから立ち上がると、エアテニスでラーズ独特のスタイルのストロークを実演してみせた。それからまた座るとこう続けた。「ラーズは練習時間で何も得ることはなかった。他の子や父親、父親の友だちと一緒の練習で腕を磨いた。真夜中にテニスをしに行く方法をみつけて、次の日ラーズは学校を遅刻して来るんだ。それからまた真夜中にトレーニングさ。それはバックハンドのストロークの練習と同じくらい重要だったんだけどね。彼はそれを知る必要があったね・・・。」

    「テニス選手として、トーベンは伝統的スタイルで、基本的に昔ながらのプレーだった。でも別のスタイルも発展させていた。予測を元にプレーしたり、新しい要素や動きを加えたりしていた。ちょっと芸術的かもしれないね。そしてトーベンは誰でもラーズみたいにプレーするのはたやすくできるとわかっていたので、もっと違った規律あるやりかたでプレーするように勧めていたんだ。トーベンはラーズをしっかりサポートしていたよ。」

    ステインは振り返る。「それがトーベンとローンが持っていたもうひとつの素晴らしい手腕なんだ。彼らはラーズをサポートして、あれやこれやと口出しせず、ラーズが考えていることに注意を払っていた。もちろん、そうして彼らは彼を導き手助けしようとしていたんだ。でも彼はテニス選手としての方向へ進みたかったんだ。」

    両親にとって、とりわけトーベンにとって、彼ら自身の豊富な体験とラーズのテニスの上達ぶりには開きがあった。両方ともバランスの重荷となり、自然と彼のモチベーションは別の興味、つまり音楽へと傾いていった。

    父親とは違い、ラーズは真剣勝負のプロスポーツの経歴と音楽の経歴を併せ持つことはほとんどできなかった。彼がテニスに打ち込めば、国内あるいは国際レベルまで上手くなったかもしれない。必要だったのはよりいっそう多くのテニスの練習と、よりいっそう多くの有酸素運動と食事制限だけだった。昔ながらの、芸術的で、別のやり方で、あるいはさらにぎこちないテニスで。

    「ラーズの母と私は、ラーズがある時期にはとても優秀だったので、どれだけテニスをやらなければならなかったのか自分で気づいて欲しいと本当に思っていた。」
    トーベンはそう考えていた。「私が同じ年齢だった頃のように身体的な努力をしていたら、選手として進化していただろうね。(自分自身を振り返ってみると)あれだけ練習をする選手はそう多くない。20年後には状況はすっかり変わっていた。テニススクールはあるし、奨学金で世界中を廻れるようになったんだ。」

    「ラーズがフロリダのテニススクールに行った時、興味を引くものに基づいてのことだったから、彼は挑戦するのを後悔しなかった。そこで私たちはラーズがあの学校に戻りたがっているのか、あるいは音楽にも関心があるから、たとえもうテニスができなくなっても充分と思っていたのか、チェックしなければならなかった。」


    そうして決断は下された。79年6月、ラーズは学校の試験が終わったらすぐに、テニスの経歴で重大な試みを行うこととなった。79年夏のはじめ、彼はフロリダ州サラソタの近くにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーに送られたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

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    父トーベンとテニスコートに立つラーズ・ウルリッヒ

    たしかに当時のボルグもビラスも長髪イケメン系で成績も言うことなし。当時のテニス界でスターだったのもうなづける。
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    左:ビョルン・ボルグ、右:ギリェルモ・ビラス

    ラーズの自慢癖は後にNWOBHMでも発揮されるのかと思うとニヤニヤがとまりません(笑)
    いよいよ次回で第1章デンマーク編は最後になります。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズが「楽器」を始めた頃のお話。

    - ロック・ミュージシャン誕生 -

    7歳の誕生日に(ラーズのいとこ)ステインは赤いエレキ・ギターとワウペダルをもらった。ラーズはそれを「クールだ」と思った。ステインはラーズにひっきりなしにギターを持っていいか尋ねられたと振り返る。ラーズはこの頃からすでに説得の達人であったため、ステインのギターを自分のものとしたのは当然の成り行きだった。つまり、ラーズはジョン・モーエンセン(訳注:デンマークのピアニスト、ソングライター)のデビューアルバムと交換したのだ。

    実際に真剣に音楽の方向に進む最初のステップは、学校で授業を取ることだった。そこでラーズは音楽の授業でギターのレッスンを受け始めた。今からそれを振り返るとラーズは吹き出した。ギター・レッスンはすでにロック愛好家だった少年にとっては滑稽な挑戦だったのだ。

    ラーズは笑い声を沈めると、笑みをたたえたまま、Maglegaard小学校で音楽教師レイフ・ダールガード(Leif Dahlgaard)の教え子として過ごした頃のことを興奮して話した。「俺はギターを習いに行った。出来はまあまあ。ギターを演奏している時、ギターを左足のどこに置いたらいいのか分からなかった。スパニッシュ・ギターみたいに3冊の本の上で片足立ちでいるみたいだった。そうやってみたけど(ラーズはエアギターでその様子をまねながら)それがギターの全てじゃない。全然ロックじゃなかったからやめたよ。それだけが原因じゃないけど、それが実際にドラムを始めた理由だね。」

    ドラムセットは持っていなかったが、1974年から1975年のあいだラーズは「バンドで演奏する」のが好きだった。

    「そう、バンドを始めたんだ。テーブル・フットボールの台をキーボードに見立てて、段ボール箱と箸をドラムセットみたいに塗って、リードシンガー用に特別なほうきの柄を用意して、2つのテニスラケットはもちろんギターとベースさ。そうやってバンドを始めたんだ!いろんな「楽器」を試しては考えていた。一度リードシンガーも試したんだ。Dunlopのテニスラケットを持ってね。でも結局、段ボール箱に落ちついたよ。」

    段ボール箱と絵筆がその場しのぎの最初のドラムセットになった。ラーズはそれをあたかもヘヴィなロックビートを奏でるチャンピオン、ディープ・パープルのイアン・ペイスばりに振り回していた。ラーズの叔母、ボーディルが「あの子が食事をしているとき、いつもあらゆるものを叩いていたのよ。ナイフとフォークでグラスとかお皿とかをね。」と語っているあいだ、父トーベンは鍋とナイフやフォークを使ったドラム癖を直させたことも思い出していた。

    しかし、12歳の少年と仲間たちがバンドの真似事をしていた頃に、本当のドラムセットを手にするまでは長い道のりだった。

    「一番最初に演った曲はスウィートの「Ballroom Blitz」だった。ステータス・クオーやスレイド(Slade)、そしてディープ・パープルの曲もあった。Lundevangの俺の部屋か、ローウラライ(Raageleje)の小さな2階の部屋に集まってた。金曜日の午後はステインとピーター・タルベックって子と他の子たちと外でステータス・クオーのライヴレコードの全曲を演ったのを覚えているよ。俺たちがやっていたのは、部屋まで「楽器」を持っていくってことだった。どんな季節でも、できるだけ暑くなるように暖房をいじってた。だから5分か10分もしたら汗が噴き出してくる。それがステージにいるみたいに思えたんだ。たぶんそれが最初の足掛かりになったと言えるんじゃないかな?」

    ラーズは少し考えてから続けた。「どうやってドラムを始めたのか本当はわからないんだ。親父の友だちの一人だったクラウス・ボイエ(Claus Boje)って人が俺に衝撃を与えたんだ。彼はアイスホッケー選手でありドラマーだった。ある時期、ホッケー選手とドラマーはまったく同じだと思ったんだ。ホッケー用のスケート靴を持っていたし、ゲントフテのスケートリンクに行っていたよ。75年から76年あたりかな。そしてもう一人、親父とよく集まっていた人がいた。彼の名はアレックス・リール(Alex Riel)。彼はNHOP(デンマークのベーシスト、Niels-Henning Orsted Pedersen)のドラマーで、コペンハーゲンに来ていた外国人ジャズマンのひとりだった。彼はデンマークのドラマーとして1位にランクされた人だった。彼にも本当に衝撃を受けたね。」

    「俺がお祖母ちゃんにひざまずいて本物のドラムキットを買ってくれるようお願いしたっていう身内じゃ有名な話があるよ。ジョン・ハートヴィ(John Hartvig)っていう店があって、たしか街でいくつかドラムを買ったところだと思う。イアン・ペイスが何年も持っていた銀色に光るドラムみたいだった。でもそれはイアン・ペイスとステータス・クオーのジョン・コーラン、あとちょっとボーナム(ツェッペリンのジョン・ボーナム)も入った感じの同じセットアップだったんだ。バスドラム、タムタムがあってタムドラムが2層になってる。あれは当時のワルがみんな持っていたものだった。」

    「そうやってイカしたドラムキットを手に入れて、地下室の自分の部屋に置いたんだ。そこに座るだけで楽しかったし、自分もドラムが演奏できると想像していた。あれは76年夏のことだった。ただ、あれは遊び場の一部だった。そこまで真剣なものじゃなかった。わかるかい?でもブラック・サバスのアルバム『Sabotage』の「Hole In The Sky」を演奏していたのを覚えているよ。」

    ラーズ・ウルリッヒの初めての聴衆のひとりであるステインは当時のドラム演奏を振り返る。

    「あの部屋は家族が地下室に住むようになってから、(家族が生活している部屋から)遠く離れてはいなかった。でも少なくとも両親がドアを閉めればラーズがやかましくできるくらいは離れた部屋だった。ディープ・パープルの『Made In Japan(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)』に挑戦していた。『Burn(邦題:紫の炎)』を「Burn」からB面の「Mistreated」まで演ってたこともあったっけ。彼は数年間、ドラムを演奏することはすごいことだと思っていた。それから先に進んだんだ。」ステインはそう付け加えた。

    「音楽はテニスほど重要ではなかった。」とラーズは言う。「その頃を振り返ると音楽のために生きてはいなかった。自分ではテニス選手になることを想像していた。親父のように、音楽は趣味に過ぎなかった。」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

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    ドラムを打ち鳴らすラーズ少年

    小さい頃から交渉に長けていたり、聴く側だけではなくすでに演る側としての楽しみを追求していたり、と現在のラーズの片鱗が垣間見れるエピソードでした。

    はじめてバンドの真似事をした曲、スウィートの「Ballroom Blitz」はこちら。


    次回はラーズが将来の仕事と考えていたテニスとの関わりについて。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。キッスとリッチー・ブラックモアに関する思い出話。HR/HM界の公然の秘密が明かされます。

    70年代も終盤になると、ラーズが興味を抱いたアグレッシヴなパンク・ウェーヴがやってきた。しかし、まずは70年代に多く現れた長髪の恐るべきバンドたちに話を戻さなければならない。

    1974年、アメリカでデビューを遂げたバンド、キッス。世間に認められていた批評家たちは彼らを嫌っていた。(後にハードロックのジャンルの進化を示すものとして逆に認められた。)しかしバンドは増え続ける熱心なファンを惹きつけていた。キッスのイメージといえば、コミック雑誌に出てくるようなヒーローやホラー・キャラクターが混ざった変装をして−少なくとも当時は−とんでもなくヘヴィで、リフ・ベースの曲とセックス、おふざけ、密通についてのキャッチーなフックを持ち、それはほとんど10代男子のファンタジー・ロックの最終形と言えるものだった。Lundevang通りのジャズ文化に浸った巨大な家に住むあの少年の部屋のなかにもそれはあった。

    それから1975年に出たキッスのライヴアルバム『Alive!』は当時制作されたヘヴィ・ロック・シーンの全て可燃物に火をつけるほど危険なものだった。その後、キッスがデンマークで初めてコンサートをすると発表したとき、とりわけラーズに火をつけた。残念なことに、ラーズは北ユトランドのフェレッツレヴへのサマーキャンプに登録されていた。実に残念なことにラーズのためにキッスが地元のフェレッツレヴのホールでライヴを行うことはなかった。最も由緒ある劇場地区、コペンハーゲンのフレゼレクスベアにあるフォークナー・シアターで行われたのであった。

    しかしラーズはただの6年生の少年ではなかった。オープン・マインドな両親が支えている彼は何よりもまず先に一人のファンであった。彼は独りでスクール・キャンプを電車に乗って離れ、キッスのコンサートを観て、その後のサインをもらう追っかけのためにコペンハーゲンまで行くことを許されたのだ。

    いとこのステインはラーズと共にそのコンサートに行き、その夜に最高潮だったことをハッキリと覚えている。

    「フォークナー・シアターは俺たち初めてだった。ライヴ後に俺たちはバンドの車をひとめ見ようと外で張っていたんだ。実際に車は見たけど、窓のなかまでは見ることができなかったよ。だからその代わりにシェラトン・ホテルまで急いだんだ。彼らはそこに滞在しているっていう噂を聞いていたからね。そうして待っていた。車が到着すると、彼らはメイクを取っていた。ポール・スタンレーとジーン・シモンズがメイクなしだぜ!!可笑しかったし、メイクを取った彼らを見るのはかなりスリルがあったね。」最も多くの神話を創り、実行に移した神話が創られていったロック史におけるスタント、一貫してメイクをしたロック・スターであるキッスのイメージについてステインは語った。

    それはたしかにステインと、しつこいほどのキッス・ファンであるラーズにとって最高の出来事だった。それからラーズは、すぐに電車で北ユトランドのスクール・キャンプに戻っていったのだ。

    この真っ正直なファンの物語は、頑強で献身的なロックファンとしてのラーズの驚くべき進化の始まりに過ぎなかった。

    ロックファンであった当時のラーズにとって、ガッカリする出来事もあった。ガッカリしたことのひとつが起きた日のことを彼はハッキリと覚えていた。「親父はステインがアメリカを経験すべきだと考えていたので、77年の秋休みの頃に俺たちを呼び寄せたんだ。俺は本当に楽しみにしていた。でもリッチー・ブラックモアズ・レインボーがコペンハーゲンでコンサートを行うことになっていた。俺はアメリカに行けない。だってデンマークに留まって、リッチー・ブラックモアを観なきゃならなかったからね!」

    こうして、その年の秋は2人ともアメリカには行かなかった。しかし話はここで終わらない。

    ラーズ「レインボーのコンサート3日前に、ブラックモアがキャンセルしやがったんだ!誰かが風邪を引いただか、病気になっただか、そんなようなことだった。だからその代わりに友だちみんなを誘って一緒にリングビーまで映画を観に行ったのを思い出すよ。」

    不十分な慰みと巨大な失望感のなか、ラーズにはひどい後ろめたさが残った。「その後その年にステインは一緒に5週間アメリカに行った。でも俺は罪悪感を感じていたよ。」

    しかし、リッチー・ブラックモアのキャンセルの理由は言われていたものとは全く違うものだった。12年後、ラーズはずっと賢くなり、自身でファンを惹きつけるようになった時、ディープ・パープルのデンマークとスカンジナビアのコンサートを担当していたプロモーター、エリック・トムセンと会った。

    「俺はエリック・トムセンに77年にあったことを全て話したんだ。アメリカへの旅行をあきらめたこと、リッチー・ブラックモアが病気か何かだったことをね。そしたら彼は俺にすぐに本当のことを話してくれた。ブラックモアは病気でも何でもなかった。彼はとうとう植毛の予約をしたんだ!それでブラックモアはスカンジナビアの全ツアーをキャンセルして、どこかから髪を取ってきて、生え際だかどこかにつけたんだ!あれは俺のなかでリッチー・ブラックモアのバブル崩壊が起きたよ。」
    とラーズは言う。

    そう、ブラックモアはギターのカリスマであり、77年の秋に失敗を犯した。しかし一方で、彼はロックシーンに新しく、より若く、よりワイルドな名前を持ちこんだ。パンクはその年、1977年に爆発した。センセーショナルなイギリスのバンド、セックス・ピストルズは実質、全てと言っていいくらいの人やものに対して反抗と侮蔑を先導した。セックス・ピストルズは77年7月にコペンハーゲンと今はなきダディーズ・ダンスホール(Daddy's Dance Hall)の地下フロアを訪れコンサートを行った。同じ頃、13歳のラーズ・ウルリッヒはオッド・フェロー・マンション(Odd Fellow Mansion)で長髪のアメリカ・パンクロックのパイオニア、ラモーンズのコンサートに行った。パンクは全く新しい若者たちのグループを新しく定義された環境へと惹きつけた新しい音楽シーンだった。ラーズはただのロックファンであり、サブカルチャーやアイデンティティーについて深く考えることはなかった。ただコンサートに出かけ、音楽を聴き、シーンを体験したのだ。

    ラーズ「もちろん、ダディーズでセックス・ピストルズを観る人たちには、俺がチボリでシン・リジィを観ることとは違う他の考えや意見を持っているってことがわかってきた。でも、だから何だってんだ!俺はセックス・ピストルズよりもラモーンズが好きだったんだ。「Commando」や「Now I Wanna Sniff Some Glue」の曲のなかにはヘヴィメタルなリフがある。でも全ての音楽には密接な関係がある。俺はロスキレ・フェスにも行って、78年にはボブ・マーリーを観た。「アイドル」(後にラーズのヘヴィメタルの師匠となるケン・アンソニーのこと)がいる、よく行っていた一番身近なレコード屋に入ったときに言ったよ。「ボブ・マーリーのレコードだって言うから、『Babylon By Bus』や『Exodus』を手に入れることさえできなかった・・・。」そしたらケンは「あんなものどうしろってんだ?」って言うから、俺は「参ったな、俺はレゲエだって確かに好きなんだぜ!」って答えたけどね。そういう全ての異なるもの、分離し始めた独立したシーンには・・・俺はたどり着けなかった。父トーベンとその音楽、オープンな心、そういった全てのものなしに今の俺みたいには育たなかった。」

    ラーズは70年代を通じて、ロックとヘヴィメタルに対する情熱を深めた。彼は憧れの人たち全てのサインを持っていたし、目の前で演奏するのを観てきた。さらにはメイクなしのキッスも観た。しかし、ラーズ・ウルリッヒは演奏者としてはどうだったのか?ドラマーとしてはどうだったのだろうか?我々は再び1970年代終盤、ラーズが初めて楽器を手にした時まで時計の針を戻さなければならない。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    1983年の『Lick It Up(邦題:地獄の回想)』で素顔をさらすまで公には「マスク」のままだったキッス。
    Lick_it_up_cover
    キッス『地獄の回想』


    それよりも前にキッスの素顔を見られたのはファンとしては貴重な体験だったことでしょう。そしてリッチー・・・それが理由で公演キャンセルってマジかよ・・・。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。今回はラーズのバイト生活や最も影響を受けたディープ・パープルとの出会いについて書かれています。

    - 自由に甘やかされて -

    たしかにラーズ・ウルリッヒは裕福に暮らし、映画やコンサートや世界をまたいだ旅に連れて行ってくれる素晴らしい家族と暮らした一人っ子であった。しかしデンマークの家ではお小遣いを自分で稼ぐ方法を見つけなければならなかった。

    「両親から完全に自由だった。もちろん自分のお金をいつも補填していた。一年中、テニスに出かけ働いていた。Hartmann通りのHIKのショップとかその他の店でクロックムッシュ(訳注:チーズとハムを食パンに挟んでトーストしたホットサンド)、リコリス菓子、ゼリー、コカコーラ、水を売っていた。午後にはそこに行っていたよ。水曜日には新聞・雑誌(Villa CitiesとGentofte Magazine)も配達していた。それが70年代に俺がBristol Music Centerであらゆるイカしたレコードを買うためにお金を稼ぐやり方だったんだ。

    俺は何かを買うにはお金を稼がなければならなかった。そして、俺はそれに慣れっこだった。親から自由を与えられていたけど、ラクラクと自分のお金を得ていたわけじゃ決してなかったんだ・・・。」

    いとこのステインはラーズと一緒にチラシ配りをすることもあった。またあるときにはテニスコートで相手をすることもあった。変わったこととしては、ラーズはテニスコートを練習や試合用に整備するグラウンド整備員としても働いていた。

    それがラーズにとって天から降ってくるわけじゃないお小遣いを得る道だったのだ。ラーズ自身が語っているように「自由だけが俺を甘やかせた唯一のこと」だった。自由は、彼が本気で獲得するやり方を順に知っていった要素だった。特に(レコードが欲しいと)涎をたらした音楽ファンとして。

    1973年2月にKBホールで行われたディープ・パープルのコンサートでロック、そしてハードロックを好きになり始めたとラーズはいつも語っている。しかし、実際はそれ以前の1969年夏にロックコンサートに出かけている。ウルリッヒ家がトーベンのウィンブルドン出場のために7月初旬にロンドンに滞在中、5歳のラーズは新聞の興味をそそるある部分に目星をつけた。そこには長い髪の男たちの写真が・・・。ラーズはその新聞記事をいぶかしげに指差して母親を見て尋ねた。「お母さん、これなあに?」

    ローン・ウルリッヒは新聞をつかむと、ローリング・ストーンズと呼ばれるバンドが街でコンサートを行うという記事を読み上げた。ラーズは即座に「行きたい」と叫んだ。それはウルリッヒ家での定型的な率直でざっくばらんな表現だった。ローンは答えた。「わかったわ。でも独りで行くのは大変よ。わたしも一緒に行きましょう!」幸運で風変わりなヒッピーやロックファンたちが集まったハイドパークでのストーンズのコンサートへ5歳の息子と母親、トーベンと彼のテニス仲間である南アフリカのレイ・ムーアと一緒に行った。レイ・ムーアは1973年2月10日、コペンハーゲンのKBホールで行われたラーズが初めて観たハードロックのコンサートにも同席している。

    ラーズ「KBホールで開催されるテニス・トーナメントに行くという話だった。トーナメントの開催前の日曜日にテニス選手はコンサートに招待されていたんだ。父とレイ・ムーアがそこにいたのを覚えている。父とレイ・ムーアは同じ音楽嗜好や見方を共有していた。レイはそんなヒッピーだった。」

    たとえジャズが数十年間、我が家を特徴付けていたとしても、多くの異なる音楽的表現−ロックあるいは彼らがビート音楽と呼んでいた音楽の目覚しい発展−にいつもオープンだったのだ。そしてそれらは60年代、Lundevang通り12番地の音楽領域の一部まで広がり、支持されていった。レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ディープ・パープルのような開拓者たちの名前は、後にロックをよりハードでヘヴィな方向に向かったバンドたちの地ならしを助けた。特にディープ・パープルは、今でもラーズのハードロック界への旅路として存在していた。

    2月の魅惑的な夜の啓示と両親から与えられた素晴らしい自由は9歳の少年に強い結びつきをもたらした。しかしすでにラーズ・ウルリッヒは快活で行動的だった。独りでコンサートに行き始めるのにそう時間はかからなかった。付き添いもなしに次のディープ・パープルのコンサートに出かけて行ったのだ。

    ステイン・ウルリッヒは我々に語った。「ラーズと俺は6歳か8歳の頃にはディープ・パープルのレコードをすでに持っていた。ラーズのお爺さんがいるローウラライ(Raageleje)の夏の別荘に行っては、ディープ・パープルでエアギターとエアドラムで完全に狂ってたよ。そりゃもう、汗いっぱいかいてね。エアギターをたくさん弾いた後はお風呂に入らなきゃならないほどだった。ある日、ラーズは俺を呼んで、KBホールのディープ・パープルの公演に行きたいか尋ねてきたんだ。そんなこと考えもしなかったよ。だからラーズに連れて行ってもらったんだ。」

    1973年12月9日、デイヴィッド・カヴァーデイル、グレン・ヒューズが新加入した第3期ディープ・パープルの初めてのコンサートだった。「あの日はカー・フリー・サンデーだったね。」ラーズは前述したオイルショックを回想していた。

    その当時、(普段使われている)貴賓席は舞台に変えられていたため、ディープ・パープルが現れる貴賓席は2階へと続く席となっていた。若き少年2人はさも当然かのようにその席の隣に座る機会をつかんだ。

    「俺たちはコンサートのあいだ、ほとんどそこに座っていたんだ。」ステインは熱を帯びて続ける。「バンドがアンコール前に休憩でバックステージに戻る時、彼らは俺たちのすぐそばを歩いていったんだ・・・俺たちは彼らが通れるように足をどけなければならなかった。それでリッチー・ブラックモアがさ・・・彼が俺に手を差し出したんだ!彼が俺にだぜ!!」

    それはヘラルプへ帰るバスの中でも話されたことだった。どうにかしてロックないとこ同士2人はLyngby駅までたどり着いた。そこはステインによると「すっごい興味のわく」ある女の子と出会った場所であった。彼らは駅前の駐車場で1時間ほど過ごし、少しばかりナンパをしていたのであった。

    ステインは笑う。「あぁ、あそこで馬鹿げた時間を過ごしたよ。家に帰ったら怒られたのさ。」

    自由には責任が付きものだ。それはウルリッヒ家もしかり。次の年、いとこ同士の2人はコペンハーゲンのコンサートに歩いて行くことを許可された。たとえ反対側の街外れであろうと、ディープ・パープルが1975年3月20日にブロンディ・ホールでコンサートを行った時は、ラーズはコペンハーゲン中央駅のロックスター御用達のホテル・プラザまで新メンバーのカヴァーデイルとヒューズのサインをもらいに行ったのである。

    疑う余地も無い。ディープ・パープルは若き日のラーズの人生にとって最も重要なバンドだったのだ。73年2月に初めてコンサートを観てすぐに、ラーズはレコード店に駆け込み、ディープ・パープルのLP『Fireball』を買った。発掘すべき新しいものだった。そして(リッチー・ブラックモアと)ほとんど目と鼻の先だった、もうひとつのお気に入りのコンサートの後、音楽の炎は絶対的なファンになり始めた少年たちの中で燃え上がった。ラーズはいつも音楽を聴くのを楽しんでいたが、ますますファンとしてのふるまいに磨きがかかった。次から次へとレコードを買い、コンサートに行き、サインをそろえていくのであった。

    70年代、ブラック・サバス(ラーズは1973年のクリスマスに『Sabbath Bloody Sabbath(邦題:血まみれの安息日)』のLPを手に入れた)、AC/DC、シン・リジィ、UFO、ステイタス・クオー、そしてリッチー・ブラックモアズ・レインボー(ディープ・パープルの後、ギターのカリスマが立ち上げたプロジェクト)など、キッズが献身的なファンになることのできた良いバンドをみつけることはそう難しいことではなかった。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    しかし、その若さでナンパとは(笑)

    73年に父親に連れられて行った、ラーズにとって初めてのディープ・パープル公演でラーズと会ったことをグレン・ヒューズは覚えていたようです。そのときのグレンの回想。

    グレン・ヒューズ
    「(前略)俺は73年のディープ・パープルのコペンハーゲン公演でラーズと会った・・・。彼は俺のサインを欲しがっていた。俺は何て若いんだと思い、直接彼と彼のお父さんのところに向かったんだ・・・。惚れ惚れしたね。(後略)」

    グレンは2011年、自らディープ・パープルの本『Deep Purple & Beyond: Scenes from the Life of a Rock Star』を出したときにラーズにサイン付き限定版を送っています。

    lars_glenn
    限定本をSonisphereFestival2011のバックステージで受け取るラーズ

    GlennHughes.com(2011-07-09)

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。大きな家に住んでいたことによって、ラーズの性格形成に及ぼした影響について。なかなか音楽の話が出てこない、マニアックなラーズのルーツをどうぞ。

    - 人とは違う毎日の生活 -

    たとえラーズが長期間旅行に出て欠席をしていたとしても、クラスメートから特別レッテルを貼られるようなことはなかった。彼はあまりに違うリズムの生活をしていたのだ。それは両親の国際人的な生活のためだけではなかった。

    Lundevang通り12番地の自宅には、慌しい朝もなければ、時間通りにしろとしつける両親もいなかった。朝食はもっぱら独りで食べ、早朝には時計から目を離さないようにしていた。

    ラーズは語る。「両親とかに何かしら反抗を示すようなことはなかったね。親友みたいなもんさ。でもあの頃を思うと、俺はかなり早くに完全に独りで何とかすることを学んでいた。俺は朝のルーティーンを独りで確実にやり始めていた。7時に起き、オートミールを作るために階下に降りる。毎朝同じことをね。母さんはいつもオレンジジュースを絞って前夜に冷蔵庫に入れてくれていた。だから果肉はいつも底に沈んでいた。俺はいつもちゃんと混ざっているか確かめていたっけ。でもあの一杯のオレンジジュースは最高だったよ。オートミールを作れるようにSolgryn(訳注:オートミールの商品名)と計量カップは大概出しっぱなしだった。皿とかバターのかけらとかも・・・。母さんは俺が学校に行く前に摂る昼食を前の晩にいつも詰め込んでいた。」

    自分への躾の結果として、ラーズは日付・時間・数・早く着席することに集中した。学校へ行く途中、家からMaglegaard小学校のあいだにあるヘラルプ駅の時計をいつも見ていた。

    「俺が自転車で駅を7:53に通れば、ぴったりに着くんだ。もし7:54だったら、ちょっと遅れている。7:55だったら、よろしくないね。」とラーズは言う。

    「彼は時間通りに着くことに集中していた。集中するのは本当にすごかったね。」従兄弟のステインはそう付け加えると、すぐに別の例を引き合いに出した。「ラーズは、10歳から12歳の頃には、アメリカン航空の運航スケジュールをそらで暗記していたんだ!あんなものをわかってたんだぜ!俺に112ページぐらいに載っている、日に4回あるいは今と同じくらい運航していたシアトル発サンフランシスコ行きの便について俺に言ってみせるんだ。あいつはいつも自分を管理していたし、管理しなければならなかったんだ。」

    ラーズはヘラルプ駅から中央駅までのあいだ、本当に時間のことで頭がいっぱいだったのを思い出していた。自分のとても計画的なふるまいや熱情をコントロールしてきたことは、子供の頃に放っておかれたところから来ていると今日でも彼は信じている。ざっくり言えば、彼は自分の人生をコントロールし続けなければならなかったのだ。両親が何かしてくれるとは期待できなかったために。

    「でも否定的な意味で(親が)必要ないっていうわけじゃないんだ。両親は彼を放っておいたわけじゃないからね。」ステイン・ウルリッヒは語気を強めた。「彼の両親は別のことに重きを置いていた。例えば、「おまえはこれを見なきゃダメだ!」と言って彼をジャズのコンサートに連れて行ったり、ジャズについて教えたりすることで彼の面倒をみていたんだ。だから、彼の面倒をみていなかったから、必要ないってわけじゃない。彼の両親は別の生活リズム、別のやり方で子育てをしていたんだ。」

    自立した子供時代に、ラーズは自分で何とかやっていき、後に自分をコントロールすることを学んだ。それは1973年10月に起きた、かのオイルショックも彼の理性ある基本的感覚に長く影響を及ぼした。オイルショックはガソリンと燃料不足を引き起こした(これに従い、デンマークではいわゆる「車無しの日曜日(カー・フリー・サンデー)」が導入された)。その現象はLundevang通り12番地の大きな家にも特にあてはまる事態となった。

    ラーズ「俺たちは大きな家を持っていた。もちろんオイルショックのあいだ、暖房は節約した。寝室とバスルームと階下の家族の部屋だけ暖房をつけた。そのときにドアをちゃんと閉めることを学んだんだ。そんなだから、今じゃアメリカ人といるときは特に(ドアを閉めてくれと)あがくはめになっているよ。ドアを開けなければならないときは、熱を逃げさないように再び閉めなければならないことを意味するってことを叩き込まれたんだ。暖房のかかっていない部屋がたくさんある家のなかでは、ドアを閉めることをすぐにでも学ぶってわけ。

    俺にとってはいまだにその影響があって、部屋を出るときはドアを閉めて明かりを消すのもそうさ。それで妻とさえ問題が起きる!家では、英語で言うところの「Shutting the House Down(窓閉め/電気を消す)」が進行中なのさ。毎晩寝る前に俺は家をくまなく廻って電気を消し、ドアを閉めていく。誰もやらないからね。アメリカでは部屋に入って電気をつけて、また部屋を出るときは電気を消さない。俺はそれとはまったく真逆なところで育った。1973年のいまいましいオイルショックから端を発しているのさ。」


    ラーズに影響を与えた子供の頃の家について、もうひとつ付け加えるならば、彼は幾度も大きな家で独りでいたということだ。父親がツアー中は通常、母親は祖父母の住むローウラライ(Raageleje)にいたのだ。

    「暗いところは怖くなかったけど、不気味な妄想にとりつかれた。いつも何てことないこともチェックしなければならなかった。ドアを閉めて、クローゼットの中から何から全てチェックしていた。俺がこの話をすると父は大げさだって言うんだけど、少なくともかなり早くから自立する方法を学んだ。週末36時間は独りで家の中をぐるぐる移動していたよ。

    そしてそこから不気味な妄想に行き着くんだ。いまだにそういうものがある。今日も家に帰ったら、全ての部屋と窓をチェックして、クローゼットに誰かいないかチェックするんだ。長い手順になるよ、特に今みたいな大きな家に住んでいるとね。3つあるゲストルームのクローゼットの中とかそういう諸々に誰もいないことをチェックする。家全体を見廻るには毎晩15分はかかる(笑)」


    ラーズは子供の頃からとりつかれた妄執を心から笑う。もちろんあの家は、主に人々と暖かさにあふれていた。ユニークなウルリッヒ家はたしかに退屈することはなかった。

    音楽、テニス、旅行の繰り返しというおなじみのラーズの人生を飛び越え、父親が不在中に母親としばしば養われたずっと見落とされてきた情熱もあった。映画である。

    「俺は映画にいつだって興味を抱いていた。父が4、5、6週間とツアーで不在のとき、母と一緒に映画館に行っていた。いとこのカレンはトライアングル・シネマのチケット売り場で働いていたから、いつも俺たちのために無料チケットを用意してくれていた。もちろん70年代の話だけど、あの頃は毎日新しい映画が上映されていた。75年・76年の夏休みなんかは週5回は映画館にいたね!PG-12とかR15とかは俺のいとこが入口にいるときには大して意味がなかった。もちろん俺たちはホールの真ん中でチケットをもらうんだ。

    母と俺は上映前に食事をとっていた。Osterbro通りの右側にあるカフェテリアに駆け込んで食べていた。ベアルネーズソースとグリーンピースが入ったハンバーガーを買ってね。家を6:15に出て、ハンバーガーを食べて、トライアングル・シネマの7時台の上映回で観るんだ。

    『The Olsen Gang』(訳注:シリーズ化されたデンマークのコメディー映画)を観にパレスシネマまで行ったのを覚えているよ。あの映画はいつも秋休みの金曜日に公開で、最初の2時の回の上映には映画館にいられるように最後の数時間の授業をすっ飛ばさなきゃならなかったんだ。

    後に俺は独りで映画を観に行くようになった。ひっきりなしに上映されていた信じられないようなバカげた映画を全部観たよ。『ワイルド・ギース』とか『ナバロンの要塞』とか『激突!タイガー重戦車 最後の砲火』とか『史上最大の作戦』とかそういう戦後に作られたヤツ。あとジョン・ヴォイトが出てた・・・『オデッサ・ファイル』ね!そういう映画ばっかりさ(笑)」


    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    larsulrich_student
    ありし日のラーズ

    さりげなくデカい家に住んでいるところを自慢するのはさすがラーズです(笑)クローゼットまでチェックするのは、後の「Enter Sandman」の歌詞に反映されたのかな等と思ったり。

    ちなみに『オデッサ・ファイル』は管理人がずっと観たいと思っていた(まだ未見の)映画のひとつなんですが、ラーズの中では馬鹿げた映画(stupid movies)にカテゴライズされているんか・・・。

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    ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。前回はラーズの生家にまつわる恵まれた音楽環境についてがメインでしたが、今回は父親トーベン・ウルリッヒがラーズに施した「教育」についての面白いエピソードが書かれています。長文にてお時間あるときにどうぞ。

    - グローバルな子 -

    Lundevang通り12番地は、心地のよい近隣者に囲まれた不思議で素敵な場所だったが、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は世界中を仕事で飛び回っていた。頻繁に夫妻がツアーに出ていたとき、トーベンとローンには確固たる地盤がなかった。トーベンはまだ世界トップクラスのテニス選手だった。彼は60年代後半からベテラン・トーナメントに参戦し、世界を飛び回り、生計を立てることのできた唯一のデンマーク人テニス選手だったのである。

    ラーズは人生最初の1年で、すでに世界を飛び回る赤子であった。

    「俺たちはよく旅行に行った。」ラーズは回想する。「60年代最後の数年は、ヨーロッパ中を廻ったし、アメリカは何回も行った。オーストラリア、フィジー、タヒチまで行ったよ。68年頃にはデンマーク人家族とヨハネスブルグ(訳注:南アフリカ共和国)に住んでいたんだ。どうやら俺はアフリカーンス語(訳注:南アフリカとナミビアで話される、オランダ語の方言から生まれた言葉)を学んでいたらしい。4、5歳の子供にとっては朝飯前みたいなものだったんだな!」

    1970年8月、ラーズはゲントフテ(Gentofte)のMaglegaard公立小学校に通い始めた。シンプルで良きデンマークの学校だ。だがラーズは出席日数についてはあまり気にしていなかった。教室で起きている事よりも、ラーズの両親こそが教育における必須要素であり、真っ当な学習手段だったのである。

    彼の両親は旅行を、ラーズの「教育」の一部とみなしていた。そして家族が家に戻ると、トーベン、ローン、あるいは広大な家にやってくる多くの友人誰しもがラーズに音楽について教えたり、テレビで放送されたことをあれやこれや議論したりするのに時間を割いてくれた。それはしばしば夜遅くまで続き、夜12時をまわることさえあった。そんなわけで、ラーズは時おり数時間遅刻したため、トーベンとローンはラーズの学校への連絡帳に遅刻を正当化する理由を書かなければならなかった。

    「親父は俺が遅刻するのが大好きだったんだ。」
    ラーズはニヤリとしてそう語る。「俺たちは台所に座って音楽を聴くか、何かについて話しながら、親父は連絡帳にこう書くのさ。『ラーズは今日は学校に4時に到着します。これは私どもが彼に深夜までジャズをしっかりと聴かせることが重要だと考えているからです。そして彼のためには寝坊することも重要なことなのです!』」

    ラーズはいったん話を止めると、さらにニヤニヤしながらこう語る。「俺の連絡帳は本当に見事なもんだった(笑)。『すいませんが、ラーズは昼休みも出席できません!!』とかね。親父と俺は同じオルガー・ザイアー(Holger Thyrre)先生だったんだ。だから通学最初の1年、親父は(自分の先生だった)彼にメッセージを書いていたんだよ。」

    さらに学校期間の数年は、尋常じゃないほど多くの旅行に出かけていたが、トーベンは学校に連絡を取り続けていた。

    ラーズは言う。「親父が、俺の教育にとって1ヶ月のアメリカ旅行がどれだけ重要かを説明し、(授業に出れない分の)算数、国語、ドイツ語を追いつけるようしっかり確認するということを書いた手紙を学校査察官のヴィクター・ラインヴァルトさんに送った。だから俺は両親とアメリカに1ヶ月行っているあいだ、母親と一緒にドイツ語や算数の教科書と格闘していたんだ。毎日ね。

    4、5年生になるまでにたくさん旅行をした。1、2回は学校期間のあいだに3週間はここ、5週間はあそこなんてこともあった。刺激的だったし、もちろん最高だった。でも5週間もアメリカにいた後で、学校に戻って、自転車をラックに停めて、「Hej Hej(デンマーク語でHey)」なんて言うのは奇妙な感じだった。

    俺はMaglegaard小学校のCクラスにいる他の生徒みんなとはちょっと違う状況だった。でも、問題なかった。ある意味、全然目立たなかったんだ。特別称賛されるものでもなかったし、ましてやそれで俺が特別クールになったわけでもなかった。だから、振り返ってみると、クールでもなかったし、アウトサイダーでもなかったし、いじめられたようなこともなかった。「へぇ!ラーズがアメリカに3週間行くってよ!」みたいな感じかな・・・(笑)。まぁそんなもんだった。俺が知る限り、それが俺の現実さ。俺はそれがとても変わっているとは思っていない。それがずっと続いていたしね。」


    学校側からすれば、睡眠はラーズに必要というトーベンのドラマチックなスタンスには、おそらくそこかしこで驚かれたことだろう。しかし、教員陣もほとんどの場合、ラーズ・ウルリッヒとその特別なライフスタイルに大きな反対はしなかった。彼の物理学教師、フレミング・ステンサー(Flemming Stensaa)(戦後、ジャズを弾くトーベンの熱心な聴衆の一人でもあった)は回想する。「あの当時、すでに彼はずいぶん学校を欠席していた。(沈黙後)しかし、彼は非常に楽しい生徒だった。勤勉ってタイプじゃなかったが、丁寧で礼儀正しかったよ。彼も両親と家族の良いところを受け継いでいた。」(1994年2月取材)

    かなり特別な彼の両親は、教育において有益でさえあったのだ。

    ラーズは思い出していた。「俺にはかなりイカした先生がついていた。3年間俺についたその先生はジョン・ピーターセン(John Petersen)って人だった。彼は流行に敏感で、親父と一緒にいろんなことに夢中になってた。あるとき、現代社会の時間で教室にウッドストックのアルバムを持ってくるように頼まれた。俺たちがベトナム戦争に抗議するジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌を教室で聴けるようにね。あれは家族が所有しているものだと言っても先生の耳には届かなかったから、俺はあのアルバムを自分のところに持っておかなきゃならなくなった。彼はそういったことでは本当に新奇な人だったよ。Maglegaard小学校の保守的な生徒はたぶん彼はちょっと左寄りすぎると思ったかもしれないけどね。でも彼は本当にそういったものに夢中だったんだ。

    学校に通っていた最後の数年間で、突然そういう右とか左とかってことを理解し始めたんだ。ある時期には核兵器「賛成」か「反対」かどっちだと決め付ける人たちがいた。それで7年生ぐらいに俺たちは核の力についてヤンチャで収拾のつかない議論をしたんだ・・・。俺たち何歳だったと思う?12歳だよ!!でも俺たちは核の力とその将来についての答えをもつ人となったんだ。」

    ラーズが女の子に興味を持ち始めたのも、その歳だった。

    「俺にはたくさんガールフレンドがいた。もちろんそこには同じ学校の子もいた。チネとカトリーヌとは手紙のやりとりなんかしてた。そして、ターストラップ(Taastrup)から来てたマリアンヌ・ハンセン(Marianne Hansen)に首ったけだったね。俺が15歳ぐらいだったかな。彼女は実際にアメリカまで何回か俺を訪ねてきてくれたんだ。後に俺がコペンハーゲンでレコーディングしたときにも通りがかった。彼女はとってもとっても可愛かったね。」

    しかしラーズは18歳になるまで女の子と寝たことはなかった。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

    愛されてるなぁラーズ・・・。
    larsulrich_childhood
    ラーズ・ウルリッヒ、両親と共に

    本人はそれほど変わってないと言ってますが、かなり特殊な家庭環境だったことがこのエピソードからも、うかがい知れます。

    ちなみに文章中に出てきたジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌はこちら。


    その時代に起きていたことをすぐに題材にするなんて何とも楽しげな授業です。

    ざっと見た限り、しばらく続く第1章はデンマーク編のため、ラーズのコイバナは出てこない模様(笑)。やる気が出れば、さらに続きも紹介できればと思いますが、続きメチャメチャ長すぎ・・・。

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    ラーズ・ウルリッヒの母国デンマーク語で書かれた伝記本、『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』を有志の方が英訳してくれていました。

    larsbio

    その冒頭部には、ラーズと名付けられるまでの過程、ラーズに大きな影響を及ぼしたであろう生家について書かれていました。英訳されたものをさらに管理人拙訳にてご紹介します(日本語読みがわからないところはアルファベット表記のままにしています)。長文のため、お時間のあるときにどうぞ。

    第1章 音楽の名における洗礼

    1964年の初め、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻のあいだに生まれた赤子は「ラーズ(Lars)」と正式に名付けられた。名付けられる過程にはユニークな他の名前候補をめぐるやり取りがあったのだが、トーベン・ウルリッヒはそれを覚えていた。

    「マッズ(Mads)かラーズ(Lars)のあいだで悩んでいたが、私はイーベン(Iben)もいいなと思っていた。私たちは必要とあらば、気のきいたデンマーク流の良い名前をいくつか見つけることもできた。(イーベンをミドルネームとして)ラーズ・イーベンかマッズ・イーベンはどうかと私たちは話したんだが、ローンはまだ他のたくさんの名前を候補として探し続けていた。彼女はイーベンは女の子の名前みたいだと考えていたんだ。私は他の候補よりは気に入ってたがね。」

    かくしてラーズ・ウルリッヒが彼のフルネームとなった。家族の別荘があるローウラライ(Rageleje)の近くにあるブリストロプ教会(※1)でラーズは洗礼を受ける。ウルリッヒ夫妻は息子の教父として、家族ぐるみで友人として付き合いのあったアメリカ人のジャズ・サクソフォン奏者、デクスター・ゴードン(Dexter Gordon)を選んだ。

    「デクスターがそれだけ強烈な才能の音楽人だと思ったんだ。それに、そうやってラーズの良き音楽人生を願ったんだよ。ハッハッハ(笑)」トーベンは笑顔を浮かべて「このことについて考えてみると可笑しいね。」とそっと付け加えた。

    同時にローン・ウルリッヒと彼女の両親の良き親友であるカイア・ケーアボー(Caia Kjaerboe)がラーズの教母となった。

    「彼女は劇場の出でね。彼女も強烈な才能を持った人物だったよ。」トーベンは語る。

    しかし、ラーズはすぐに「Knirke(キーキー声の意)」というあだ名を付けられている。

    「ラーズが子供の頃はずっと「Knirke」と呼んでいた。なぜなら子音に「N」がつく発音が出来なかったんだ。あの子にはそれが難しかったようだ。あの頃から「Knirke」と呼んでいて今でもそう呼んでいる人はいっぱいいるよ。」とトーベンは言う。

    この子は世界の至るところにいる善意に溢れた愛情深い人々に囲まれていたのだ。

    彼が子供の頃の家は、ヘレルプ(Hellerup)のLundevang通りに面したおとぎ話に出てくるような4階建て(訳注:地下室含む)の大きく特別な建物(※2)だった。はじめは両親と共に家の最上階に住み、祖父母は真ん中の階に住んでいた。その家には1973年から74年にかけて家族がローウラライの休暇用の別荘に完全に引っ越すまで住んでいた。それからウルリッヒ夫妻はLundevang通りの家をリフォームし、1980年夏に完全にロサンゼルスに引っ越すまで再び家族の普段の住処とした。

    トーベンとローン、そしてラーズは自分たちのLundevang通りの家をより堅固なものとしたが、国際人としてのライフスタイルは決して捨てられなかった。たしかにラーズの子供の頃の家は、ヘレルプの小さな居住地で、大きくエレガントな家々と人目をひく大使館(※3)の建物があるLundevang通りに面しており、Ryvang街道や並行して走る鉄道はその騒音でメチャクチャになるにはあまりに遠すぎた。さらに現在では、屋根を越えるほど高く大きい象徴的な「瓶」がまっすぐ誇らしげに立っている近隣のツボルグ(Tuborg)の醸造所(※4)からホップとモルトの香りがしている。ラーズはNorgesminde通りを渡り、Phister通りにあるHIK(※5)の設備でテニスを練習し、近くの学校に通っていた。このMaglegard小学校は父トーベンも通っていた学校である。(※6)

    以前言及したとおり、29年前(訳注:伝記本は2009年刊行?)にラーズと家族は完全に引っ越したが、ラーズは子供の頃の家をハッキリ覚えていた。2003年初夏に、父親と過ごしたコペンハーゲンに戻ったときには、よくこの近くを走っていた。(この様子は2004年の『Some Kind of Monster』DVDの特典映像で見ることができる)。

    「大きな庭のあるとても特徴的な家だった。」ラーズは思い出していた。「フロアがたくさんあるし、いつも騒音を響かせることができたんだ。大好きだったよ。親父はあのバルコニーの部屋に上がっては毎日夜にジャズを聴いていたよ。俺は自分の部屋で音楽を流すか、何も聞かせないようにみんなが寝静まってから、地下室までの長い道のりを歩いていったね。」

    Lundevang通りの家はとても大きな敷地で、それは子供の頃のラーズの全てを形成した精神的にも文化的にも広大な良きシンボルでもあった。彼の両親は音楽、文化、アート、地理学についてのさまざまなことを「文字どおり」彼に説明するのに多くの時間を費やした。常に外の世界からの新しく刺激と衝撃によって子供の頃のラーズに非常に魅力的なもの、好奇心、旺盛な知識欲をもたらした。

    ウルリッヒ家のおもてなしとイカした家によって、この場所は日が暮れるとデンマークやその他のあらゆる場所から多くのミュージシャンや著名人たちが賑やかす場所となった。そのなかには世界的なジャズマンであるスタン・ゲッツ(Stan Getz)、ジョン・チカイ(John Tchicai)、ドン・チェリー(Don Cherry)、そして前述したラーズの教父デクスター・ゴードンもいた。ガソリン(Gasolin')のフランツ・ベッカリー(Franz Beckerlee)は、エリック・ウィダーマン(Erik Wiedemann)、ヨルゲン・リーグ(Jorgen Ryg)、ベント・ファブリシアス=ビュール(Bent Fabricius-Bjerre)、マックス・ブリュエル(Max Bruel)、ヒュー・シュタインメッツ(Hugh Steinmetz)といったデンマークのミュージシャンを伴い頻繁に訪れていた。

    トーベンは次のように語る。「午後にウチにやってきて居座り、コーヒーを飲んで音楽を聴いている者もいた。あるときには皆がディナーにやってきたし、またあるときには私やフランツ、ヒューが座って音楽を聴き続けていた。夜明けまでなんてこともあったね。私たちはいろんな音楽を聴いていた。マディ・ウォーターズからインディー・ミュージックまで何でもさ。リビングにはピアノもあったから、ジャム・セッションをしたこともあった。スタン・ゲッツとだったり、別の日にはベント・ファブリシアス=ビュールともやったのを思い出すね。そんなわけであの家にはデンマークやアメリカのあらゆる人たちで埋め尽くされていたことがあったんだ。」

    60年代、70年代はLundevang通りは本当にイカした場所となった。家には子供用の部屋があった。ラーズは同い年のフランツ・ベッカリーの子供とよく遊んでいた。アメリカで出会い、ヘレルプに一時住んでいたトランペッター、ドン・チェリーが訪問してきたこともトーベンは覚えていた。ときおりドンは幼い継娘ネネを連れてやってきた。「たぶん2人とも2、3歳頃じゃなかったかなぁ、彼女とラーズはつまずきながらドクター・ジョン(Dr. John)のレコードに合わせて踊っていたよ。」

    しかし、最も長く遊び相手を務めたのは、ラーズと半年早い生まれの従兄弟ステイン・ウルリッヒ(Stein Ulrich)だった。ラーズの叔父ヨルゲン(Jorgen)(ちなみにトーベンにステインの教父となるよう頼んだ人物でもある)の息子だ。ラーズは後にステインについて、叔父ヨルゲンと叔母ボーディル(Bodil)と話していたときに「まるで兄貴のような存在」だと語っている。

    今日までステインはあの魅力的な家への訪問がどれだけ刺激的だったかハッキリと覚えている。
    「俺はラーズといつも連れ廻ったんだけど、よく覚えているのは4、5歳の頃、Lundevang通りの家に行ったときのことさ。ホールまで歩いていくと天井まで見えたし3階まであるのがわかった。ホールには幅3フィートの階段が地下室へと続いていた。いつも彼らはそこにいたんだ。大家族のキッチンみたいに準備していたからね。彼らはほとんどそこに住んでいたんじゃないかな。(他の人が出入りしない)あの場所なら日中ほとんどいることができたからね!」

    ウルリッヒ家はゲストがいるいないに関わらず、ほとんど地下室にいたようだ。ラーズの祖父母が引っ越した時に、家の大部分はリフォームされた。ラーズはなぜ家族の長年のたまり場が今日の世界には普通に存在しないのかとハッキリ思い起こしていた。「俺たちはスーパーモダンなキッチンがあったんだ・・・。ドイツのミーレ社製のキッチンと新しい調理器具とかその他もろもろ、すごいの何のって。まぁそういうものが流行りだす前だったっけな。」

    リフォームのあいだ、遊び部屋は地下室にもできた。寝室として装飾された1階をラーズは引き継いで使うことを許された。よってこのとき彼には(後にたくさんの騒音をたててクレイジーになるにも)十分な部屋があったのだ。この音楽愛好家の遊び部屋にはステレオと彼の憧れの人のポスターが貼られた。数年後の1976年には遊び部屋は再びリフォームされ、このとき彼にとって初めてのドラムキットが設置されたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/5/

    ※1:ブリストロプ教会(Blistrup Kirke)
    http://www.blistrupkirke.dk/
    http://www.visitdenmark.co.uk/en-gb/denmark/blistrup-church-gdk621148

    ※2:ラーズの生家。
    07larshouse

    ※3:イスラエルの大使館が同じLundevang通りにあり、近くのNorgesminde通りにはタイ大使館もある。

    ※4:全長26メートル。デカイ(笑)
    tuborg

    ※5:ヘレルプ・スポーツ・クラブ(HELLERUP IDRATS KLUB)のこと。

    ※6:『Some Kind of Monster(邦題:メタリカ 真実の瞬間)』の特典映像によると、父トーベンを教えていた教師が自分のことも教えていたとラーズは語っている

    特典映像はYouTubeにアップされてました。(日本語字幕はありませんが)


    文章中に出てきた場所のうち、洗礼を受けた教会以外はヘレルプに集中しています。少し地図でまとめてみたのでご参考までに。(リンク先で拡大縮小可能)

    ラーズ・ウルリッヒのふるさとMAP
    larsMAP
    http://batchgeo.com/map/8f73f0a18d0373a960a850a57e9ae158


    ラーズの生家はジャズのいわゆるサロンのような役割を果たしていたんですね。教父が音楽人で教母が劇場の出ということで、ラーズが音楽と映画に興味を抱くようになったのは生まれたときからの必然だったように思えます。

    By Requestの北欧ツアーを計画したときは、ここまで正確な位置もわからず、時間も取れないということで断念しましたが、またデンマークへ行く機会があればぜひ訪ねてみたいものです。

    やる気が出れば、続きも紹介できればと思います。やる気が出れば・・・

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