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メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ジャコ・パストリアスのドキュメンタリー映画制作に関わってきたロバート・トゥルージロ。ちょっと前の記事になりますが、Bass Magazineでジャコ・パストリアスに関するインタビューを受けていたのでご紹介。

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    知らないミュージシャンの名前もじゃんじゃん出てきて和訳に苦戦しましたが、ジャコ・パストリアスとの衝撃的な出会い、ジャコの親族との出会いやジャコの持っていたベースをコレクターから買い戻したエピソードなどロバートの人柄がにじみ出ているロング・インタビューになっています。管理人拙訳にて。

    −ヘヴィメタルファンはジャコのことが大好き、その理由を聞きたい

    ジャコは本当にインスピレーションを与えてくれるし、アイコンなんだ。ジャズのコミュニティーだけじゃなく、ハードロックやヘヴィメタルのコミュニティーの間でもね。俺は高校を卒業して、ジャズの学校に通った。結局そこでやることになったのは、世界中から来たプレーヤーたちとジャム・セッションをすることだった。そのうちの何人かはいまだに俺の人生の一部になっているよ。そんなたくさんのミュージシャンは、メタルやロックも好きなゴスペルのミュージシャンだったんだ。キャリアを伸ばしていくうちに、俺はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのフリーとか、マーズ・ヴォルタのホアン・アルデレッテとか、ジャコのプレイを見たことあるたくさんのミュージシャンとつるむようになった。俺は50歳になろうとしているけど、そういう人たちは俺の年齢よりも上だった。以前在籍していたバンド、スイサイダル・テンデンシーズのロッキー・ジョージと俺はジャズ・フュージョンの大ファンで、俺たちが9年生、15歳の頃、彼にジョン・マクラフリン、マハヴィシュヌ・オーケストラ、リターン・トゥ・フォーエヴァーについて話したんだ。

    −トゥルージロは影響の大きかったジャコのギグを覚えていた

    ジャコのプレイは4回観た。1979年のプレイボーイ・ジャズ・フェスティバルでも観たし、ワード・オブ・マウス・ビッグ・バンドと一緒のフルスケールのバージョンの時も観た。UCLAのドロシー・チャンドラー・パビリオンでね。スケールダウンしたバージョンもデルマー・ブラウン、ケンウッド・デンナード、マイク・スターンと一緒にやったのを観たよ。ジャコに会いたくてショーの後に待ってたんだけど、マイクとだけ会ったんだ。彼は常軌を逸してた。何かをやってたのかもわからないね。

    70年代後半から80年代初頭にかけて、あれはいい時代だったよ。俺は両親にジョン・マクラフリンとか他の偉大なアーティストを観に連れて行ってもらう、そんな年齢になったばかりだった。15、16歳のあたりから俺はもっと真剣にベースに集中していくようになった。1983年に高校を卒業した時、俺は徹底してベースにのめり込んでいた。ジャコみたいに俺はルールに縛られなかった。バウ・ワウ・ワウのようなたくさんのイギリスのバンドやミック・カーン、ピノ・パラディーノ、ニック・ベッグスみたいなミュージシャンが好きだった。マーク・キングも俺に大きな影響を与えてくれた。彼は素晴らしいよ。彼はまだアメリカでは過小評価されていると思う。俺の中じゃ、彼は神だね!もちろんレミーやギーザー・バトラーの大ファンでもある。でもジャコは猫みたいだった。俺はドッグタウン・ムーブメントが巻き起こっていた、たくさんの命知らずのワイルドなスケートボーダーたちがいた南カリフォルニアのベニスビーチで育ったからね。

    ジャコは俺にとってそんなキャラクターだったんだ。彼は信じられないほどの天賦の才能があってセンスが良くて自分がやることに本当に一生懸命に取り組んだ。スケートボーダーたちもそうだったんだ。彼らは危ないこともやるし、必要とあらば激しいケンカもする。しなきゃならないとなれば、3階から後方宙返りをキメてプールに飛び込むことだってやる。何でもありさ。それが俺がジャコの好きなところのひとつだ。彼もビーチで育ったからね。彼はボディーサーフィン(訳注:サーフボードなしでサーフィン)をして育ったんだ。ほとんどいつもシャツを着ずに短パン裸足だった。俺が育ったベニスビーチでもそんなヤツらがいたんだ。

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    −どのようにしてジャコに会ったのか

    1985年、ハリウッドのメルリン・ホテルで行われるロサンゼルス・ギターショーを観に行ったんだ。今はホリデー・イン・エクスプレス・ホテルになってるけどね。そこにジャコが来るとは知らなかったんだ。各部屋が特定のギター会社に割り当てられていて、廉価版NAMMショーみたいだったね。ある部屋にいた時、本当に地震が来たと思ったんだ。窓が震えていて、床が揺れているように感じた。参ったね!隣の部屋に行った人もいた。ベースのディストーション付きアンプがフルボリュームになっていたんだ。イカしてたね。

    俺も隣の部屋に入っていったら、それはジャコだったんだ!彼はそこでギター修理の人と一緒にいた。彼がそこにいるもんだから、何も言葉が出てこなかったよ。俺は彼の正面に座ると、部屋はみるみる人で埋まっていった。俺がベースの師と仰ぐ一人、ラリー・シーモアもいた。彼はビリー・アイドルと長いあいだプレイしていた人だ。みんな同じ反応をしたから、部屋は満員状態だった。ジャコはアンプの音量を上下に繰り返して、その反響音が壁を震わせていた。彼はみんなを観て、全員をじっと見つめていた。今にも彼が「そりゃあ俺だ!」とでも言い出しそうな感じだった。彼の人生においては最高の場所ではなかったけど、彼は忘れられないファンキーなグルーヴと節を弾き始めたんだ。俺たちに何の一言も口にすることなく。

    神に誓って、彼は俺たちをその目で見つめていたんだ。俺は言葉も出なかった。みんなそうだった。それはあたかも彼が楽器を使って俺たちと話したり、全員と触れ合ったりしているかのようだった。彼がこう言ったみたいだったのさ。「俺はこの手のひらでオマエらを捕まえたぞ!クソッタレ!オマエらは噂を聞いてきたんだろう。俺がここにいる、俺がオマエらをぶっ飛ばすってな。」それから部屋に彼のガールフレンドが入ってきた。ホントにキレイな女性が両ポケットにビールを入れてやってきたんだ。2人はまさしくビーチのサーファー・カップルだった。彼女がやってきてこう言ったんだ。「さぁジャコ、行きましょう!」って。そしたら彼はベースを置いて、そこから出て行ったんだ。あれは決して忘れられないよ。

    今、ここ数年のあいだに心の中で思うんだ。「何で俺はあの時、あの人をハンバーガーか何かで外に誘わなかったんだ?」って。でも俺はショックだったんだ。それだけ強烈な瞬間だった。あの部屋にいた俺たち全員、彼の存在に感動していたんだ。彼のプレイする能力は俺たちを虜にした。直接彼に会って、彼があんなメロディックなものを奏でるのを聞けたのは信じられないことだったね。

    −どのようにしてジャコの親族と出会ったのか

    これはとびきりの話だよ!ラッセルっていうサーフ仲間でバーテンダーの友だちがいて、そいつがジャコが人生のほとんどを過ごしたフォートローダーデール(訳注:フロリダ州南東部)に住んでたんだ。数年前、ラッセルがジャコの長男ジョニー・パストリアスにドリンクを作っていると、ジョニーのクレジットカードにあった苗字に気付いたんだ。ラッセルはベニスビーチの俺の家に来て、ジャコの写真を見たり、俺がジャコの話をしたりしていたことを覚えていて、ジョニーにこう尋ねたんだ。「あなたの名前は聞き覚えがありますね?」そしたらジョニーは「ジャコ・パストリアスは俺の父親なんだ」って答えた。それは純粋に偶然の一致だった。ラッセルは俺に電話して、ジョニーもスイサイダル・テンデンシーズのファンで、俺のことも知っていることがわかったんだ。

    オジー・オズボーンのバンドに加入した最初の年、フォートローダーデールに行ってジョニーに会った。すっかり仲良くなったよ。一晩中一緒に外にいた。振り返ると、あれはフロリダ南部のパーティーの日だったのかな。とにかくそういうことさ!間違いなく素晴らしい時間だった。それでジョニーと一緒にどこかのストリップ・クラブに入って、俺がスイサイダル・テンデンシーズのロッキーに電話したんだ。「俺、ジャコの息子と一緒にいるんだよ!ほら、挨拶して!」って。ジョニーと俺は仲良くなった。それが今回の話(ジャコのドキュメンタリー映画制作)の始まりだったんだ。

    後で俺はジョニーを通じて(ジャコの娘の)メアリー・パストリアスとも会った。それで俺たちはメル友になったんだ。メアリーは本当に素晴らしいシンガーで、彼の夫エリック・ヤングはとんでもないキーボード奏者なんだ。もし彼らがフロリダに住んでいなかったら、もし彼らがロンドンかLAかニューヨークに住んでいたら、彼らがありふれた名前だったら、(そう考えると)なんて素敵なきっかけなんだって思うよ。ジャコの甥デヴィッド・パストリアスもいつもそんな感じで親友なんだ。彼らはいつもそんな感じさ(笑)

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    −どのようにしてジャコのドキュメンタリーは形になったのか

    俺がジョニーに最初に会った時、俺は彼に言ったんだ。「キミのお父さんについての映画を作らなきゃ。彼の話はホントに人を惹きつけるからね。」と。ジョニーと俺は連絡を取り続けていた。ジョニーは音声ドキュメンタリー『A Portrait Of Jaco: The Early Years』のプロデューサーをやってたボブ・ボビングっていう人とドキュメンタリー映画に向かって取り組んでいた。それは本当に大きかった。素晴らしい要素だった。

    年月は過ぎ、ジョニーはボブをメタリカのショーに連れてきた。ジョニーがボブに俺がジャコに夢中になっていたことを話していたし、彼らはジャコの関連性を理解していて他のタイプのミュージシャンをドキュメンタリーに引き入れたいとジョニーは思っていたからね。彼らはメタリカを観にやって来て、フォートローダーデールのアリーナのショーがチケット売り切れになっていることにボブは感動したみたいだった。ボブと俺は友だちになったんだ。4年前、彼は俺に制作という船に飛び乗ってくれないかと頼んできた。ジョニーと俺は数年前にこれについて話したことがあって、俺たちがこんなことになって奇妙で皮肉な運命のいたずらみたいだったね。

    2年前の夏、俺たちは初めてラフカット版を観た。俺たちはいま編集の最終段階に来ている。3人の監督がいるんだ。1人目はスティーヴン・カイヤック、彼は『Stones In Exile(邦題:ストーンズ・イン・エグザイル 〜「メイン・ストリートのならず者」の真実)』や『Scott Walker: 30 Century Man』の監督をしている。彼は1年以上、制作陣にいてインタビューのほとんどをやっている。1年半前くらいから俺たちはポール・マルシャンって人とも一緒にやっている。彼はプロジェクトの最初から編集をしてきた人物だ。それは地獄のジェットコースターみたいに大混乱しているけど、絶対に変えるつもりはないよ。

    −どのようにこの映画に関わっているのか

    かなり関わっているよ。俺はプロジェクト全部に出資している。制作会社のPassion Picturesは『Searching For Sugar Man(邦題:シュガーマン 奇跡に愛された男)』でオスカーを獲得している。『Stones In Exile』も彼らが手がけた映画だ。彼らは素晴らしいよ。この地球で後世に残る最優秀ドキュメンタリー制作会社だ。

    俺はクリエイティブな面でも関わっている、もちろん、そこにはバランスがあるけどね。とてもクリエイティブな監督が一方でいるわけだから。ポールは本当に為すことがクリエイティブだ。彼の創造力でスクリーンに命が吹き込まれているし、彼は自分を強く持っている。それからジャコの家族のこともある。俺のやることは、みんなの要望の間でバランスを取らなきゃならないってことなんだ。時にはそれが最も難しくなることもある。映画制作陣と、自分たちの父親の話に感情的に愛着を持っている家族、俺にとっては全てを意味する。おまけに俺の芸術的展望もあるしね。緊張の瞬間だってあるんだ。

    でも創造的な緊張、感情的な緊張、一番丁寧なやり方で頭突きしたかのような、そういった瞬間を味わえるのは、このプロジェクトの一番良いところだよ。もし3年前に完了させていたら、映画はあるべき姿になっていなかったと思う。今、俺たちが(制作中のまま)2014年を迎えているっていうのは、本来そうなるはずだったんだ。この映画は今年公開する必要がある。だから俺たちは11月の第3週目になるよう努力しているんだ。

    −どのようにして今年の「Record Store Day」にジャコのサウンドトラックを出したのか

    俺たちは1974年のジャコによるデモ・レコーディング『Modern American Music… Period! The Criteria Sessions』をリリースすることもできたんだ。「Record Store Day」の創始者マイケル・カーツがこのプロジェクトを受けて、公にしたのさ。

    マイケルが17歳の時、ノースカロライナでウェザー・リポートのコンサートに行ったらしい。それがジャコとウェザー・リポートの最初のツアーで、マイケルはスーパー8mmフィルムでショーを撮影したんだ。音はなかったけど、ジャコのプレイを見ることができるんだ。彼がまだ若く元気でイカしてた。マイケルはこの撮影した場面をドキュメンタリーに寄贈してくれた。それから後、彼は2008年に「Record Store Day」のアーティストとしてメタリカを引き入れる役割を果たしたんだ。彼もジャコのために同じようなことをしたくて、2014年にジョニーと俺をOmnivore Recordsとつなげてもらった。彼らとランチをして、ジョニーはCriteria Studiosでとったデモ音源について話し始めた。俺はそれについて全く知らなくてね。それはずっと長い間、所在が不明だったデモ音源でジャコの最初のソロ・レコードの準備としてレコーディングされたものだったんだ。素晴らしいよ。ああいう裏話はすごいよね。そうして俺たちは特別なレコード盤をリリースすることができたんだ。まだ聴かれていない、未開封のジャコの初期の純粋なデモ・レコーディングを、この2014年にね。さらにジャズ・チャートで2週間も2位を獲得した。俺たちが制作を続けられなかった唯一の理由は、レコード盤が品切れになってこれ以上刷れなかったからさ。それが全てを物語っていると思う!


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    −どのようにしてジャコの最も有名な楽器を救ったのか

    当時は法律的な問題があったんだ。今はもう解決したけど、ジャコの家族はこの問題についてストレスで本当に参っていた。大筋を言うと、ジャコの有名なフェンダーのジャズ・ベースが20年間行方不明だったんだけど、ニューヨーク市のコレクターの手に渡ったんだ。そのベースは盗まれたとか売られたとかいう噂だった。ジャコがドラッグや何かのために自分のベースを売ったというのは疑わしい。でも、いろんな解釈をされやすい事態だったんだ。

    俺たちの気持ちとしては、まずニューヨーク市の公園でジャコがホームレスだった時に奪われたんじゃないかと思う。それは壊されて50個ほどに分けられてしまった。俺は写真を見たけど、狂ってるね。ジャコはベースをフロリダの(ベーステクの)ケビン・カウフマンに送ったんだ。で、彼はそれを修復したのさ。ジャコはベースを取り戻して、それから奪われたんだ。そうなる前にそのベースでマイク・スターンとレコーディングを行った。それでケビンはニューヨークにやってきて、楽器は本物であると認証をした。それが問題の始まりだったんだ。家族は言うまでもなくベースを取り戻したがっていた。でも所有者はベースのことをあきらめようとはしなかったんだ。

    だから俺はベースを取り戻すお金を支援した。俺はコレクターじゃないけど、当時この状況を自分が助けることが重要なことだと思ったのさ。そうして俺たちはベースを取り戻した。俺はベースの合法的な所有者だ。でもこの楽器についてのどんな決定もジャコの家族の承認を受けなければならないようにした。彼らにとって、あのベースは家に横たわる家族のペットみたいなものなんだ。無くなった時でさえも。フェリックス・パストリアス(ジャコの息子でジュリアス・パストリアスの双子)が今は持っている。俺はあのベースを弾いたことあるけど、素晴らしいよ。とてもいい形をしていたね。


    この件については多くの誤解がある。俺はインターネットで言われているようなヤツじゃない。何もかも完全にかけ離れているよ。でも俺は間違った考えを持っていたり、俺があのベースを脅し取った(あるいは自分自身のために持っている)とか、俺がニューヨークでそれを見つけて金を払って奪い取ったと考えていた人に通りで近寄られたこともあった。そういうことでいつもジョニーとフェリックスを困らせていたよ。事態はまるっきり正反対だからね。俺は情熱からこの事態を引き受けた人間なんだ。俺は物事に情熱的になるんだ。そして俺は助けようとしたのさ。

    −ついにジャコの映画の準備も大詰め、映画についてまとめてください

    このプロジェクト全部、俺のジャコへの気持ち、そしてこのストーリーとジャコとの関連性が中心にある。ジャコの家族との関係もね。多くの人は俺がパストリアス家とつながりがあるなんて気付きもしないし理解もしていない。このプロジェクトが始まる前に彼らは俺の家に泊まったんだ。俺はジョニーとメアリーとほとんど同じくらいデヴィッドのことも知っている。俺たちが知り合ったのは彼がまだ10代の頃。デヴィッドと彼のバンドが何年も前に(スイサイダル・テンデンシーズのサイド・プロジェクトである)インフェクシャス・グルーヴスの前座を務めたんだ。

    俺たちにはたくさん歴史があるんだ。面白いよ。年上のミュージシャン、ウェイン・ショーターとアンソニー・ジャクソンみたいな人たちも出ている。彼らはメタリカや俺のことをリスペクトしてくれているんだ。俺がメタリカに加入した時、そういうプレイスタイルを学ばなきゃならなかった。俺の大好きなベーシストはジャコとアンソニー・ジャクソンだったからね。もちろんゲディー・リーとギーザー・バトラーも好きだけど。俺はメタリカの要求を満たすよう自分のスタイルを適応させなければならなかったんだ。俺の快適な範囲はいつだってインフェクシャス・グルーヴスなんだ。いつも言っているんだけど、あのバンドは完全にジャコ・パストリアスにインスパイアされたバンドだ。スレイヤーやスイサイダルと同じようにね。ジャコはインフェクシャス・グルーヴスの鍵となる要因だった。でも多くの人はそれを知らない。多くの人は俺が4回ジャコのプレイを観たことも知らない。

    この映画は素晴らしいよ。俺たちがインタビューしようと思った人の99%はインタビューした。その範囲も広いけど、とてもいいバランスになっている。ゲディー・リーからハービー・ハンコック、ウェイン・ショーター、スティング、ジョニ・ミッチェル、それからジャコの活動初期にコラボしたプロデューサー、ボビー・コロンビーまで出演してもらった。ソニーが映画のサウンドトラックを出す予定だ。そこには最前線で活躍するアーティストが参加している。これは俺がやってきた中で、一番満足している旅路のひとつだ。そしてキミたちのようにジャコに関心を持つ雑誌があるってことがわかって嬉しいよ。


    BassMagazine(2014-09-23)

    コレクターから取り戻したベース「Bass Of Doom」を記念したTシャツもメタリカ公式Tシャツとして売られていましたね。
    bass_of_doom

    これだけ情熱を持って制作された映画、ぜひ日本でも観たいです!(どこか配給頼む!)

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章4回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカの大きな転機となるバンド拠点の移動とクリフ・バートン加入について。

    - ヘヴィメタルへの誓い(後編) -

    新しいシンガー加入の代わりに2つのギグが1982年夏後半のメタリカの経歴に大きな影響を与えることになった。1つはハリウッドのクラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われたギグ、もう1つはサンフランシスコのクラブ、「ストーン」で行われた自然と沸き上がったパフォーマンスだ。後者がまず先だった。

    「ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の宣伝のためにサンフランシスコで3つのバンドを手配した。その『Metal Massacre』参加3バンドのうちの1つ、キリス・ウンゴル(Cirith Ungol)が11時間前に出演をキャンセルしたんだ。」ラーズはそう語る。

    「俺たちには何にもなかった。(『Metal Massacre』に参加できたこと自体が)ジョークだったのさ。でもブライアンはショーの1日か2日前に俺たちに電話をかけてきた。彼は俺たちに何をやらせても俺たちがろくに文句も言えないと思っていたのさ。そして彼は「サンフランシスコに行って、ショーを開きたいか?」と言ったんだ。俺たちは言ったよ。「Yes!」ってね。それがいとも簡単に人生が変わる出来事になった。俺たちは2、300人のサンフランシスコのヘヴィメタル・フリークの前に行って演奏をしたんだ。そしたら突然…わぉ!って感じだった。みんな俺たちの演奏する曲を知っているんだよ!バッジ付きのデニム・ジャケットにアイアン・メイデンの黒Tシャツに身を包んだ人たちがいる光景があった。LAのクソみたいなものの代わりにね。当時、グラムなんていうクソみたいなものは全部LA発だったんだ。」

    「40分のステージを終えてステージを降りると、人生が変わる体験みたいだった。急遽、俺たちはとにかくサンフランシスコだ!ってなった。こんなレベルの出来事が起きたのは初めてだったから、俺たちは毎月サンフランシスコでギグをブッキングし始めたんだ。」ラーズはかなり浮かれながら当時を振り返った。

    そんな驚天動地のコンサートの後、メタリカの初めてのアフターショー・パーティーが始まった。バンドはラーズの車であるライトブラウンのペーサーを運転して、U-ホールで借りた音楽機材と共にロサンゼルスの家まで帰ることに忙しくすることはなくなった。ケースごとビールをかっぱらって、(ライヴ会場の)ストーンから数ブロック離れた小さなホテル、サム・ウォンズ(Sam Wong's)でパーティーを開いた。その日以前にメタリカのメンバーは、開いたビール缶を手に持って歩いていて逮捕されたことがあったため、パーティーは室内で行われた。ホテルではファンがサインをもらって写真を撮り、メタリカは「Young Metal Attack」のTシャツを売った。

    さらにストーンで行ったギグはメタリカに好意的なコンサート批評をもたらした。「Northwest Metal」の第2号で、ブライアン・ルーは最初にこう書き出した。「これぞまさしくと言った夜だった!アメリカでAランクの一番ヘヴィなバンド、メタリカはサンフランシスコで暴れまわった。1906年の大地震よりも多くの破壊をもたらした!(中略)彼らの圧倒的な激しさはとてつもない!彼らの狂気によってモーターヘッドとヴェノムの猛烈な狂気を融和させ、バンドはノンストップで速くて超凄まじいヘヴィメタルの曲で観衆をぶちのめした。」

    自身の記録帳で、ラーズは熱くなって書き残している。「初めての本当にすごいギグだった。本物のヘッドバンガー、本物のファン、本物のアンコール。メチャクチャすげぇ週末だ。たくさんのステージを無駄にしてたぜ!!」

    伝統的にリベラルでヒッピーの街のメタルファンはメタリカのメタルをヘッドバンギングと歓迎をもって受け入れていった。LAではソフトになったグラムロック文化にメタルシーンが支配されていた一方、サンフランシスコはアメリカのヘヴィメタルの温床になっていたのだ。

    これで終わりではなかった。サンフランシスコで初めてのメタリカのショーが行われたのとほぼ同時に、サンフランシスコで酔っ払ったジェイムズとラーズの2人にカリスマ的ベーシスト、クリフ・バートンが存在を露わにした。2人が数え切れないほどの夜をハリウッドのロック・クラブで過ごしている間に。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺たちが「サンフランシスコ・ヘヴィメタル・ナイト」のイベントでウイスキー・ア・ゴー・ゴーにいたら、その夜演奏した3つのバンドのうち1つがトラウマってバンドだった。そこであの変わり者がベースを弾いてヘッドバンギングをしていたのを見たんだ。ジェイムズと俺はあんなのはこれまで見たことなかった。ベーシストを探しに行ったわけじゃなかったけど、そこでクリフ・バートンのヘッド・ハンティングが始まったのさ。それはその後数ヶ月に及んだ。」

    不屈で外交的なラーズはすぐに長髪でワイルドで才能溢れるクリフに接触し、メタリカとの「リハーサル」を提案した。しかしクリフはまだサンフランシスコでトラウマに貢献することに集中していた。したがってメタリカはサンフランシスコで数回のショーを至急ブッキングする十分な理由ができた。ラーズはクリフにメタリカの次の出演について伝えることに注意を向けていた。それは10月18日の「メタル・マンデー・ナイト」コンサートだった。

    「11月に俺たちはサンフランシスコで何回かギグをやった」ラーズは語る。「マブヘイ・ガーデンズ(Mabuhay Gardens)(サンフランシスコのダウンタウンにあるクラブで、俳優ロビン・ウィリアムズが1978年初めてスタンダップ・コメディでヘッドライナーを務め、後にパンクやニューウェーブのクラブとなった場所)で追加ギグを行った伝説的なツアーだった。そこから俺たちはコンサートに来た女の子とヤリ始めたんだ。本当に楽しかった。そうして俺たちは何百人ものヘヴィメタルファンと全音楽シーンを知って学んでいったんだ。ロンバート・ストリートにあるホテルでアフター・パーティーをやった時のことを覚えているよ。俺とデイヴ・ムステインが一緒に何人かの女の子をゲットしたんだ。たくさんの(女の子の)身体が横たわる場所にいたのはそれが初めてのことだった。ベッドに誰かがいて、ほかのベッドにも誰かいて、部屋の隅やらクローゼットにも誰かいるんだ。俺たちがモーテルの部屋をひとつ取っていただけの頃だったから、次の日の朝起きたら20人が床に寝ていることもあった。夢のようだったね…あれはクールだった。俺たちがそれまで夢見ていたこと全てかそれ以上の出来事だったよ。」

    しかし、他の問題が間近にあった。みんなが夢を共有していたわけではなかった。というより、むしろ、みんなが夢の中にいたわけではなかった。

    ラーズ「何が起きたか本当に覚えていないんだ。でもロン・マクガヴニーのガールフレンドが俺とジェイムズがクリフについて何か言っているところを立ち聞きしたんだと思う。とにかく彼女はそれをロンに話したんだ。俺とジェイムズがクリフのこと、そしてロンについての陰口を話していたことに気がついてひどく怒っていた。彼は怒って「ファック・ユー!」と言って去っていった。それが12月の始めのことで、クリフはまだ(メタリカ加入に)Yesと言っていなかった。でも俺はクリフを獲得するためにホントに奮闘していたよ。毎日毎日彼に電話してさ。集中的な「彼を俺たちのバンドに今すぐ入れよう」キャンペーンが始まったのさ。」

    「マクガヴニーがバンドを去った時、ヘットフィールドは家を追い出されたんでデイヴ・ムステインと一緒にハンティントン・ビーチに引っ越してきた。俺たちはリハーサルも何もしなかった。でも、クリスマスから82年の年明けまでの間に、俺はようやくクリフが俺たちと一緒にジャムることを説得できた。12月の27日か28日頃だったかな、俺たちはエルセリトまで行った。マーク・ウィテカーの家のリビングでジャム・セッションをしたんだ。彼はエクソダスのマネージャーだった。彼と親友になって、俺たちのためにメタル・マンデー・ショーを何回か開いてくれていた。マークはすげぇいいヤツで、俺とジェイムズとムステインは何日間かそこで寝泊りしてもいいってね。それで俺たちはそこでクリフとジャムったんだ。素晴らしい時間だったよ。」

    「俺たちがLAに戻ると、年明けにクリフは俺に電話してきてバンドに入ると言ったんだ。昨日のようにその会話を覚えているよ。「OK。オマエらがサンフランシスコに引っ越したら、俺はバンドに入るよ。それが唯一の条件だ!」「OK。」と俺は答えた。「俺たちは5週間でそっちにいることになる。いくらか金を稼いで、カーペットを買わないとな!」」

    クリフとの初めてのジャム・セッションの途中、「Seek And Destroy」を弾いて、ラーズもジェイムズもデイヴもクリフがメタリカにうってつけの男であることを誰も疑うことはなかった。つまるところ、サンフランシスコはバンドにとってうってつけの本拠地だったのだ。クリフのポジティヴな反応は、サンフランシスコに戻ってくる前に、まだLAでいくらか活動をしていたラーズ、ジェイムズ、ムステインにとって最高のニュースだった。

    ラーズ「俺たちはリハーサルとか何かをする場所を何も持っていなかった。だから1983年の1月・2月は朝の新聞配達を2コース廻っていた。ひとつは俺が住んでいた複合ビルのマンションで、そこで大きなカーペットを取り替えていた。ジェイムズとムステインが一週間、俺と外で過ごしたことを覚えているよ。俺たちはジェイムズのトラックを使って、巨大なコンテナに捨てられていた中古のカーペットを全部自分たちのものにしていた。」

    「俺たちはマーク・ウィテカーに取引をもちかけた。もし俺たちのマネージャーになったら、俺とジェイムズを彼の寝室のひとつに住まわせてくれるようにね。ムステインには部屋がなかった。彼はまだ…部外者だったんだ。だからデイヴは代わりにクリフのお祖母ちゃんの部屋を借りたんだよ。それで俺たちは使い古しのカーペットをトラックに放り込んで、2月中旬にサンフランシスコに引っ越した。俺は両親にさよならを言った。俺が実際に実家を離れて住むのは初めてのことだったんだ。」

    ラーズの両親との別れは、凍えるような寒さだったコペンハーゲンでの1963年のクリスマス2日目から一緒だった小さな家族の分裂を意味していた。

    ラーズ「俺が家を出た後、母が重荷になって親父も実際に家を出たんだ。彼女は家族は一緒にいて歳を取っていくものと考えていた。だからあの時期は特に彼女にとってはおかしなことだったんだ。俺と親父の両方が同時に出て行ったんだから。とてもキツかっただろうね。」

    「あの時は本当に理解できなかった。おそらく本当は気付いていなかったんだ。俺の親父は、家族がそこにいて、俺が家族の一員でいる間は家族を養う責任があると考えていた。そうなると俺がいったん家を出たら、、親父は何ら責任を持たないってことだったんだ。それから実際にそうなったんだけどね。親父はたくさんのことに興味を持っていた。仏教を勉強していて、そういったこと全てに興味を持ち始めていた。母親はしばらくニューポート・ビーチに住み続けて、それからその地域の周囲に引っ越した。そこには友だちがいて、そのうちの1人か2人と暮らしていた。おそらく俺に戻って欲しいとか、トーベンがいつか戻ってくることを望んでいたと思う。彼女にとってはつらい時期だった。俺はそんなこと何も見えちゃいなかった。19歳として理解できるものじゃなかった。俺はただ…前だけ見ていた。「さぁ俺たちはメタリカとしてスタートしてやるぜ!」とかそういうことだけだったんだ。」


    トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は公式には離婚していない。しかしトーベンは、ワシントン州シアトル出身の30歳近く年の若いジャーナリスト、モリー・マーティン(Molly Martin)と共に引っ越していった。しかし両親は「いつもどうにか友人のままでいようとしていたよ。」とラーズは語る。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

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    クリフが加入したギグの後のバックステージにて

    アフターパーティーで売られていたという「Young Metal Attack」のTシャツは現在もMetStoreで売られているこれのことですね。以前の記事の写真でもムステインが着ています。
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    改めてクリフのメタリカ加入条件がメタリカにとっても渡りに船だったことがわかります。そしてメタリカの活動が軌道に乗る中で、ラーズの門出が家族の間のズレをハッキリさせてしまったのですね…。

    ラーズがやたらカーペットにこだわるのは防音のためなのか、映画界に憧れていた隠喩なのか(笑)

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    80年代スラッシュメタル写真集、『MURDER IN THE FRONT ROW』が届きました。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章3回目。有志英訳を管理人拙訳にて。※カタカナ表記がわからないところはアルファベットのままにしてます。デイヴ・ムステインが加入した後もバンドメンバー構成で二転三転していたところを。

    - ヘヴィメタルへの誓い(前編) -

    メタリカのデモテープの音楽は相当速かった。6つのオリジナルのリフを中心とした、生々しく、アグレッシヴな曲が狂気じみたペースで演奏されていた。音楽にしても曲名にしても、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドの両方を思わせ、4人のヘヴィメタルへの宣誓を貫く楽しげな表明ともとれる「Motorbreath」「Seek And Destroy」「Jump In The Fire」「Phantom Lord」そしてヘヴィメタル・アンセムの「Metal Militia」があった。もちろんそこにはデイヴ・ムステインの新しいソロが加わった「Hit The Lights」も。

    NWOBHMからのインスピレーションは、メタリカの初めての楽曲の構成や速いテンポのなかに明白にある。しかし、メタリカは新しいインスピレーションも発揮し始めていた。それはイギリスからではなく、ロイヤル・コペンハーゲンからであった。ビズオウア通りのキム・ベンディクス・ピーターセン(キング・ダイアモンド)とRene Krolmark(ハンク・シャーマン)がまったく新しい草分け的なヘヴィメタルを始めたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「おかしなことにヘヴィメタル・ケンが1980年に制作されたアルバムのデモを俺に送ってくれたんだ。彼らはブラッツ(Brats)と呼ばれていて、1981年にマーシフル・フェイトとして活動を始めた。1981年、ケンは彼らのマネージャーだったんだ(さらにバンド名をつけることになる)。そうして送ってもらったデモはマジですごいものだった。ジューダス・プリーストと他のヘヴィなものを混ぜたようなものだった。俺たちはただただ本当にクールだと思ったよ。マーシフル・フェイト、モーターヘッド、ダイアモンド・ヘッド、そしてヴェノム。彼らは当時の俺たちにとってのインスピレーションの中心だったんだ。「Motorbreath」はモーターヘッドから影響を受けたものだし、「Seek And Destroy」はマーシフル・フェイトへのハッキリとわかる初めての賛同の表れだった。あれは「Doomed By The Living Dead」「Corpse Without Soul」のようなマーシフル・フェイトの初期の曲に影響を受けたものだったんだ。」

    それは決定的なデモテープとなった。メタリカは形となり、楽曲、スタイル、そして凄まじい楽曲は『No Life Til Leather』というタイトルの元に集められた。そのタイトルは最初の曲の最初のセンテンスだ(もちろんジェイムズの冒頭の「ウォーー」は別として)。

    No life til leather/we're gonna kick some ass tonight/We got the metal madness/when our fans start screaming/its right/when we start to rock/we never want to stop again

    それからジェイムズのけたたましい声でコーラスが響く。

    Hit The Lights...Hit The Lights...Hit The Lights

    『No Life Til Leather』のどこを切ってもメタル、音楽、ライフスタイル、そして高揚感が中心にあった。そのデモテープによって、バンドが軌道に乗り、有名になっていく方向転換が始まったのだ。ラーズ・ウルリッヒに象徴される積極的な宣伝販促マシーンとして。彼は造作もなく伝言したりテープをコピーするメタルファンのいる場所でテープを配っていった。そして、メタル雑誌(あるいはファンジン)でテープやバンドのことを掲載させることさえできた。このようなメタリカを広く伝えるラーズの努力は1982年からだった。レコード契約を得るには充分に足るものだった。しかし、最初にメタリカを真に称賛する記事が掲載されたのは1982年4月、(最初のデモテープである)『Power Metal』をリリース後に(Metallicaと呼ばれるかもしれなかった)ファンジン「Metal Mania」のなかであった。

    「メタリカはアメリカのメタルゴッドになる可能性を秘めている」ジャーナリストのパトリック・スコットは82年6月の記事のなかでそう書いている。しかしこの予言のほとんどは、デモテープの音楽からというよりはむしろ、おしゃべりで熱狂的なメタリカのドラマー兼広報の家で熱狂的かつ親しげに交わされたヘヴィメタル話から得た直観に基づくものだった。

    メタリカと『No Life Til Leather』のデモを広める活動中においても、ラーズは決してここ数年のメタルの源を忘れてはいなかった。コペンハーゲン、そして特にラーズがまだ存在を知らなかったバンドからひらめきを得る助けを知らず知らずのうちにしていたケン・アンソニーのことを。2人のデンマークのメタルファンは離れていても、やはり大まかな連絡を取り合っていた。しかしラーズが電話で最新の音楽への情熱について話す時、ケンは本当に驚いたものだった。

    「ある日、電話で話していたら、ラーズが音楽をやり始めるつもりでドラムキットを手に入れたって言ってたんだ。「おぉ!いいね!」と思ったよ。そしたらあくる日、ラーズが電話してきて「俺たちデモを録ったんだけど、聴いてみたいかい?」って言ったんだ。聴いてみたいって言ったよ。まだ『No Life Til Leather』は持ってなかったしね。それでテープを俺に送ってくれたんだ。「俺のバンド:メタリカ」と言葉を添えてね。」

    「驚いたよね。ドラマーだって??俺は彼がドラムをやってるとは思いもしなかった。彼にリズムの才があるなんて少しも思わなかったよ。家で狂ったようにエアギターとかエアドラムをすることはあっても、それはそれでしょ。バンドを始めるってことさえ・・・ねぇ!?」

    取り巻きの外側、すなわち、ブライアン・スレイゲルと地元LAのメタルファンの中では、ラーズは自分のドラムへの関心やバンドに抱く野心については全く口外しなかった。ラーズのメタリカとしての突然の活動にケン・アンソニーだけが驚いたわけではなかった。憧れのダイアモンド・ヘッドと一緒に過ごしていた間もラーズはバンドで演奏したいという話は一切していなかった。当時、彼はジェイムズ・ヘットフィールド、ヒュー・タナーと初めてのジャムを行っただけだった。

    「おかしいのは、当時彼はバンドを始めるなんてことは一言も言わなかったことさ。」ダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーはそう振り返る。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「(中略)テニスのことばかり話すこともあったし、自分の好きなバンドの話になると止められなかった。でもメタリカのことについては一切何も言わなかったんだ。」

    それはメタリカに至る構想がどれだけ自然に生まれてきたか明白にあらわしている。実際ラーズがいろんなドラムとドラムスティック、そして音楽で何かしたいと動き始めたのは1981年夏のイギリス滞在後だった。

    話は戻って、1982年夏、ラーズとメタリカに関する噂はヘレルプのPhilester通りのテニスコートにまで届いていた。ステイン・ウルリッヒはある日、叔父で名付け親でもあるトーベンと一緒にテニスをしていた時のことを振り返る。「ある人がトーベンのところにやって来て言うんだ。「ラーズは音楽を始めたんだって?」彼がロッカールームに行くと今度は彼にこう尋ねるんだ。「トーベン、キミは昔からミュージシャンじゃないか。息子のやってる音楽は知っているかい?あの子たちは良いものを持っているかい?」トーベンはその問いに対してこう答えた。「あぁ・・・まぁ・・・でもベースを演奏している子は別の楽器をやるべきだね!」ってね。」

    昔からの熱狂的ジャズファン・評論家からの本当に的を射た指摘だ。彼はその後何年にも渡って、初期あるいはメタリカの曲となる前の楽曲に関する息子の審判となった。ロンは実際、他がますます強力になっていく4人組の中で最も弱い部分となっていた。ややモチベーションに欠け、暇を持て余し気味のマクガヴニーの代わりをラーズとジェイムズが見つけるまで数ヶ月しか要しなかった。

    この頃、メタリカの主要メンバー2人(ラーズとジェイムズ)はバンドメンバー構成に関する新しい考えがあった。ジェイムズはバンドが2人目のリズム・ギタリストを雇うまでリズム・ギターを演奏する方を選んだため、全面的にボーカルに集中することができた。しかし、1982年夏に起きた問題は別にあった。

    ラーズはその時のバンドの考えを大まかに話した。「どういうことかというと、ジェイムズが初めてリズム・ギターを演奏し始めた時、それを容易にこなせたってことさ。彼に本当にぴったりハマっていて、それだけの才能があったんだよ。彼とムステインが一緒になったらとてもすごいことになった。ジェイムズはこう言ってたよ。「クソッ!俺がステージを駆け回って歌う代わりに別のシンガーを一人見つけようぜ!俺がリズム・ギターを弾けば、マルコム・ヤングかルドルフ・シェンカーみたいじゃないか。」ってね。1982年夏、後半の数ヶ月は、ギタリストじゃなくて、リードシンガーを探していたんだ!それで何人か試した。有名なヤツはいなくて、地元のファンだけだったけど。そこにはアーマード・セイントもいた。LAで俺たちみたいなヘヴィメタルをやっていた他では唯一のバンドさ。彼らはジューダス・プリーストやアイアン・メイデンの影響を強く受けていて、俺たちよりメロディックだった。それでも彼らは他のバンドなんかより幾分ラウドだったしヘヴィだったね。俺たちは彼らと何回かギグをやったんだけど、彼らは本当に可笑しかったよ。ジョン・ブッシュっていうシンガーがいて、俺たちは才気溢れるヤツだと思った。」

    「俺たちは実際数ヶ月の間、ジョンに対して、騎士の鎧を身につけてステージを駆け回るような、アーマード・セイントがやっているクソみたいなことで時間を無駄にする代わりに真っ当なヘヴィメタルバンドに加わるべきだと言って説得を試みた。でも彼は何も話を聞こうとはしなかった。アーマード・セイントはLAでは俺たちより大物だったからね。それに実際俺たちは彼らのサポートを何回かやっていたし。でも俺たちは本当のヘヴィメタルがどんなかってことをわかってたし、(相手が大物だろうが)そんなことは気にもしなかった。俺たちはただジョンに俺たちのバンドに加わるべきだと伝えたんだが、彼はそれを望まなかった。そんなわけでヘットフィールドは歌い続けているんだ。」

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

    ちなみにアーマード・セイントも『Metal Massacre』に参加したバンドのひとつですね。鎧を着たメンバー集合写真が画像検索で見られると思います。ジョン・ブッシュが後にアンスラックスのボーカルとして加入することになるのも何かの縁でしょうか。

    johnbush_metallica
    メタリカ結成30周年のフィルモア公演にて実現したジョン・ブッシュがボーカルのメタリカ

    そして、ギターを弾いているうちにリズム・ギターの才能が開花してしまうジェイムズ!(笑)結局、新しいボーカルを加入させるのは諦めることになりますが、この後もメタリカの運命を大きく変える出来事が起こります。

    次回、クリフ・バートン登場予定。

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    アルゼンチンのジャーナリスト、ルーカス・H・ゴードン氏のインタビューに応じたロバート・トゥルージロ。メタリカに加入して早10年以上経つわけですが、メンバーそれぞれの性格について語っています。BLABBERMOUTH.NETの文字起こしを管理人拙訳にて。

    roberttrujillowarwick2014

    みんな、それぞれ素晴らしいよ。みんな全然違うけど、それがバンドとしてメタリカを面白くしている。

    とても自由主義で信じられないほど知的なヨーロッパ人(ラーズ・ウルリッヒのこと)と仕事をしている。俺たちみんなとは全く違うモノの考え方なんだ。それは彼の育てられ方、躾、教育からきているんだね。

    ジェイムズは実際バンドにおける音楽の才能そのものだ。間違いない。でも同時に彼はとても繊細な性格なんだ。そして強い外見を持ち、あんなふうにとても信義に厚くパワフルだ。本当に彼からたくさんのことを学んだよ。人としてだけじゃなく音楽を通じてもね。

    俺たちはみんな・・・誰一人として人生完璧じゃない。誰一人ね。でも俺たちは音楽で最善を尽くす。つまりそういうこと。そして、それを笑うのさ。本当にクールなときもあれば、あんまりクールじゃないときもある。それでいいんだ。いつも楽しんでベストを尽くしているよ。

    一方、カークは日に2回ヨガをするし、サーフィンをするし、多分瞑想もしている。そして赤身肉を全然食べないんだ。

    つまりはみんな違う性格ってこと。

    ジェイムズは車が好きで、クラシック・カーからラット・ロッド、ローライダー、カスタム・カーまで全部大好きだし・・・。俺はサーフィンが大好きで、海も大好きだ。

    カークと俺は熱烈なサーファーだから、いつだってチャンスを狙っているんだ・・・。バリにいてもね。俺たちバリにいたんだ。どこにいようと波さえあれば、サーフィンしたいんだよ。だからみんな、お気に入りのスポットに招待してほしい。どこにいようと、俺たちはサーフィンしに行くよ。


    BLABBERMOUTH.NET(2014-09-22)

    インタビュー動画はこちらから。


    正直、メンバーみんなイメージどおりです!(笑)バンド内がいい雰囲気であることがうかがえますね。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカ草創期に欠かせないデイヴ・ムステインが登場。訳していてニヤニヤしてしまったエピソードをどうぞ。

    - メタリカ結成(後編) -

    「俺たちはあの曲「Hit The Lights」を書いたんだ。」ラーズは語る。「あれは2つの組み合わせだった。曲はジェイムズがレザー・チャームにいた頃に書いた。曲の後半のアウトロは、俺がかつて初心者たちと会っていた時に1、2週間で出来た。そうして「Hit The Lights」を持ち寄ってロン・マクガヴニーの家でレコーディングしたんだ。」

    この頃のラーズとジェイムズのふるまいの特徴は、自発的に組んだこのバンドのなかでベーシストを少し脇に置いておくという具合だった。

    「ロンは公式にはバンドにいなかったかもしれない。でも彼がいた時、彼はベースを弾き、よくつるんでいた。」ラーズはそうコメントし、「Hit The Lights」の最初のバージョンでベースを弾いたのはジェイムズだったと認めた。だが、ジェイムズは曲のためのソロを弾くことができなかった。当時、彼はギターを弾くことにそれほど集中していなかった。歌うことにエネルギーをより傾けていたのだ。そこでバンドはヘヴィメタルの本質を構成するソロを弾ける誰かを確保しなければならなかった。このプロジェクトのほとんどと同様、それは同時並行で行われた。ラーズとジェイムズはブライアン・スレイゲルのスタジオに行く途中でギタリストのロイド・グラントに会い、ソロをレコーディングしてくれるよう頼んだのだ。

    「そう、彼はやって来た。」ラーズは認めた。「彼は自分のソロを弾いた。充分の出来だったよ。そうして俺はブライアン・スレイゲルにテープを渡したんだ。」

    ブライアン・スレイゲルはそれを聴いて衝撃を受けた。「あぁ、本当に素晴らしかったね。彼らが一緒にやったものだとは信じられなかった。」それこそがスピードを増したエネルギーの放出、かつ『Metal Massacre』の最も速いパートに対するブライアンの最初の自然な反応だった。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

    しかしながら、「Hit The Lights」のプロダクションにはちょっとした問題があった。ブライアンは少ない予算から曲のサウンドを調整できる技術者のために50ドルを費やさなければならなかった。だがラーズとその友人たちとブライアンはこの曲について本当にいいものだと実際に感じていたようだった。

    「本当に「ガレージ」だったよ。」ラーズは振り返る。「他のバンドと比べると、サウンドはクズみたいなものだった。でも本当にある種のエネルギーと誠実さがテクニックの欠如を補っていたよ。「プロダクション」ってのは当時は本当に大げさな言葉だったんでね(笑)。」

    彼はついに最後の手段であった小さなグループを任された。バンドの名前はコンピレーション盤のために必要不可欠なものだった。そこでラーズはすぐにとてもいい提案をした。と、伝説は語る。実際、真実に近かったのは、ラーズとよくつるんでいたサンフランスシコのメタルファンでヘヴィメタルのファンジンをまとめようと奮闘していたロン・クインターナという人物の提案だった。ロンはラーズにファンジンの名前候補のリストを見せた。そのなかに明確なビジョンのある名前があった。ファンジン向きではないが、ラーズのバンドにぴったりな名前「Metallica」だ。(もし彼がそうなるよう動いていたとしたら、素晴らしい日だ。)ロンに「Metal Mania」という名前を提案するくらいの人の良さはラーズにもあった。

    その名前はアメリカ西海岸のメタル・アンダーグラウンド・プロジェクトの名前となった。メタリカファンはおそらくその選択について祝うことができるだろう。Metallicaという名前がヘヴィだったというだけでなく、ロン・クインターナのリストにはBleeder、Blitzer、Grinder、あるいは暫くのあいだラーズのお気に入りだったThunderfuckというゾッとするような名前まで載っていたのだから。

    だが、バンドの名前、Metallicaは目新しいものだった。それゆえ、『Metal Massacre』のレコードには「Mettallica」と印刷されてしまった。さらに最新メンバーの名前もスペルを間違われた。ロイド・グラント(Lloyd Grant)は「Llyod Grant」に、ロン・マクガヴニー(Ron McGovney)は「Ron McGouney」に。しかしこれらについて彼らは何もすることはできなかった。

    ブライアン・スレイゲルは説明する。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「その時は既にアルバム用に用意してあった2000ドルも使い切っていたんで、もうそれでおしまいだったよ。もちろん、当時はそんなに大事なことだと思わなかったからね・・・。」

    しかし、バンドにはまともなヘヴィメタルのバンドとして最も重要な要素が欠けていた。ライヴ・パフォーマンスである。ラインナップの点でも、メタリカにはその場所がしっくりきていなかった。ラーズとジェイムズはすでに自身をバンドの中心軸に据えており、ロン・マクガヴニーは傍観者としての位置に置かれ、ロイド・グラントはバンドの雇われ人にすぎなかった。初のギグを試みようと、メタリカは初めてのデモテープをレコーディングした。そのテープは「Hit The Lights」と2つのカバー曲から成っていた。ラーズお気に入りのNWOBHMシーンの「Killing Time」(スウィート・サヴェージ(Sweet Savage)の曲)と「Let It Loose」(サヴェージ(Savage)の曲)である。

    「俺たちがソロのギタリストを加入させる前に、ロイド・グラントは1stデモのテープでソロを弾いた。だから彼はメタリカに一時的にいたことになる。でも本当はリズムをキープしていくこともできなかった。」とラーズは語る。

    ジェイムズは本当はギタリストよりもシンガーとしての役割を貫きたかった。ラーズとともに代わりをみつけるまでリズム・ギターを弾くだけだと思っていた。そこで2人は再び「Recycler」に募集広告を載せた。

    ラーズは1982年の1月か2月まで時計の針を戻した。「ある日、俺の家の電話が鳴った。「Recycler」の広告を見たというデイヴ・ムステインというヤツからだった。俺たちはまだギタリストを探していたんだ。そしてデイヴ・ムステインは・・・単刀直入にこう言った。「俺は機材を全部持っているし、本当にいいぜ。運転手もいるし、カメラマンもいる。それに・・・」とアイツは全てをなんだかんだと口走っていたよ。それから俺はジェイムズに電話して言ったんだ。「彼はいい意味でどうかしてるみたいだから、会ってみなきゃダメだ!わかるだろう?」とね。デイヴはノーウォークから手持ちの機材全てを持ってやってきた。」

    「アイツはとても感じがよくて魅力的だった。当時、俺たちのほとんどはまだ女の子ともお付き合いしたことのない18歳のシャイなガキだった(笑)。これは本当のことだけど、俺は童貞をアイツの元カノに捧げたんだからね!俺たちはそんな負け組だったんだ。そして鋲付きブレスレットを身につけた真のヘヴィメタルなヤツになり始めたんだ。でも特にヘットフィールドはとんでもなくシャイだった。デイヴは胸毛があって、見た目もよかった。ハンティントンビーチで大麻の売人をやっていた。いつも周りには取り巻きがいた。すでにパニック(Panic)というバンドもやっていた。そのバンドは何回かギグをやっていて、ファンも少しばかりいたんだ。だからデイヴをバンドに入れたら、突然レベルが上がったのさ。ウチの母親もあの子は美しいなんて思っていた。俺の母親と話す時、アイツはとても気楽で本当に魅惑的に話すんだ。「お元気ですか?ウルリッヒさん。」とね。」

    「当時、ヘットフィールドはまだ人の目を見ることができなかった。本当にシャイで、顔中にキズが残るようなニキビもあった。それにロン・マクガヴニーはスターという素材じゃなかった(笑)。そこへ胸毛と度胸を持ったムステインが現れたわけだ。」


    「彼は凄かったね。自分のアンプとペアのギターとかそういうものを持っていた。ダイアモンド・ヘッドを知らなかったけど、よく人の話は聞くし、いとも簡単に新しいことを身につけていった。俺が「Am I Evil」を聴かせると、アイツはそれを10分で手に入れていた。前後左右裏表を完璧に学んでいたのさ。ギターを弾く生まれ持っての才能を本当に持っていたし、物事を理解しようとする意志があった。アメリカではまだ誰も知らないダウンピッキングを理解したからね。」

    「個人的には最初の数ヶ月のあいだは少し奇妙な感じだった。俺はニューポートビーチに住んでいて、アイツはウチから10分のハンティントンビーチに住んでいた。だから俺が毎日アイツを迎えに行ったんだ。アパートに迎えに行くと俺はいつも中庭で待っていた。アイツはアパートのなかでソファに座って、10人くらいに囲まれていた。ミニ・スカーフェイス(訳注:麻薬の売人がのし上がるギャング映画『Scarface』(1983)のこと)みたいだったよ。ただ座って、大麻の入ったいろんな袋を売りさばいていた。最初にジェイムズと俺にとって、それはちょっとおかしいなと思ったことは、明らかにデイヴが俺たちのバンドに加わったはずなのに、俺が迎えに行ったら、中庭にいた俺に向かって「あれが俺の新しいドラマー、ラーズだ!」と言ったことだ。本当に理解できなかった。「俺のバンド、メタリカだ!」とも言っていたよ。驚きだね!」

    「アイツはクールなものを持ち合わせていた。本当に個性的な魅力を持っていた。カリスマだ。周りにはいろんな女の子がいたし、俺の母親はアイツに首ったけさ。だから俺たちはアイツをNWOBHMへと溺れさせるんだ。でもそれはアメリカでより保守的な傾向を持った人たちとの初めての遭遇にもなった。俺とジェイムズはヴェノム(Venom)に熱中していて、彼らのアルバムが81年の8月に出たんだ。そのレコードをデイヴに渡しに持っていったら、アイツはいらないだとさ・・・。悪魔主義じゃないか!だと。最初は怖がっていたみたいだよ。でもヴェノムを除けば、俺が聴かせた音楽はアイツにとっては皆とてもクールだったようだ。」

    このカリスマ的な赤毛の人物(カリフォルニア州ラ・メサ出身、1961年9月13日生まれ)はヘヴィメタルにものすごい熱意を持ち、強固なギター・プレイにより、メタリカはダイアモンド・ヘッドの曲のソロだけではなく、セットリスト構成の範囲を広げ、初めてのコンサートを待ちわびるまでになった。

    1982年のロサンゼルスでは、ソロを演奏するエネルギッシュなムステインのいるラインナップを持ってしても、ヘヴィメタルの力で自己主張するのはかなり難しいことだった。当時のロサンゼルスの問題は、ハードロック・シーンがますますメロディックでグラムロック寄りのソフトなヘヴィメタルによって支配されていたということだった。

    街でギグをやるのも難しかった。一つには、ほとんどのクラブでバンドはオリジナル曲を演ることを要求されていたし、さらにもう一つはメタリカの音楽が、メタルのクラブにとっては速すぎてパンクだったし、パンクのクラブにとってはメタルすぎたからだ。(これらの互いに異なる要素は、それからまもなくして、共生して大きな成功を収めていく。)しかし、メタリカは最初の問題を解決した。「Hit The Lights」は別として、ダイアモンド・ヘッド、ブリッツクリーグ、スウィート・サヴェージといった内輪以外にはまだ知られていなかったNWOBHMバンドのカバー曲が彼らのセットリストに含まれていることを誰にも言わないことによって。クラブでギグをやるためのもう一つの問題も、大きなネットワークと最初の好機に飛び乗ったおかげで解決した。最初のライヴは1982年3月14日アナハイムのレディオシティで行われた。デビューのショーはデイヴがオープニング曲「Hit The Lights」の演奏中に弦が切れ、経験不足のバンドは皆、彼が弦を直すまでバックステージに引っ込むという意図しない滑稽な幕開けとなった。

    記録魔のラーズは「メタリカのギグ」と呼んでいた緑色の学校仕様の小さなノートにメタリカとして初めてのショーの印象をこう書き残している。「これまでで初めてのライヴ。とても緊張した。ワンマンライヴ。デイヴが最初の曲で弦を切った。演奏はまぁまぁ!!!かなり良いとまではいかなかった。」

    ラーズの記録によると「おおよそ75人」の見物客が9曲のセットリストを観たとある。(この75人の熱狂者たちはみんな、誇りを持ってそこにいたと後に認めたことだろう。)さらにラーズはデビューしたギグでバンドは15ドルの報酬(訳注:当時のレート換算で3000円ちょっと。)を得たと書いていた。

    しばらくして、ラーズのヒーローでイギリスのNWOBHMのスターであるサクソンが、ヘッドライナーを飾るハリウッド西端のサンセット・ブルバードにある伝説的なロッククラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われる2つのショーでサポートバンドを必要としていた。アナハイムで最初のパフォーマンスで失敗したことに怖気づかず、メタリカはそこへ現れた。彼らは同じ日に2つのサポートアクトをこなしたのだ。

    ラーズの記録帳は初めてのショーと数え直されていた。「サクソンのサポート。サウンドチェック無し。サウンドはひどかった。デイヴはチューニングずれっぱなし。自分の演奏はよく出来ていた。でもバンドは全体としてクソだった。OKレベル以下。」もう1つのライヴでは「サクソンのサポート。今回はいいサウンド。デイヴと俺の演奏はよかった。ロンとジェイムズはまぁまぁ。かなり良いとまではいかなかった。楽しかったけど、サクソンには全然会えなかった。」

    一ヶ月ほど後にメタリカはLA中心街とサンディエゴのあいだ、コスタメサにあるコンサート・ファクトリーで50人を前にライヴをした。この時メタリカは初めて5人組として登場した。ブラッド・パーカーという名前の友人がリズム・ギターとして参加したが大きな成功は得られなかった。次のギグはラーズの学校であるバックベイ高校のホールで生徒たちの昼休み中に行われた。メタリカはもう一度5人組を試した。しかしラーズの記録帳にはこの記憶すべきライブについて言及されていない。1982年5月25日のページにはひどい動揺が記録されていた。「完全に忘れ去りたい日だ!!演奏もクソ、ライヴもクソ、サウンドもクソ。本当に最悪だ。」

    アナハイム、ハリウッド、そしてコスタメサで行われたショーで、メタリカはパフォーマンスによる爆発的なスタートを切ることはなかった。しかし、それらのギグによって彼らの野心が突き崩されることもなかった。そしてまもなく、いつも野心的で積極的なラーズ・ウルリッヒはブライアン・スレイゲルの元にやってきた。メタリカは絶対にアルバムを作らなければならないとラーズは考えていた。ブライアンは反対だった。彼は自身のレコード・レーベルを運営していくに充分な仕事があったし、現金収入はあったが額は低かった。(収入の1つには『Metal Massacre』が1982年6月14日に4500枚リリースされるからであった。)だからアルバム制作に必要な8000ドルは融資できなかったのだ。その代わり、ラーズとメタリカは自分たちの野望を少し抑えなければならなかった。アルバム制作とレコード会社との契約へのもっと自然の道を進むこと、つまりデモテープによって。

    むしろ、それが適切だったのだ。デイヴ・ムステインの加入後、まだメタリカはこの時の楽曲をまとめたいわゆる「Power Metal」と呼ばれるデモテープしかレコーディングしていなかった。(デモテープ・ネットワークにちなんで名付けられ、ラーズの名刺にも「Metallica - Power Metal」と書かれていた。)

    ただし、最新の機材でより良くプロデュースされたデモ、あるいは少なくともかなり良いデモにもお金がかかる。しかし、運命が良い助けをたぐり寄せる。メタリカは他の場所でスタジオに時間を費やすことができた。独立系レコード会社「High Velocity Records」にいたケニー・ケーンという熱狂的なパンクファンがメタリカのライヴ録音を聴いていたのだ。ケニー・ケーンにとってそれは十分に良いものだと確信していた。速くて荒削りでガチャガチャした「パンク・ノイズ」のEPをプロデュースしたいと思っていたのだ。しかし、彼はスタジオでレコーディングし終えたものを聴いてガッカリしてしまう。彼にとってこれらの楽曲は「ヘヴィメタル過ぎ」たのだ。なぜ彼がライヴで聴いた曲をレコーディングしなかったのだろう?

    「そりゃあ、あれはカバー曲だったからだよ。」バンドはそう答えた。

    スタジオ代はすでに払われていたので、「High Velocity Records」が提案したEPのプレスを断念しているあいだにメタリカは自分たちの新しいデモテープを自分たちの元へ持ってくることができた。

    そしてそのデモテープは、持って帰るには、そして世界中に送るには充分の出来だった。こうしてラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカは1982年7月に本当の意味で始まったのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

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    デイヴのメタリカ在籍時の一枚(左からジェイムズ、ラーズ、デイヴ)

    ミュージシャンとして(あるいはフロントマンとしても?)、すでに抜きん出た才能のあったデイヴには、メタリカに加入した当初からメンバーをリードしている自覚があったからこそ「俺のバンド、メタリカ」発言につながっていったのかなぁ。ラーズにとっては相当不愉快に感じたであろう不用意な発言でしたが(苦笑)

    こんな話を読みつつ、ロイド・グラントとデイヴ・ムステインの弾くソロを聴き比べてみるのも一興です。

    『Metal Massacre』収録の「Hit The Lights」


    デモ『No Life Til Leather』収録の「Hit The Lights」


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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。ついに第3章に突入しました。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズがいよいよメタリカ結成へと具体的に動き出します。

    - メタリカ結成(前編) -

    イギリスでラーズはヘヴィメタルの音楽そのものや雰囲気を体験し、その背景にいる人々と会ってきた。モチベーションはかつてないほど強くなり、集中力は変わらず鋭くなっていた。ついにラーズはテニスやその他トップレベルのスポーツの経歴をあきらめ、純粋な気持ちでバンドを始めたのだ。(バンドを始めることは)この若者にとっては文化的な面、あるいはミッションでもあった。つまりそれはヘヴィメタルの本質を普及させることだ。アメリカ、特に当時のロサンゼルスにはそれが決定的に欠けていたのである。

    ラーズが「ホーム」であるカリフォルニアに帰った時、ついにバンドを始めるという火がついた。ただ、処理すべき些細な点もあった。学校だ。

    「3ヶ月もヨーロッパとイギリスにいて、ダイアモンド・ヘッドとモーターヘッドとお近づきになって、本当に夢中になっていた。帰ったらバンドを組もうと思った。」ラーズはそう認めた。「でも学校の問題があった。俺たちが住んでいたカウンティーには4つか5つの学校があったんだけど、そのなかには学校になじめない生徒や他の学校に行けなかった生徒のためにいわゆる補修学校があった。バックベイ高校っていう学校だったんだけど、自分のスケジュールで受講できたのがクールだったね。学んで、取り組んで、合格しなきゃならないことがあった。でもそれが多かれ少なかれ、自分のスケジュールで進めることができたんだ。それは俺にぴったりだったよ。他のことを夢中になって続けていたあいだ、バックベイ高校で卒業証書を取るために通うことができたんだ。だから俺はこう思っていた。「いったい俺は今何をやってるんだろう!?」ってね。」

    その答えは問い自身が答えているようなものだった。

    ラーズの良き友人ブライアン・スレイゲルも、より具体的かつ創造的な面ではあるが、ロサンゼルスでヘヴィメタルに囲まれた夏を過ごしていた。スレイゲルは毎日普通のレコード店で働くだけでなく、自分のお気に入りの音楽のためにインディーズから広範囲にわたるサポートが得られるよう働きかけていた。空いた時間にはファンジン「The New Heavy Metal Review」の編集者として地元のクラブショーを宣伝推進していた。加えて、趣味の全ての要素を一本化するプロジェクトに取り組んでいた。そのプロジェクトとは新しく若いアメリカのメタルバンドのコンピレーション盤である。充分なだけの今日的なバンドと曲を集めたら、自身のレーベル「Metal Blade Records」からコンピレーション盤『Metal Massacre』をリリースできるようスレイゲルはいくつかの販売業者と契約をしたのだ。

    ラーズ・ウルリッヒ「俺はその頃「バンドで演奏した」とかそういうことを触れ廻っていた。彼はLAの新しいクールなバンドたちでコンピレーション盤をと考えていた。もちろんそんなバンドは少なかったけどね。もし俺がバンドを組んだら、そのコンピレーション盤に収録してくれると約束してくれた。だからもはや俺は機能する何かのバンドを組まなければならなかった。今じゃセルフプロデュースのアンダーグラウンドなものはたくさんあるけど、当時はアルバムに収録されることがメジャーなことだったんだ。」

    ブライアン・スレイゲルの『Metal Massacre』プロジェクトの話を聞いた時、ラーズはすぐに反応した。ラーズには他の人もそのレコードに収録されることが不可欠なことだと感じるかもしれないという考えがあった。そしてこの方法なら、とてもシャイであまり乗り気ではなかったジェイムズ・ヘットフィールドをバンド結成に誘うことができるかもしれない。いずれにしてもラーズはスレイゲルにバンドを組んで、『Metal Massacre』アルバムのためにオリジナル曲を作ると約束した。それはコンピレーション盤に参加する全てのバンドの条件だった。スレイゲルも同様に「ラーズのバンド」のためにレコードに収録する空きを確保することを約束した。

    それからラーズはジェイムズ・ヘットフィールドに電話をする。

    「そうさ、俺はジェイムズ・ヘットフィールドには何かあると思っていた。」
    ラーズはそう語る。「だから俺は彼に電話して言ったんだ。「友だちがレコードに収録する空きを確保してくれたんだ。だからキミさえよければ、俺たちでバンドを組んで、曲を書いて、それで俺たちのバンドの名前をアルバムに載せようよ。それからバンドを続けようぜ!」ジェイムズはヒュー・タナーとやっていた全てのことがぶち壊しになっていて、新しく何かやる準備は万端だった。ジェイムズは6月に高校を卒業していて、ベーシストのロン・マクガヴニーと同時にノーウォークに引っ越していた。そこで彼らはリハーサルをしていた。俺たちは81年の10月には毎日集まって一緒にやり始めた。あの落ちまくったシンバルは忘れ去られた。あるいは少なくとも大したことじゃなかったんだな。」ラーズはそう付け加えた。

    (訳注:デンマーク訛りの)おかしなアクセントとすぐ落ちるシンバルを持ち合わせた小柄な男からの話という疑念はあった。しかしラーズ同様、若く熱烈なメタルファンであり子どもの頃からヘヴィメタルを聴いて育ったジェイムズにとってそのような好機に恵まれることはとても難しかった。

    ジェイムズ・ヘットフィールド(1963年8月3日生まれ)が8歳の頃、彼は兄デヴィッドの部屋に忍び込んではブラック・サバスの1stアルバムを聴いていた。そのレコードによって好奇心旺盛な幼いジェイムズはメタルのブラックホールへと引きずり込まれた。

    ジェイムズ・ヘットフィールドは『Black Sabbath』について筆者にこう語った。「全世界で最高のアルバムだよ(笑)。俺が大好きで、妹をとにかく怖がらせたジャケット。そしてあの音楽・・・。兄貴は俺より10歳年上だったんだけど、自分の部屋に自分のレコード・プレーヤーを持っていた。だからいつもこっそり忍び込んでは、あのアルバムを出して再生していた。それがトラブルを招いた。多くの家はまだそんなものは持っていなかった。ある友だちが家に来てあのアルバムを聴いていたら、そのうちの一人がこう言ったんだ。「えっ、キミのママはブラック・サバスみたいなものを本当にキミに持っていいって言ったのかい?」とね(笑)。でもトニー・アイオミは本当にヘヴィなリフをあのアルバムのなかで書いていた。俺にとって彼は究極のギタリストなんだ。」(1997年4月4日のインタビューにて)

    1978年、ジェイムズの兄はジェイムズにとって初めてのコンサートへと連れて行った。エアロスミスとAC/DCのコンサートで、15歳のジェイムズはこの体験を本気で楽しんだ。ファンの絶叫さえも。彼は世界中の何にも増してこれをやりたいと思ったのだ。

    ジェイムズは幼い頃、母親とピアノの演奏を学んだ。後に兄がリハーサルをしていた家のガレージに忍び込んでは別の楽器を試していた。学校教育で彼は初めてのギターを得た。そのギブソンSGは彼のギター・ヒーローであるトニー・アイオミが使っているものに見えるよう黒く塗られた。小さい頃、ジェイムズはオブセッション(Obsession)というバンドで、LAのダウニー東中学校の友人と一緒に演奏し始めた。ジェイムズはその後、ファントム・ロード(Phantom Lord)、レザー・チャーム(Leather Charm)といったバンドで演奏した。最初の頃はカバー曲を演っていた。(どちらのバンドもヒュー・タナーがギター、ロン・マクガヴニーがベース担当だった。)しかし徐々にジェイムズは他のバンドをブラック・サバスとシン・リジィの定番曲を演って打ちのめすよりも自分自身の曲を書きたいと思い始めていた。ただしバンドの仲間たちはオリジナル曲を作曲したいという願望を共有していなかった。そんな時にラーズが登場してきたのだ。彼はオリジナル曲を書くことを了承し、2人は音楽雑誌とインスピレーションの源を分け合った。ラーズはレコード会社との契約の一切を引き受けた。おそらくテクニックや才能よりも熱意と意志の強さが勝っていたであろう、この「ラーズ油田採掘会社」は、ジェイムズにとってそれほど問題ではなかったのだ。

    2人のティーンエイジャーは社会的にも個人レベルでも明らかに違っていた。ラーズはヘレルプの芸術的で自由で奔放な家で育った。一方、ジェイムズはLA育ちであり、ネブラスカ出身でカントリーミュージック愛好家のトラック運転手と、たとえ彼が日曜日は寝ていたいと思っていても愛ゆえに息子を教会にしょっちゅう連れて行くような、芸術的には才能があったがとても信心深い母親のあいだに生まれた息子だった。

    ラーズはいまだに両親が健在(訳注:母親のローン・ウルリッヒさんは1998年に亡くなっている。)で、彼らは優れた洞察力を持ち、とても活動的だ。ジェイムズはトラウマとなる幼少期を過ごした。父親は家を出て行き、続けて妹と衝突を繰り返し、ラーズと会うすぐ前には病気の母親が若くして亡くなっていた。ジェイムズはまだ死んだ母親とその悲劇によって、その後何年にも渡って彼を特徴付ける罪悪感で満たされた、ただの子どもだった。(それはメタリカの曲のなかにも影響している。この話にはまた後ほど触れる。)前述したようにジェイムズは10代のあいだ兄のデヴィッドと暮らし、高校を卒業してから家を出た。そしてこれも前に述べたようにロン・マクガヴニーとともに。

    そんなわけで2人の若者のあいだの行動的、そして社会文化的な違いは充分すぎるほどハッキリと存在していた。しかしラーズとジェイムズは最初の具体的な音楽の仕事、つまり『Metal Massacre』アルバムのために曲を書くという楽しみを分かち合ったおかげでうまくやっていくことができたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    Young_Lars_and_James
    マーシャル・アンプとフライングVを前に若き日のラーズとジェイムズ。

    生まれた環境の違いを考えると、コンピレーション盤という「餌」を手にしたラーズが一番に連絡したのが、ジェイムズというのは不思議な感じがします。でも、音楽的嗜好や音楽に対する熱意に何か通ずるものを感じたのでしょう。そして、その連絡したタイミングが少しでもズレていたら、今のメタリカはなかったかもしれませんね・・・。

    次回は「大佐」が登場予定。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。ラーズとジェイムズが出会ってすぐにメタリカ結成とはならず。ラーズはヘヴィメタルの「本場」を自分の目で観るためにイギリスへと向かいます。

    - 夢の国への片道切符 -

    81年春、ラーズのNWOBHMへの狂信ぶりはいまだ健在だった。4月、ラーズは絶対的お気に入りバンドのひとつ、ダイアモンド・ヘッドの『Lightning Strikes』LPをメール便で受け取った。このアルバムは彼を完璧にぶちのめした。彼は半年以上もこのアルバムを待っていたのだ。ギターリフとバンドの新鮮味は彼を驚愕させた。『Lightning Strikes』は数年間のNWOBHM集中期における爆発的なクライマックスだった。いまやあの都会っ子はポケットに少しばかりの貯金を持った17歳の少年となっており、夏休みは目前に迫っていた。

    「学校が6月に終わると、俺は落ち着かなくなっていた。これまで興味を持ったもの全てがイギリスにあったんだ。「Sounds」誌を購読していたから、郵便屋が来るたびに「Soundsの最新号は?・・・Soundsの最新号は??」って感じさ。メール便に入ってたら、玄関前で2時間「Sounds」誌を読み漁るんだ。自分の部屋まで歩くことさえしなかったよ。」

    「ジェフ・バートンは「Sounds」誌におけるヘヴィメタルのゴッドだった。彼は毎週アンダーグラウンド・シーンから新しいバンドを紹介していた。そして毎週、彼のプレイリストと着ている服が載ってたんだ・・・。いやぁあれはバイブルだったよ!」

    「当時、サクソン、アイアン・メイデン、デフ・レパード、ガールスクール、サムソン、そしてタイガース・オブ・パンタンといったメジャーなバンドたちがトップ記事になり始めていた。ある週はガールスクールが表紙を飾り、次の週はクラッシュといった感じでね。「Sounds」はヘヴィメタルだけじゃなくて、全ての独立した音楽シーンを網羅していたんだ。」

    「だからもう俺はイギリスに行かなきゃなんないって思ってた。コトが起きている場所へ行かなきゃなんないって。81年の俺のお気に入りのバンドはダイアモンド・ヘッドだった。そして俺はバンドのマネージャーであり、ヴォーカルのショーン・ハリスのお母さんでもあるリンダ・ハリスと文通をし始めていた。彼女は俺にこう伝えてきてくれた。「もしイギリスに来るんだったら、いつでも歓迎するわ!」とね。」


    「ダイアモンド・ヘッドは6月最後の週と7月最初の週のあいだ、ツアーでヘッドライナーを務めていた。だから7月最初の週に俺は荷物を詰めてロンドンに飛んだんだ。ダイアモンド・ヘッドはロンドン郊外のウールウィッチ・オデオンでライヴをしていた。俺はヒースローに着くと、直接空港からウールウィッチまでバッグを手に持ったまま行って、バックステージのドアをノックして、リンダ・ハリスがここにいるかときいたんだ(笑)。「こんにちわ・・・ご存知かと思いますが・・・アメリカから来たラーズです!」って言ったら、両手を広げて歓迎されたよ。」

    「ロンドンのダイアモンド・ヘッドはこれ以上ないってくらいよかったね!会場はたぶん1500人収容だったんだけど、あのダイアモンド・ヘッドをたった300人しか見に来そうもないってことには間違いなくちょっと驚いたよ。でもそれから、そんなことはどうでもよくなったんだ・・・。ただ単に最高だった。そして(訳注:メタリカが後にカバーすることになる)「Helpless」も「The Prince」も演ってくれたんだから。」

    「ツアーの最終日、彼らの故郷であるバーミンガム郊外のスタウアブリッジに招待されたんだ。俺はちょうど立ち寄ることができて、彼らと何日か過ごすことができた。1日か2日はロンドンの安ホテルに泊まって、それからバーミンガムまで電車に乗った。本当に緊張したよ。ショーン・ハリスが駅まで俺を迎えに来てくれるって話だったからね。でもこの頃の俺はアルコールが「勇気」をくれると気がついていた。だからバーミンガム行きの電車で俺はスミルノフボトルのウォッカをストレートであおったんだ。まだ昼下がりだってのに!」

    ラーズはちょっと話を止めると、笑ってまた話し始めた。

    「そうそう(笑)。ショーンが駅まで迎えに来てくれたんだけど(笑)彼はガールフレンドのヴィッキーと一緒だったんだ。俺たちは車に乗り込んだわけだけど、わかっておかなきゃならないのは、あのショーン・ハリスと同じ車に座っているってことだ。レッド・ツェッペリンかディープ・パープルのファンがロバート・プラントかリッチー・ブラックモアに駅まで迎えに来てもらっているかのようだった。俺にとってはそれと同じレベルだってことだよ。ハッキリ覚えているのは車に乗って5分後くらいにショーンが俺に言ったこと。「ここウォッカ臭いな、オマエ飲んだのか?」とね。俺は「いやいやいや・・・もちろん飲んでませんよ!」と答えた。「本当にウォッカの臭いがするぞ、おかしいな」とショーンはまだ言っていた。もちろん俺は「ウォッカの勇気」をもらってたんだけどね(笑)。」

    「バーミンガム郊外の労働者階級の地区にある彼の家に着いた。実際、俺はここで2、3週間居座ることになるんだけどね!俺はリビングで生活して長椅子の上で寝ていた。そしてダイアモンド・ヘッドに関する全てのものに夢中になることを許された。リハーサル風景、作曲過程やギグも観たし、彼らが演奏しているところも見た。もはやこれ以上ないくらい最高だったよ。」

    この訪問はブリティッシュ・メタルの先駆者であるダイアモンド・ヘッドにとっても貴重な体験だった。

    「俺たちは彼を追い出せなかったんだ。」ショーン・ハリスは語る。(マーク・パターフォードとザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)から引用)「でも俺たちにとってもちょっと特別な感じだったんだ。彼はバンドに夢中になってくれた最初の外国人だったから。だから俺たちは彼の熱意を気に病まなかった。だって、ファンがカリフォルニアからわざわざ自分たちを見に来たんなら、自分たちは何か正しいことをしていると思えたからね。」

    ショーン・ハリスはラーズが泊まった初めての夜にお気に入りのダイアモンド・ヘッドの曲でどう狂っていたかハッキリと覚えている。

    「でも彼はいい子だったよ。ひくほど熱心なファンだった。彼は一晩中起きて「It's Electric」を聴いているんだ。俺は明け方まで起きていたんだけど、眠ってしまった。数時間後に目が覚めたら、彼はまだそのレコードをかけていたよ!」

    ラーズはヘヴィメタル天国にいた。自分の国、言うまでもなくニューポート・ビーチへ早く帰りたいという証言などまったくなかった。もっと留まりたかったが、外向的で熱狂的であるにも関わらず、ダイアモンド・ヘッドと永遠に一緒にいるということは叶わなかった。お金の問題があったのだ。ラーズはイギリスへの旅行に必要なだけのお金しか持っていなかったし、おかしな話だが、イギリスという夢の国への片道切符しか予約していなかった。しかし、計画を達成するにはそれで充分だった。彼は前年去った街に戻っていた。

    「8月にコペンハーゲンに戻って、そこで4週間楽しく過ごしたよ。」ラーズは振り返る。「叔母のボーディルと叔父のヨルゲンと一緒にゲントフテで暮らした。そこでアメリカに飛んで帰るためのお金を稼いだんだ。(訳注:ラーズが所属していたテニスクラブ)HIKで働いて、そこで毎日舗床を掃除していた。」

    しかし、デンマークの晩夏にストリートを楽しむこともできた。皮肉なことにラーズがフロリダのテニス・アカデミーにいたあいだに、アイアン・メイデンはキッスのサポートでコペンハーゲンのブロンディー・ホールでライヴを行っていた。しかし今度はラーズがコペンハーゲンに戻ってきているのだ。そしてアイアン・メイデンも。バンドは『Killers』ツアー最後のギグを行なった。アイアン・メイデンへの関心はブロンディー・ホールでの不可解な行動の後、激変した。キッスは脅かされキャンセルとなったのだ。バンドはもはやブレッド通りのオッド・フェロー・パレットでヘッドライナーを張っていた。

    ラーズといとこのステインは当然参加した。ラーズにはコンサートが終わったらすぐに行動に出る奥の手があった。

    「1980年のクリスマスにアイアン・メイデンのクリスマスカードを受け取ったのがブライアン・スレイゲルだったと思う。彼はPRとか宣伝が得意なんだ。そのカードをヨーロッパへ持っていくことを許してもらった。オッド・フェローで、俺は警備員の一人に言ったんだ。「ほら、ボクはクリスマスカードを持っている。だからクリスマスト・リスト(訳注:バックステージ・パスのリスト?)に名前が載っているよ。バックステージに入りたいんだけど。」ってね。彼はまんまと騙されていたよ!(笑)」

    「俺たちは寒い更衣室に着くと、スティーヴ・ハリスとデイヴ・マーレイがそこにいた。とても取っ付きやすい人だったよ。ポール・ディアノはひどく酔っ払っていて、ローラースケートを履いていた。「イイものあるけどいるか?」ってきかれて、アフガンブラック(訳注:大麻)みたいなものを作らなきゃならなかった。それから座ってポール・ディアノと大麻タバコを吸ったんだ。」

    ステイン・ウルリッヒ「彼らはみんな信じられないほどフレンドリーでみんな「おいで!」って感じだった。もちろんラーズは彼らについて俺なんかよりずっとよく知っていたけど、いろいろきいていたよ。後になって、ラーズは俺に彼らはシンガーに欠点があると言っていた。だから彼らが新しいメンバーを入れればいいのにと思ったのを思い出すよ。そしてそれを数週間後にやったんだ。それから彼らはビッグになった。(真の意味で)バンドになったんだよ。」

    確かに。ラーズはバンドで機能したかしなかったかを見極めるセンスをすでに持っていた。ポール・ディアノの脱退、そして新しいシンガーで元サムソンのシンガーのブルース・ブルース(ブルース・ディッキンソン)加入のニュースは、再びバーミンガムのスタウアブリッジに滞在していたラーズに届いた。このときはダイアモンド・ヘッドのギタリスト、ブライアン・タトラーと一緒だった。止められないヘヴィメタル巡礼者ラーズは、いまだにヘヴィメタルが無きに等しいアメリカへの帰途、ヘヴィで崇高な啓示を受けるもう数日を要しなければならなかった。

    ラーズはまず、ストーク=オン=トレントのポート・ヴェイルFCで行なわれた本物のヘヴィメタル・ミサに行った。そこではモーターヘッド、オジー、ライオット、サクソンのような名前が連ねたワン・デイ・フェスティバルのヘヴィ・メタル・ホロコーストが行われていた。

    「もちろん俺はコンサート後に何とかしてバックステージに忍び込もうとした。俺はそういうことがかなり得意だったんだ。」ラーズは皮肉っぽく言ってから、1981年夏の幸せなイギリス訪問の後半について話し始めた。

    「"ファスト"・エディ・クラークのギター・ローディーのグラムと仲良くなった。それから俺は「やぁ!」とか「ハロー!」とか言われていた。モーターヘッドと一緒にいることを許されるまでになった。1週間、ブライアン・タトラーと暮らして、3日間ロンドンに行った。そこでノー・ミスと呼ばれていたモーターヘッドがリハーサルをしていた場所をみつけた。そこへ行って、ドアをノックしてみたんだ(笑)そしたらモーターヘッドのリハーサルに立ち会えたよ!昨日のように覚えているよ。"ファスト"・エディとフィルシー・"アニマル"・テイラーとレミーと俺が同じ部屋で座っているんだ。そこは次のアルバムのための曲を作っている場所だった。彼らを見て、フロアに座ってさ、「Iron Fist」を作っているときのことをよく覚えてる。レミーが俺の真ん前で歌詞を思いついて、彼らが次のアルバムのタイトル曲になる「Iron Fist」を弾くのを見たんだ。」

    「同じことを言うようだけど、それはレッド・ツェッペリンのファンが『Physical Graffiti』の曲を彼らによって作られているところを見ているようなものだよ。変な感じだったけど、俺はそういう取り巻きグループに正しく入る方法を持っていたってだけだよ。」


    本当に驚くべき能力だ。その能力はユニークで長年に渡って素晴らしいままであった。それはラーズ本人さえわかっていない。

    「俺はたぶん真っ当なことを言っていたんだ。あるいはいくらかの熱意、誠実さ、あるいはバカさ加減かな?」彼はそう思った。

    「でも釣り合うようになるには、そういうもの全てが充分だった。シーンで何が起きているかを理解できたんだ。俺はそこまで没入してなかったけど、すぐそこにいることを許されていた。たぶんうやうやしい態度とちょっと際立った感じだったからかもしれないね・・・。「デンマークの鼻タレ小僧が外に立っているぞ・・・かまうもんか!」ってね。俺は外に立っていた唯一のファンだった。もちろんそういうバンドがどこにいるのか知っている唯一のファンでもあったわけだけどね(笑)」

    ラーズは心から笑った。自分の「能力」を、自分自身を、若き日の熱意を。そしてあの頃の思い出を。自然と歯に衣着せない積極的な能力は、おそらく子供の頃、世界を廻ってたくさんの人々との出会い、そしてLundevang通りの家に訪れたミュージシャンやアーティストから来たのではないだろうか?

    「まぁ、たぶんそうだろうね!全部。あの頃、つまり親父がコペンハーゲンで一緒にいたすべてのミュージシャン、フランツ・ベッカリーとかそういう近くにいた全ての人々から来ているのは間違いない。俺はたぶん見えない境界線があるのも理解していた。そんな境界線はスミルノフをいただけば消えるけどね。無知だったこともあるかな。俺はノー・ミスに行けばモーターヘッドの人たちと喋ることができると信じていたんだ!」

    いずれにしても、ラーズ・ウルリッヒはそうなることを強く望んでいたのだ。彼は自分のプロジェクトをやり遂げた。さらにファンとしての夢をめいっぱい追い続けたのだ。都会のヘヴィメタルマニアにとって、1981年の夏は魔法にかかったかのようだった。そんな夏はこの年の終わりまで続いていったのである。

    「10月、俺はまだイギリスにいた。あの忌々しいコロナ・デル・マーは9月中旬に新学期が始まっていた。だから俺はすでに「最終期限」を逃してしまっていたんだ。戻ることに特に興味がなかったから、イギリスで立ち往生し続けていた。ふっ(笑)。でも10月中旬には戻った方がよかったんだ。」

    「でもサクソンとライオットのコンサートが(訳注:イギリス南東部の)ブライトンであったから、俺は行ってライオットの人たちと会うためにバックステージに忍び込んだ。サクソンはもういなくなっていたんでね。その翌朝、LA行きの飛行機に飛び乗ったんだ。」


    ラーズは戻った先ですぐにサクソンとも接近することとなった。直に接したわけではないかもしれないが、ラーズがヘヴィメタルの熱狂的なファンから、自分のアイドルたちをサポートするバンドの結成メンバーになるまでわずか半年であった。

    ロックにおける歴史的規模の変革が起きようとした。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

    Mkeynes
    1993年、ミルトンキーンズ・フェスのバックステージにて。左からショーン・ハリス、ラーズ・ウルリッヒ、ブライアン・タトラー

    ラーズの恐るべき行動力はここに来てさらにエスカレートした感があります。イギリスと離れたところに住んでいたことさえも逆にアドバンテージにしているような・・・。

    途中出てきた『METALLICA激震正史』についてはこちらからどうぞ。
    http://metallica.ninja-web.net/books.html#gekishin

    第2章はこれで最後。次回の第3章ではついにラーズがメタリカ結成へ動きます。

    ※麻薬、ダメ、ゼッタイ

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第2章1回目。有志英訳を管理人拙訳にて。(日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。)
    コペンハーゲンからロサンゼルスへと引っ越したラーズ・ウルリッヒがついにテニスと決別し、バンド結成へ動き始めます。

    - Lundevang通りからロサンゼルスへ -

    ウルリッヒ家はカルフォルニア州ロサンゼルス南部ニューポート・ビーチでいわゆる「コンドミニアム」の(訳注:あくまでデンマークのときの家と比べて)小さな家に引っ越した。1階にキッチンとダイニングとリビングルームと2つの寝室、そして2階にはゲスト用の寝室。ラーズの部屋には初めてTechnicsのステレオにJBLのスピーカーが据え付けられた。部屋の残りの壁はレコードでビッシリの棚で覆われた。

    (いまだに彼の家にある)茶色い机はLundevang通りの家から持って来れたが、残念なことにドラム・セットを置くスペースはなかった。もちろんドラムを演奏するためにわざわざ大西洋を横断することはしなかった。しかしテニスをし、高校・大学の試験をパスする傍ら、ファンとして娯楽レベルで音楽への関心を保ち続けていた。

    引越しの身支度で外せない重要なこととして、音楽シーンに触れ続けていくために、ブリストルのケン・アンソニー、イギリスの通販会社、そしてイギリスの週刊音楽誌「Sounds」の予約購読課へ自分の新しい住所を伝えることが必要だった。

    ヨーロッパから最新のレコードを得るためにお金が必要になったラーズは、すぐに新聞配達員の仕事を始めた。毎朝4時から5時まで「Los Angeles Times」を配達したのだ。学校に行く前までに配達を終えなければならなかったが、幸運なことに運転免許証をすでに取得していた。両親は喜んで自分たちのライトブラウンの白いルーフ付きペーサー(アメリカン・モーターズの販売車種)をラーズに貸した。

    ラーズは9月の初めからコロナ・デル・マー高校に通い始めた。子供の頃のように自転車で学校に行き、それからテニスの練習をしたのだ。しかし場所や気候面を超えた明らかな違いがそこにはあった。

    「学校の近く、2マイル(約3キロ)くらいのところに住んでた。毎日学校まで自転車さ。おかしなもんだよ。ご近所さんはかなり裕福だった。俺はこれまでと違う上流階級に慣れていなかった。何が違うって、もちろんアメリカにいるってことがね。俺たち家族はヘラルプにいた頃は自分たちが裕福だとは本当に思わなかった。階級の違いなんて知らなかったんだ。ニューポート・ビーチではピンクのラコステTシャツを着た16歳のヤツらがあたりにウジャウジャ突然あらわれるようになったのさ。」

    「その輪の中に入っていくのは俺にとって変テコで驚くべきことだった。俺は毎日、サクソンやアイアン・メイデンやモーターヘッドのTシャツを着て学校へ行って、フットボールをしていた筋肉ムキムキのヤツらと一緒にいた。俺はそう(筋肉をつけたり)はしなかったけど、(パール・ジャムの)エディ・ヴェダーや(ニルヴァーナの)カート・コバーンのインタビューで耳にしそうな、いじめられたり、「俺はのけ者だ」みたいなことはなかった。そんなに悪くはなかったよ。テニスをして、ヘヴィメタルを聴く。ケンにデンマークとイギリスから送ってもらったレコードを持って、学校に行って、そんな自分の小さな世界のなかで生きていたよ。間違いなく俺はちょっと・・・まぁ「ユニーク」だった。でも学校からの帰り道でぶん殴られるようなこともなかった。そんなことは一切なしだ。学校へ行って、スペイン語と少しばかりジャーナリズムについて勉強して、メタルを聴いて、アイアン・メイデンTシャツを着て歩き回り、テニスを続けようとしていたんだ。」


    「そこで実際に何が起きたかというと、自分には充分な才能や積極性がなかったし、あのテニスチームにいる資質さえなかったと気付いたということだ。それが1980年から81年のあいだで、そんなことに気が付き始めたもんだから、たぶん俺が想像していたような方へ転がり始めたんだよ(笑)」

    大きな望みを持っていたテニス界からラーズを突然引き離したのは直観ではなかった。長く意識的なプロセスと環境の組み合わせの結果だった。

    「コンサートに行き始めたからさ。AC/DC、ヴァン・ヘイレン、テッド・ニュージェント、シン・リジィ、パット・トレイヴァーズとかその他いろいろとね。2種類のコンサートがあった。つまり、ロング・ビーチ・アリーナやLAフォーラム、サンタ・モニカ・シヴィックでやるような大きなアリーナ・ライヴと、スターウッド、ウイスキー(・ア・ゴー・ゴー)、トレバドールといったハリウッドのクラブでやるようなライヴがね。1980年も終盤になると、そんなクラブ・シーンを楽しんでいた。最高だったのはイエスタデイ・アンド・トゥデイってバンドを観た時だね。彼らがY&Tと名乗る前に4、500人ぐらい入る小さなスターウッドでライヴをやっていた。ウチの親は俺に車を貸してくれた。俺はあのクラブで立ち見したのをハッキリと覚えているよ。」


    「あれは本当に最高な時間だった。バンドはヘヴィメタルを楽しんでいた。本当にロックンロールの雰囲気があったよ。そして、最大500人のためにライヴをやるようなレベルのバンドになる方が、テニスで走り回ったり、もがき苦しんだり、練習や真剣な鍛錬のために走ったり、腕立て伏せしたり、ビール禁止、ハッパ禁止なんてことやるよりもずっといいじゃないかと思ったのを覚えているよ。あの夜に感じた自由をよく覚えている。俺たちみんな楽しんでいたし、限界も何もなかった。ロックンロールの自由という素晴らしいゲーム、それはあのレベルに行くまで何か始められるか試してみるには充分な魅力だった。それからテニスとかくだらないこと全てを指で弾き飛ばしたんだ。」

    いつもどおり、ラーズは考えたら即行動に移した。すぐに新しい夢を追いかけ始めたのだ。

    「コペンハーゲンでは俺の地下室の部屋でドラムを叩いていた。そして80年12月、俺はこう思い始めた。「よし、アメリカでドラムセットを手に入れるにはどうしたらいいだろうか、うーん・・・」そうして俺は親父にあの有名なセリフを言ったのさ。「今からバンドを組んで、ドラムセットを手に入れて10日でドラムの演奏を勉強しようと思う!」ニューポート・ビーチから10分から15分くらいのところのサンタアナにあるウエストコースト・ドラムっていうドラムの店があった。ウチの親はそこで小さな茶色のドラムセットを借りることを許してくれた。住んでいたコンドミニアムは2階があったけど、そう大きくなかった。だから両親の部屋と俺の部屋のあいだにあったゲスト用の寝室にあのドラムセットを置かなきゃならなかった。窓をマットレスで覆って、それからドラムを演奏したんだ。ま、と言うよりはドラムを演奏しようとしていたという方が正しいかな。」


    新しくデザインされたドラムルームにはトーベン所有のAIWAのテープレコーダーがあった。ラーズはそれを使ってドラムの演奏を学ぼうとした。当然のことながら10日以上かかることとなった。しかし彼は1980年最後の数週間、毎日ドラムを叩いて過ごしたのだ。

    「当時の俺のお気に入りはダイアモンド・ヘッド、タイガース・オブ・パンタン、そしてトレスパス(Tresspass)と呼ばれたバンドやその他そういった類のバンドだった。ドラムの演奏を学ぶ代わりにヘッドホンでバンドの曲を聴きながら、それに合わせて叩いていた。そんなことがクリスマスまで続いていたんだ。クリスマスも日柄一日ドラムを叩いて過ごしていたよ。」


    ドラムを叩くことで、ラーズの中で新しく決定的な何かに火がついた。

    家族と住んだニューポート・ビーチは、ブリティッシュ・ヘヴィ・メタルの若いファンが街角のいたるところに必ずしもいるわけではなかった。しかしロサンゼルスは大都市で、当然、彼のような情熱の持ち主はまったく一人というわけではなかった。前述したクリスマスにラーズがドラムを叩いていたことで、ドイツ人ギタリスト、マイケル・シェンカー(70年代のバンドでラーズのお気に入りのひとつ、UFOに在籍)のカントリークラブでのコンサートへとつながっていく。そこで2人の地元のヘヴィメタルファンが長髪で間違いなくヨーロッパのサクソンTシャツを着ていた小柄なラーズに目をつけた。この時だけは、話の主導権を握ったのはオープンマインドなラーズではなかった。しかし、ウッドランドヒルズからやって来たわずか4歳年上のブライアン・スレイゲルとその友人、ジョン・コーナレンスもそこではヘヴィメタルファンは自分たちだけだった。つまり熱狂的なラーズ・ウルリッヒと同じ境遇だったのだ。

    コンサートの後、2人はラーズの元へ行き、見かけない変わったTシャツについて尋ねた。ラーズはデンマークからLAに引っ越したばかりであることを彼らに話した。1週間ほど後には、3人でラーズの家でヘヴィメタルのレコードを聴いていた。彼らはすぐに仲良くなり、必ずしも近所にはなかった真っ当なレコード店へ遠出する用意をした。ブライアン・スレイゲルもラーズと同様、積極的で創造的だった。彼はここから1年しないうちにラーズが夢のバンドを始める手助けをすることとなる。

    年が明けてすぐ、希望に満ち溢れたラーズはロサンゼルスの新聞「The Recycler」に広告を出した。

    「みんながそこで中古車、家具、カーペット、台所用品を売っていたよ・・・。それにたくさんの広告があったんだ。『彼女募集中』『ゲイの彼氏募集中』とかね。「ミュージシャン」の欄にはマーシャル・アンプやドラムも売っていたし、個人的な欄つまり『バンドメンバー募集中』とか『加入バンド募集中』とかもあった。そこで俺はこんな広告を出した。『ヘヴィメタルのドラマーがヘヴィメタルバンド結成のために他のミュージシャンを探しています。影響を受けたバンド:タイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、エンジェル・ウィッチ、ホワイト・スピリット』」

    「そうしたら電話が鳴り始めた。でも毎回バカの一つ覚えみたいに「イェー!ヘヴィメタル!エンジェル・ウィッチだかダイアモンド・ヘッドだかは聴いたこともねぇけど、カンサス、スティクス、ジャーニーはマジで好きだぜ!」っていう感じだった。ヴァン・ヘイレンを聴いていたヤツやジューダス・プリーストは聴いたことあるかもってヤツもいたっけ。当時のLAにアンダーグラウンド・シーンなんてなかったんだよ。アメリカのFMラジオで流れているアメリカン・ハードロックしかなかったんだ。」

    ラーズは彼らを(NWOBHMへ)転向させることができるかもと希望を持って、さまざまな若いミュージシャンのうちの何人かと会いはじめていた。

    「大概は連絡してきたヤツがやって来ると、俺がタイガース・オブ・パンタンとダイアモンド・ヘッドを聴かせる。俺の考えとしては、こういうバンドに影響を受けたバンドを作りたかったんだ。でも実際はカバーバンドを作ることに、より一層興味を持っていた。NWOBHMカバーバンドをね!LAにいるバンドはカバーかオリジナルだったけど、カバーバンドはみんなヴァン・ヘイレン、ジャーニー、キッスの曲ばかりだった。だから俺は言ったんだ。「俺たちでカバーバンドを作ろう。でもみんなが知ってるような曲はやりたくない!」ってね。それは誰も本当に理解できないような新しい(カバーともオリジナルとも)どっちとも言えないスレスレの領域みたいなものだった。」


    ラーズはニンマリとして話を続ける。「初めて何かを始められたのはジェフ・ワーナーってヤツと。奔放でほれぼれするヤツだった。彼はヘヴィメタルなタイプだったから、俺は彼に曲を聴かせたんだ。ワーナーは本当に初心者だったんで、トレスパスの曲を何曲か台無しにしてしまって、実際には数ヶ月で他に何かないかと思っていた。それからある日、俺たちはジャマイカから来た黒人のロイド・グラントってヤツと会った。彼はヒッピーみたいな出で立ちで、フライングVとマーシャルのアンプを持っていた。サイケデリックなリードギターを弾けたってだけで、俺たちは彼のことを「ブラック・シェンカー」って呼んでいたよ。本当によかった。彼はそんなにギターを弾けるわけじゃなかったけど、本当にすごいソロを弾けたから、ジェフにはリズムギターをやってもらうことにした。それが最初のプロジェクトだった。」

    「そうして俺は81年春にはそのプロジェクトをやっていた。それから、1人だったか2人だったかがもう興味がなくなったとかそういうことで止めてしまったんだ。俺はコロナ・デル・マーに通いながら、変わらず広告を出して、いろんなイカれたヤツらと会っていた。でも81年5月、ヒュー・タナーってヤツから電話があった。彼と会ったことはクールだったね。彼はリード・ギタリストだったんだけど、彼と一緒にもう一人いたんだ。ペーサーにドラムセットを積む空きスペースがあったんで、俺が彼らに車で会いに行った。場所はフラートンだったか、ブレアだったか、まぁどこであろうと、俺たちはそこで伝説的な初めてのジャムをしたんだ。俺とヒュー・タナーと、電話では話していなかった第三の男、ジェイムズ・ヘットフィールドとね。」

    「俺は当時たった半年しかドラムを演奏したことがなかった。だから何も特別なものはなかったけど、少なくとも曲のペースは保っていた。初めてのジャムではヒュー・タナーがギターで、ジェイムズは歌っただけだった。とても良かったんだけど、俺が叩くたびにシンバルが落ちたんだ!あれは本当にマズかった。特別な何かはなかった。俺たちはちょっと話してから言ったんだ。「連絡を取り合おう」とね。でも部屋の隅に立っていたヘットフィールドのことはとても興味深いと思っていたよ。」

    ラーズとヘットフィールドは初めてのジャムから数ヶ月経っても、ほとんど話すことはなかった。しかしついに彼らは少なくともお互いの電話番号を交換し、どんな音楽が好きかをやり取りしたのだ。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

    lars_james_8
    80年代初頭のジェイムズとラーズ

    Y&Tがラーズ・ウルリッヒにミュージシャン志向となるきっかけを与えたとは知らなんだ。そして、ついにと言うかようやくと言いますかジェイムズ・ヘットフィールドが登場してきました。叩くたびにシンバルが落下するというラーズにとっては気まずいジャムから始まった出会いですが、人生何があるかわからないものです。

    このまま両者が接近すると思いきや、次回は思わぬ方向へ物語が進みます。


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