メタリカ情報局

メタリカを愛してやまないものの、メタリカへの愛の中途半端さ加減をダメだしされたのでこんなブログ作ってみました。

       

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章3回目。メタリカの歴史に触れるならば、避けて通れないあの事故について。有志英訳をさらに管理人拙訳にて。

    歴史的にヘヴィな日曜日となったDyrskuepladsen(ロスキレ・フェスティバルの会場地)まで話を戻そう。ロスキレ・フェスティバルのコンサートはいろいろな意味で境界線を超えた。フェスティバルの歴史、そして背景を考慮しても。しかし、それでもここデンマークの大衆にメタリカの実質的なブレイクはなかった。メタリカはまだロスキレ・フェスティバルのメインステージのような巨大なシーンのなかでは、あまりに騒々しくあまりに異様だったのだ。だがメタリカのパフォーマンスは、ヘヴィメタルへのプログレッシヴなアプローチを大きく発展させた、間違いなく絶対不可欠な表明だった。このコンサートとメタリカの存在感自体が、新たなスピードメタル文化の勝利となったのだ。

    そしてこの勝利は続いていった。ショーというショーがこの年の残りを埋めていき、もちろん若いデーン(訳注:ロスキレ・フェスの観衆のひとりと思われる)はバンドの次のデンマーク訪問についてすでに知っていた。彼はロスキレ・フェスのことから話すことにした。「9月27日に(デンマークの)サガで会おう。」半分は熱狂的、半分は大口を開けて呆然としていた、信頼のおけるDyrskuepladsenの観衆に向かってラーズは叫んだ。そこにはライヴ前のサウンドチェックの時間からメタリカを観ることのできた、昔からのファンもいた。

    実際、メタリカはデンマーク再訪問への道のりはすでに順調であったし、このサガのコンサートもすぐに完売することとなった。メタリカはアメリカでのオジーとの「Damage Inc.」ツアーを終わらせて、それからイギリスでツアーを行わなければならなかった。しかし、オジーのツアーが8月3日のヴァージニア公演で終わろうとする1週間前に、インディアナ州エバンズビルのメスカー円形劇場(The Mesker Amphitheatre)で、ジェイムズはバックステージでは欠かせないスケートボードでふざけて遊んでいたところ、ボードから滑り落ちた。彼は腕を負傷し、残りの3人のメンバーは15,000人の期待に満ちたメタルファンの前でステージに歩み出て、その夜のショーは行えないことを発表しなければならなかった。

    「あれは俺がステージ前に飲まなきゃやってられなかった初めての出来事だった。」ラーズはそう語った。彼が話し出すとすぐに、3人のメンバーたちは強烈なブーイングと罵声の悲しき受け手となっていた。

    逆に言えば、観衆の反応は良い兆候でもあった。メタリカが、ヘッドライナーの大御所オジーを観るために支払った価格の重要なパートであり、呼び物であったことが明らかにそこに表れていたのだ。しかし最も重要なのは、バンドとQプライムが今やとても緊急の問題を抱えていたということだ。メタリカはアメリカにおけるメタルの大観衆のあいだで大きな飛躍を遂げようとしていた。オジーとのツアーはもう残り数週間しかなかった。その直後には半月のヨーロッパツアーが彼らを待っていた。その後には初来日公演があった。

    リズムギタリスト無しのメタリカのステージ?不可能だ!

    オジーはこう叫んだ。「レッツゴー、ファッキン、クレイジーーーーーーーー!エバンズビル!!」その声の限りの絶叫はメスカー円形劇場のステージ、メタリカ、そして病院から戻り包帯で巻かれたジェイムズ・ヘットフィールド、そして横に座っていたバンドのギターテクで以前のツアー仲間だったメタル・チャーチのジョン・マーシャルにも聴こえた。ジョンはステージ経験もあり、メタリカの曲も知っており、すでにツアー全日程にブッキングされていた。そう、ジョンは第5のメンバー、そしてリズム・ギタリストとして参加する準備はできていたのだ。

    バンドの次の公演となったナッシュビル、テネシーを乗り切るため、ジョンは集中して車の中で『Master Of Puppets』を聴いていた。ジェイムズの泊まっていたハイアット・リージェンシー・ホテルの部屋でも、メタリカとのコンサート・デビュー前に最後の手がかりを掴もうとしていた。

    「でも俺はジェイムズのようには弾けなかったよ。違って聴こえるんだ。ローディーとして、俺は一日に4、5時間も練習できなかった。ギターをチューニングして、5分演奏するんだ。」ジョン・マーシャルは後にこう説明している。(K.J.ドートン著「Metallica Unbound: The Unofficial Biography」(1993年刊行)より)

    メタリカ活動初期のメンバー変遷のなかでジェイムズが(ギターを弾かずに)歌うのみだった5人編成はあったが、ナッシュビルのショーでは完全に別問題の話だった。バンドの観客はもはや2桁ではない。5桁なのだ。ジョンはもちろん緊張していたが、この束の間のラインナップ変更はこんな自体を予期できなかったであろうラーズにとって最も困難だったかもしれない。メタリカがブレイクを果たすツアー最後の前夜と紛らわしいほど似ていた。彼は5人編成を続けていくことをとても心配していた。数回のコンサートを経てようやく実際にこれでいけるとわかったのだ。

    ヘレルプの時計がラーズの頭のなかでチクタクいっていたが、オジーのツアーは計画通りに恐れていた失敗をすることなく終えることができた。ラーズが練っていたメタリカの計画の中、運命の待ち伏せは回避されてきた。また、医者はジェイムズの腕が9月10日に(ウェールズの)カーディフから始まるメタリカのヨーロッパツアーには間に合うよう治癒すると考えていた。全てが順調に調整されたツアースケジュールに従うことができた。

    オジーとの最後のコンサート後、ラーズとバンドは5週間の素晴らしい休暇を楽しみにしていたはずだった。ジェイムズの事故はさておき、メタリカにとっては素晴らしい春であり、クールな夏だった。今や国際的な少年は、待ち受けるツアーに責任を持ち、残りの夏を最高の思い出の地、イギリスで楽しもうとしていた。

    ツアー開始前にラーズとジェイムズとマーク・ウィテカーはメタリマンションを発ち、8月初旬にラーズはマネージャーのピーター・メンチの家を仮の宿として一ヶ月過ごした。

    「あぁ彼は私と一緒に住んでいたんだ。」ピーター・メンチはそう振り返る。「彼はイギリスにやって来て、一緒にうろついていた。つまり彼が起きたら一緒に出かけていたんだ。彼は朝4時に完璧に酔っ払って家にやってきた。私は毎日気にかけながら仕事をしていたよ。私はバンドのマネージャーだからね。」メンチはニューヨーク仕立ての皮肉を交えてそう付け加えた。

    ラーズは残りの夏のあいだ、ロンドンのナイトライフを楽しんでいた。しかし、キッチリと描いていた彼の計画の道筋は狂ってしまった。ヨーロッパツアーの日程が近づくと、12日間のツアーのうち最初の10日はジェイムズがギターを弾くことができないことが明らかとなった。幸いなことに適切な緊急策として、ジョン・マーシャルがメタリカのステージセットの大きな十字架の近くを控えめに陣取って、ウェールズとイングランドに渡る「Damage Inc.」ツアーは継続された。

    ジョンにとって、ローディーに加えてギタリストという役割が倍増したことで実入りの良い仕事となったが、彼は同時に糖尿病と戦っていた。それは定期的なインスリン注射が必要であることを意味していた。彼はボロボロに燃え尽きており、「Damage Inc.」ツアーの最後のコンサートが日本で行われたらすぐに11月で全ての仕事をやめようと決めていた。

    ツアーがヨーロッパ大陸まで至ると、ジョンとメタリカにとって良いニュースができた。ジェイムズ・ヘットフィールドは3ヶ月ぶりにギターの演奏を再開し、9月26日の金曜夜に行われたストックホルムのソルナ・ホールのステージにバンドが立った時にはモチベーションは最高だった。

    「あぁ、ジェイムズがリズムギターを再開した最初のショーだったんだ。あれは本当にクールだったね。」ラーズはそう話す。

    メタリカの列車は再びレールの上に戻った。ロスキレ南部の、あの記念すべき日曜夜に約束したように、9月27日の土曜夜にサガでプッキングされていたのだ。ラーズと元に戻ったラインナップは(サガ公演翌日の)日曜夜にコペンハーゲンに行くことを考えて幸せ一杯だった。日曜日はハンブルグに向かう前に一日オフだったのである。

    ツアーバスはストックホルム北部のソルナから深夜に運転されていた。それはジェイムズがいつもの寝台で寝なかった例外を除けばいつも通りだった。彼はいつもクリフの隣の二段ベッドの上で寝ていたが、このルートではドラッグ(の煙?)を避けるために他の場所に移動していたのだ。

    イギリス人の運転手が車の制御を失ったのは、ユングビューの小さな町に差し掛かった朝6時頃のことだった。ラーズがこのエピソードで覚えていることは次の通りだった。

    「俺は寝ていたんだ。それからもう眠れなかったよ!バスは停まっていて、横転していた。寝ていた時に何が起きたのか本当のところはわからない。でも俺は古き良きハリウッド映画みたいにバスが爆発する前に逃げなきゃって思ったんだ!だから俺は現場から森に向かって駆け出していったんだ。あの忌々しいバスから遠く離れて無事止まって振り返るまで走って走って走りまくった。何の爆発もなかった!だからバスに戻っていったんだ。そして他の人たちと落ち合った。1人、2人、3人、4人、5人とね。1人はちょっと足を引きずっていたし、もう1人はあちこちに痣ができていた。でも大きなケガとかそういうのはなかった。奇妙に思った唯一のことは、もちろん、俺たちの中にクリフがいなかったことだ。それから救急車が来て、病院まで運ばれて診察された。俺はかかとつま先の3分の2が損傷していると言われたよ。俺が覚えているのは、ジェイムズと俺が診察室のベンチに座っていると、スウェーデン人の医師がやってきてこう言ったんだ。「キミたちの友だちのひとりは助からなかった!」俺は彼が「キミたちの友だちのひとり」と言ったことを奇妙に思っていた。クリフはただの「ひとりの友だち」以上の存在だったから。医者がクリフ・バートンが死んだと告げると、ジェイムズと俺は互いを見合わせた。俺たちは本当に理解できなかったんだ。スウェーデンで第二位の病院で座ってそんな言葉を聞くなんてことはとても不思議だったんだ。ゆっくりと夜が明け始めていた・・・俺たちはそこでクリフを見てはいなかった。」

    「それから叔父のヨルゲンがコペンハーゲンからやってきて、俺を車に乗せていった。ピーター・メンチはロンドンからやってきた。彼が実際にクリフの身元確認をしたんだ。俺がユングビューを出た頃、ジェイムズとカークは飲みに出て行き、あの忌々しい道の近辺を歩き、わめき叫び、正気を失い、泣いていたのを覚えているよ。でも俺は家族のいる安定した環境であるコペンハーゲンへと向かう途中だった。」


    クリフはバスの窓を突き抜け、倒れたバスの下敷きになり即死だった。8時になる頃には、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、そしてコペンハーゲンといった世界中の電話が鳴り始めた。同じ悲劇と気の遠くなるような「クリフ・バートン死去」というメッセージを添えて。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    不運とよぶにはあまりにむごい事故でした。次項ではクリフの事故からいかにしてラーズ、そしてメタリカが再び歩み出したのかが描かれます。続きはしばらくお待ちください。

    クリフの訃報を伝えるRollingStoneの記事
    cliffobit_RS_300

    バス事故を伝える各写真。
    cliff_case

    管理人らが2014年にクリフ最期の地に建てられたクリフ・バートンの記念碑を訪れた探訪記はこちらから。
    http://metallica.bakufu.org/pic/sweden2014.html

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    2014年9月6日「Warwick Open Day」で行われたロバート・トゥルージロとデイヴィッド・エレフソンとのインタビュー対談。前回の続きを管理人拙訳にてどうぞ。



    robert-trujillo-david-ellefson

    デイヴィッド・エレフソン(以下、DE)
    ひとつ聞きたいことがあるんだけど、キミがフラメンコギターを演奏するのをネット動画でみたんだ。キミのフラメンコギターの経歴はどういうものなの?



    ロバート・トゥルージロ(以下、RT
    フラメンコは俺が赤子の頃から聴いてきた最初の音楽じゃないかな。父親がフラメンコを弾いていたからね。趣味目的だったけど、いつも弾いていたよ。彼の弾くこの手の音楽を聴いてきたんだ。彼の指のテクニックも明らかにすごかったよ。指がね。だから俺がアコースティックギターを抱えると、すぐにああいうのを弾き始めちゃうんだ。ある時に気付いたんだけど、よりベースが突き動かされている音楽の方に俺は惹きつけられているんだ。


    DE
    あれがキミのベース・テクニックに生かされているのかな?


    RT
    そう、俺のベース・テクニックにね。でもある時、もっとリズミックな楽器なんだと気付いたんだ。ベースとかドラムというのは、本当に俺にピッタリなんだ。最初ドラマーになりたかったんだけど、住んでいたアパートではドラムキットも置くことも大きな音を鳴らすのもままならなかった。アンプが効かなくなった窪んだ形のベースギターを持っている父親の友だちがいてね、でも窪んでいたからこそ、俺はそれを弾くことができたんだ。一年くらいは弾いていたよ、スケールとかを学びながらね・・・そうして今の自分がいるんだ。


    DE
    (カメラの方を向いて)下の階だな、ヤツは「Holy Wars」を指で刻んでやがる。

    RT
    俺もやったよ!あれはこれまででお気に入りのリフのひとつだね。この男に会うたびにいつもこうさ。「あんなのどうやって書いたんだ?」


    DE
    「ほら、Holy Wars弾いてくれよ!」ってね(笑)でもピックをくれよ。俺にはピックが必要なんだ。

    RT
    俺も聞きたいことがある!

    DE
    どうぞ。

    RT
    昔は南カリフォルニアから出てきたリフにいつも惹きつけられてたんだ。ヘットフィールド、ムステイン、ケリー・キング、ジェフ・ハンネマンといった具合にね。イギリスのバーミンガムに似ていた。あそこから出てきたヘヴィリフには、ブラック・サバスやプリーストとかその他いろいろいた。あの当時、俺はあの場にいなかった。ロサンゼルスで暮らしていたし、俺はキミらより少しばかり若かった。俺は数年後に(南カリフォルニアに)やってきた。あれには衝撃を受けたよ。キミらがああいう魔法のようなヘヴィネスを創りだしていた頃、南カリフォルニアのストリートのあのエネルギーは何なんだ?って。出身地から来るスピリットなのか、ストリート文化と「コンクリート・ジャングル」のなかで育ってきた経験からなのか?


    DE
    俺がどう思うかっていうとね。1983年にミネソタからLAに引っ越してきた。メガデスのようなことが何か起きないかと希望を持ってね。ダメだったらB.I.T.(音楽大学ミュージシャンズ・インスティチュートのベース科)に入ろうとしていた。どんな親も子供が行こうとしている学校を知りたがるからね。

    RT
    俺も音楽学校に行っていたよ。

    DE
    ロスに着いて、俺はデイヴ(ムステイン)の下の階のアパートの一室に引っ越してきた。それでアイツの部屋のドアをノックして「俺たちとビールを飲まないか」ってね、伝えられているところによれば・・・。アイツと腰を下ろしたら、アイツはギターを弾き始めた。それは「Megadeath」という曲だった。それは3rdアルバムに「Set The World Afire」に形を変えて収録された。でもあのリフも『Ride The Lightning』の収録曲みたいなあの「スパイダーパターン」もこういった全ての曲はずっと前にアイツが書いたものなんだ。本当にクールだったよ。パンクとメタルを取り込んだ何かだと言えるからね。俺はこの年代のグループは、サバスとプリーストのレコードで育ったと思う。でもデッド・ケネディーズ、セックス・ピストルズのレコードも持っていた。あれはスラッシュメタルを生み出したエネルギーだった。デイヴは俺たちはLAのクラブでは二度とやらないって言っていたのを覚えているよ。ところが俺はヴァン・ヘイレンみたいなバンドやこういうLAのクラブでやっていた音楽しか聴いてこなかった。引っ越してきたら、アイツはこうさ。「俺たちはこの辺りのクラブじゃ二度とやらねぇ」アイツがウイスキー・ア・ゴー・ゴーでサクソンとやったばかりだったからじゃないかな、だから彼はこう言ったんだ。「俺たちはベイエリアに行くぞ」って。そうして俺たちはベイエリアに行って根を下ろしたんだ。実際、ケリー・キングは俺たちとやったことがある。彼がやってきて、最初の数回のショーを俺たちとやったんだ。スレイヤーは彼がやりたかったこととはちょっとどっちつかずの状態だったと思う。彼はそんなことがあってすぐ、キッズが彼に近寄って言ってたよ。「おいスレイヤーに何があったんだ?」それからケリーはエクソダスのトム・ハンティングを観て、音楽がどれだけ速くできるのかってのを目にしたんだ。すぐに誰が一番速いかの争いになったよ。

    そしてファンレターが来た。(カリフォルニア州)パロアルトで俺たちのファンクラブを運営しているブライアン・ルーがこの手紙をデイヴに送ってきたんだ。おおむねアイツにスピードアップしてくれと食ってかかる内容だった。あの手紙が俺たちの方向を変えたし、たぶんメガデスやスレイヤーが先陣切った方向性の手助けになったんだよ。でしょ?このエネルギーはより強くなったんだ。(LAの)サンセット・ストリップの全てのバンドが売れ出してたからね。モトリーがレコード会社とサインしたばっかりで、WASPもサインをしようとしていた。こういうバンドたちみんなが花道に向けた放たれたんだ。彼らは俺たちがやっていたようなものじゃなかった。俺たちはその背後にいた次の波だったんだ。一番キツかったのはああいうヤツらが売れ出して、MTVに出まくって、何百万ドルも儲けて、何百万枚もレコードを売ったってことだ。するとこうなる。「俺たちの番はいつだ?」とね。そして俺たちの番もついにやってきた。


    RT
    スイサイダル・テンデンシーズも似ているよ。ファンのおかげでロサンゼルスじゃ演奏できないってとこまできたからね。


    DE
    覚えているよ。あれは凶暴だったね。


    RT
    凶暴なファンだった。だからおおむねスイサイダルはカリフォルニア/サンフランシスコでやるだいたいのショーをベイエリアでやることになったんだ。


    DE
    あとテープ・トレードね。それと雑誌がソーシャルメディアが出来る前のソーシャルメディアだった。


    RT
    そうそう。クールだったし、とても有機的だった。あの手の情熱があると、俺が思うに、競争心も沸いてくるし、「Holy Wars」とか「Reign in Blood」みたいな曲を書こうとお互いに切磋琢磨するようになる。


    DE
    まさにその通り。俺たちの曲は、キミたちはどうか知らないけど、昔は俺たちメロディーを取っておいて、ある程度まできたら、いったん脇においておく。それから持ち出してきて、付け足して付け足して付け足してみる。切り取って、カットして、スライスしてまた足して・・・。そうこうしているうちに完全な曲になる。曲だけじゃなくてヴァースやコーラスやソロについてもそうだった。こういう入り組んだ過程を経ていたよ。


    RT
    それはまさにメタリカでやっていることだよ。インフェクシャス・グルーヴスのようなバンドとは真逆だね。「リフが出来たぞ」って俺たちが集まるのはザラで、本当にドラムからマジックを捉えようとしていたんだ。セカンドテイクをやりたかったんだ。わかる?リハーサル室に入って4日間、日に4時間籠って、一日4曲出来ていたよ。週末にはアルバムになる。次にこういった曲を聴く時には、スタジオでカセットになっている。


    DE
    ほとんど復習ジャムみたいなもんだね。

    RT
    その通り、復習ジャムだよ。それからレコーディングしていくんだ。俺たちにはブルックス・ワッカーマンっていう驚異的なドラマーがいたし、ジョッシュ・フリーズってドラマーもいた。彼ら16歳くらいだったキッズたちからエネルギーをもらったし、インパクトがあったよ。それがあのバンドのやり方さ。それからマイクが歌詞をつけていく。スイサイダルはもうちょっと曲やプロセス、リフを発展させていく。それからプロデューサーが加わってくるんだ。

    DE
    スイサイダルは初めて真のメタルギターを弾いていたバンドのひとつだったよ・・・暴力とともにね。

    RT
    「暴力とともに!」(笑)暴力を加えたら、スイサイダルになるよ。でも全てはムーブメントだったのさ。スケートボーダーたちとも繋がっていた。

    DE
    そういうシーンがあったよね。帽子のつばを上げて、ボードとかそういうもの全部。あれがシーンの一部になっていた。曲や音楽についてだけじゃない。全体がライフスタイルなんだ。

    RT
    ライフスタイルだね。つまり俺はディッキーズのショートパンツを今履いてるし、今でも野球帽を持っている。俺はただのでっかい子供なんだ。50歳になろうとしているけどね・・・。

    DE
    いつ50歳になるんだい?俺は11月になるよ。(訳注:対談は2014年)

    RT
    10月で50だよ。ハッピー・バースデー、俺たち!

    DE
    若くあろうとする老いたヘヴィメタルベーシストここにありだ。俺たちは若いからね。

    RT
    異議なし。

    DE
    以上、ロバート、デイヴィッド、BassGearの「Metal on Metal」でした。

    BassGearMagより

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    2014年9月6日にドイツで行われた「Warwick Open Day」にマス・メンタル(Mass Mental)として参加したロバート・トゥルージロ。同じイベントに参加していたメガデスのデイヴィッド・エレフソンとのインタビュー対談の模様がBassGearMagの「Metal on Metal」という企画でYouTubeでアップされていました。



    BassGearMagでインタビューの文字起こしもされていたので管理人拙訳にてご紹介します。

    davidellefson_roberttrujillo

    デイヴィッド・エレフソン(以下、DE)
    この「Warwick Bass Camp」でマス・メンタルをやったわけだけど、あれはどうやって集まったの?

    ロバート・トゥルージロ(以下、RT)
    そう。マス・メンタルは実際はファンキーで妥協知らずの集合体で、カメルーンの驚異的なベーシスト、アルマンド・サバルレッコと組んだバンドなんだ。彼とは1993年に(楽器製造メーカーの)ディーン・マークレイの宣伝の仕事で出会った。それでサンノゼに連れて行かれたんだ。行きの飛行機ではお互い知らなかったけど、帰りの飛行機では親友だったよ。その時、ケースに入ったビールを俺たちに持ってきてくれて、絆が生まれたのさ。その後すぐに、俺たちは曲を書き始めた。今日演った曲の多くは90年代に俺たちによって書かれたものなんだ。今回が俺たちの6回目のショーだよ。Warwickのプロデューサーから俺にこの素晴らしいイベントで演奏してくれないかと依頼がきたんだ。俺は「やるよ、でもアルマンドと、このプロジェクトのシンガー、ベンジーと一緒にやりたい」と言ったんだ。楽しかったよ。基本的に俺の友だちの多くは、何年も一緒に曲をレコーディングしたり、書いたりしてきた人たちなんだ。どんな機会でも彼らとまた一緒にやれるっていうのは素晴らしいことだよ。アルマンドと俺はサウンドトラックも手がけたし、マス・メンタルとして何回かやってきたことにはアニメの曲も含まれているんだ。俺がマス・メンタルに加入した時、実際に俺がやっていた・・・

    DE
    「加入」だって!?

    RT
    失礼!俺がメタリカに加入した時、やっていたことはマス・メンタルだったんだ。

    DE
    キミがメタリカを「組んで」、マス・メンタルに「加入した」ってわけかい?(笑)

    RT
    (笑)それで、俺はオジーとも仕事ができた。素晴らしいよ、カムバックできる何かがいつもあって、それを楽しめるんだから。そういう頃合いがきて、俺たちはやったわけだし。

    DE
    キミがスラップを弾いてるのをまた観れてクールだったよ、そうじゃないかい?だって最近のキミの仕事では、あれほどたくさんはやってないだろうからさ。

    RT
    そうだね。

    DE
    1993年の俺たちが写った写真を持っているよ。メタリカ、メガデス、スイサイダル・テンデンシーズが写ってた。キミと俺たちの仲間、ジミー・デグラッソ(訳注:1992年から1995年までスイサイダル、1998年から2002年までメガデスで活動)が一緒に演っていた。キミの姿で覚えているのはステージ中を動き回ってスラップしていたところだよ、そうだろ?あれをまた観れてクールだったよ。どうやったらあんなダイナミックにやれるんだい?

    RT
    クールだね、しばらくぶりだったよ。俺の昔のバンド、インフェクシャス・グルーヴスとして4、5ヶ月前にウイスキー・ア・ゴー・ゴーで演奏したんだ。あのスピリットに自分が繋がった感じだね。楽しいし、別物だった。別のヴァイヴがあったし、グルーヴも健在だった。キミたちもああいうグルーヴを持っているよね。スレイヤーもしかり、メタリカもしかり。

    DE
    いい機会だし、よかったよ。キミがあのなかで保っているものだね。

    RT
    ジェイムズ・ブラウンしかり、グルーヴが全てなんだ。グルーヴが何にでも機能するようになると、本当にアティテュードとかエッジになっていくんだ。

    DE
    インフェクシャス・グルーヴス、またやって楽しまなきゃね。あれが初めて出てきた時、俺たちメタル野郎はみんな耳を傾けたよ。あれは本当にエクストリームだったし、度を越えてたね。

    RT
    あぁ楽しかった。本当に実験的だった。スイサイダル・テンデンシーズに加入した時、マイクと俺はベースを中心に展開する曲を書き始めたんだ。何が起こるかわからなかったけど、俺たちは本当に作られるはずのなかったアルバムを作った。エピック・レコードがマイク・ミューアのソロアルバムを出したのはクールだったね。当時としては大金じゃない7万5000ドルでアルバムを作ったんだ。アルバムは普通・・・

    DE
    何十万ドルとかかるよね・・・

    RT
    そう、大金だ。俺たちは何とかオジー・オズボーンにも参加してもらった。

    DE
    オジーとのギグで得たものって何かな?

    RT
    助けになってくれたと思うよ。「Therapy」って曲があるんだけど、オジーは気に入っていたね。



    DE
    ベーシストへの注意書き「他のミュージシャンとつるめ」

    RT
    あぁその通り。俺たちはオジーと同じデボンシャー(Devonshire)っていうスタジオでレコーディングしていたんだ。本当に素晴らしいスタジオでね。オジーがそこでレコーディングしたし、もう俺たちと一緒に演ることのできない素晴らしきベーシスト、ジャコ・パストリアスもウェザー・リポートと一緒にそこでレコーディングしたんだ。俺はアース・ウィンド&ファイアーの大ファンなんだけど、彼らもそこでレコーディングした。だからこの誉れ高き要素に入れたのは最高だったよ。

    DE
    どこで魔法が起きたんだ・・・

    RT
    それにオジーは俺たちがインフェクシャスとしてレコーディングしていたのと同時期にそこにいたんだ。あれはオジーがどうかしてた時だった。ひとつ事件を覚えているよ。当時のオジーのバンドのベーシストだったマイク・アイネズが彼女を連れてきていたんだ。彼女に良い印象を与えたかったんじゃないかな。それで彼女をデボンシャーのスタジオのなかに連れてきた。オジーは正気じゃなかった。オジーは最初に彼女にタックルをかましたのさ。彼女はカウボーイブーツを履いていたんだけど、そのブーツの上から下まで実際にかぶりついたんだ。彼女のくるぶしまでね。俺はそれを目撃した。

    DE
    そりゃあヘビに噛まれるより最悪だな。それでキミもカウボーイ・ブーツを履いてるのかな。

    RT
    その通り。俺は叫び声を聞いた。出入り口に脚が2つ伸びてて、カウボーイ・ブーツを履いてた。床にオジーの背中が見えて、次にわかったことは彼らは駐車場にいたってことだ。オジーじゃなくマイクと彼のガールフレンドがね。どうにかしようとしていたんだろうね・・・。

    DE
    こちらが彼の新しいボスねってことだろ?仕事の時は奥さんに家にいてもらうことだな。

    RT
    オジーはあの頃、いろんな人に噛み付いてたんだ。

    (続く)

    BassGearMagより

    恐るべしオジー・・・。続きはまた後日。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』第5章2回目。『Master Of Puppets』を完成させ、舞台はいったん、ラーズの地元デンマークで行われた老舗フェス「ロスキレ・フェスティバル(Roskilde Festival)」へと移ります。管理人拙訳にて。

    - ロスキレ・フェスティバルの舞台裏 -

    1986年6月下旬、メタリカはオジーのツアーから3週間の休みを許された。この休止期間にメタリカは大西洋を飛んで、ヨーロッパの複数のフェスティバルで演奏する機会を得た。それにはオレンジの張り出した屋根が象徴的なロスキレ・フェスティバルが含まれていた。メタリカは日曜日の夜、最後から二番目のバンドとして登場した。実際にHR/HM以外のバンドが参加するコンサートはメタリカにとって初めてのことだった。86年のロスキレで、バンドはエリック・クラプトン、エルビス・コステロ、フィル・コリンズのようなスターたちとポスターの名前を分かち合ったのである。逆に言えば、メタリカはロスキレ・フェスティバルの歴史において初の海外のヘヴィメタルバンドとしてその名を刻んだのだ。(そして間違いなくヘヴィメタルのバンドを入れるかどうかというのが、このフェスティバルの恒例の議題となった。)

    1986年のロスキレ・フェスティバルの日曜日(訳注:1986年7月6日)は素晴らしかった。太陽が一日中顔を出し、すでにとても馴染んでいたメタリカの青年たちはフェスティバルの会場をうろついていた。ジェイムズとクリフは馴染みのツボルグの緑色のビンを手に持って、彼らの仲間であるアーティレリー(Artillery)や一部のファン、そしてファンジンの記者と楽しい時間を過ごしていた。ラーズはどこにいたのか?メタリカについて言いたいことが山ほどあったため、ラーズは(訳注:バンドの控え室である)トレーラーのなかでメディアとやり取りを始めていた。そこで「Scum」「Metallic Beast」といったデンマークのヘヴィメタル・ファンジンや(新聞社の幸せな新入社員ステファン・ヨンガスンに代表される)地元ロスキレの記者にインタビューを受けていたのだ。

    メタリカはデンマークではアンダーグラウンドな存在だった。しかし『Master Of Puppets』のアメリカでの衝撃的な成功によって、ヨーロッパの大手レコード会社から大きな後押しを受けていた。メタリカがロスキレに到着する前にも関わらず、バンドはオランダを基盤とするポリグラム(Polygram)との契約を交わした。それはポリグラムがデンマークを含むヨーロッパで、次のアルバムのミュージック・フォー・ネイションズの配給を飛び越えることを意味していた。

    したがって、ポリグラムのデンマーク支社、マーケティング部のデニス・プログは特別な関心を持ってロスキレのコンサートに来ていた。

    「ロスキレはめちゃくちゃクールだった。地獄のようにキンキンしたけど、ものすごくよかった。」デニス・プログはメタリカのショーをこう語る。そこは(フォーリナー、ヨーロッパ、ボン・ジョヴィといった成功したバンドのクローンである)メロディックなスカギャラック(Skagarack)というバンドがポリグラムのデンマーク支社の獲得前に最後にやってきた場所だった。

    「私はポリグラムがメタリカとサインしたことを記すとってもハッピーな日だった。でも販促の人たちのなかには怖がっている人もいた。彼女はヘヴィメタルシーンには小さな子供にケチャップをつけて朝食で食べたり、夕食にプロモーション・ガールを食べるようなミュージシャンでいっぱいだと思っていたんだよ!私たちのなかでもメタリカのようなバンドとサインを交わすことはいい考えなのかどうか本当に意見の分かれるところだった。悪いPR以外のことは何もできないからといって、ポリグラムのなかでそういうジャンルからは完全に身を引くべきだと考える政治的圧力もあったよ。販売の観点から、ただのニッチにすぎないという根深い確信を持っていたんだ。」

    「それからスカギャラックと契約したんだ。彼らは我々が後を追うべきバンドのごとく、素晴らしくより値打ちがあるように見えた。みんなメタリカよりスカギャラックに賭けたんだ。はるかにキャッチーだったからね。ラジオでは彼らの曲は流しても、メタリカは一切流さなかった。そしてメタリカの音楽ジャンルは、どれだけ肩入れしようともこれ以上売れないという閾値の下にあると考える人もいた。我々の組織のなかでも最後までメタリカとサインを交わすのはいい考えかどうかハッキリ分かれていたんだ。信じられないほど分裂していたよ!」


    それにもかかわらず契約は疑う余地がなかった。ポリグラムにとってもメタリカにとってもそしてバンドのマネジメントにとっても。ポリグラムはすでにQプライムと非常に良い関係だった。交渉を行ったピーター・メンチはメンチとQプライムの最強の有名バンドのひとつであったデフ・レパードでのポリグラムのマーケティング販促の仕事に強い感銘を受けていた。何をおいても、ポリグラムのメタリカ獲得は、さまざまな従業員の好みとその結果生じた疑問ではなく、純粋でシンプルなビジネス、そして先見の明だった。

    ピーター・メンチ「ひとつ理解しなければならないことがある。個人的にヘヴィメタルを好きだったレコード会社なんてひとつもなかったんだ。彼らはプロとして好きだった。なぜかって?売れるからだよ。これはビジネスだ。我々はポリグラムと契約を勝ち取った。我々はすでにシーンで大きな仕事をしてきたからね。メタリカはヨーロッパでサインをしなければならなかった時、ワーナーかポリグラムという2つの選択肢があった。ワーナーは私が取引してきたなかで最悪の国際企業だと言えるね。私が彼らのオファーを受け入れるチャンスはなかった。それくらいマヌケだったんだ。ポリグラムはかつてシン・リジィのようなロックバンドを担当していた。デフ・レパードでたくさんレコードを売ってもいた。私はワーナーブラザーズのオファーよりも少ない額の基本契約をポリグラムと交わしたんだ。」

    今にして思えば、この契約はポリグラムにとって素晴らしい契約であることを証明した。『Master Of Puppets』時代のメタリカはロック界で広く人気があったわけではなかったとはいえ、新しいレコード・レーベルのなかでも全く知られていなかった。ポリグラムのコペンハーゲン支社にはすでにプレッシャーがあった。ボン・ジョヴィの1stアルバム『Slippery When Wet』も86年にリリースされたが、概算でスウェーデンで6万枚、ノルウェーで4万枚売れたが、デンマークでは2800枚しか売れていなかった。今、ポリグラムはメタリカのような難解なケースを取り扱わなければならなかったのだ!ポリグラム・デンマークに少し懐疑的な人がいても不思議ではなかったのである。

    デンマークは間違いなくロックの市場ではなかった。しかしたくさんの人がはるかに賢くなろうとしていた。すでにメタリカのことを確信していた人たちでさえも。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

    このロスキレ・フェスの公演の模様はありがたいことにYouTubeで全曲視聴が可能です。最後の最後で映像が途切れていますが、当時の熱気が伝わる素晴らしい映像です。


    ロゴマーク無しはこちらから。
    https://www.youtube.com/watch?v=RFQaQ9qQqZw

    セットリストはこちら。
    http://www.metallica.com/tour/jul-6-1986-roskilde.asp

    「オレンジの張り出した屋根」という記載がありますが、このロスキレ・フェスティバルは現在でも張り出したオレンジ色の屋根がフェスのシンボルとなっており、張り出し屋根(Canopy)の「Canopy Scene」、もしくは「Orange Scene」と言ったらロスキレ・フェスのことを指しています。
    Orange_Stage

    当時のポスターでもこの屋根のデザインが挿入されています。
    1986_roskilde_poster

    次の項ではあの忌まわしい事故について・・・。

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    ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の管理人拙訳を久しぶりに再開。前回までで『Ride The Lightning』のリリース、Qプライムとのマネジメント契約、メジャー大手のエレクトラとのレコード契約を果たしたメタリカ。『Master Of Puppets』の制作から始まる第5章の1回目です。

    - メタル・マスターの悲劇 -

    1984年から1985年頃、メタリカは「唯一の」ハードで騒々しい「スラッシュメタルバンド」として見られていた。それ自体、メタルの外にいた人々には真剣には受け取られていなかった。しかしラーズはその状況を心配していなかった。多くの出来事が過去3年に渡ってバンドに起きていたのだ。自発的に行った「Hit The Lights」のレコーディングから、ガタガタな一連のデモテープ、最初のギグで感じた絶望を経て、メジャー・レーベル、そしてマネージメント契約まで至ったのである。

    純粋なビジネスと戦略的立ち位置から、バンドはラーズやその他のメンバーが望んだ状態に整備された。メタリカはすでにインディペンデント系ヘヴィメタルバンドとして信じられない数のアルバムを売っていた。そして真っ当な会社にいる真っ当な人々はバンドの将来性をそこに見ていたのである。ラーズとバンド、そして彼らの弁護士は、国際企業であるエレクトラ・レコードとバンドの今後の作品との関係において意識的に芸術的自由を確保していた。

    ラーズ・ウルリッヒは前述したMM誌のインタビューをこう締めくくっている。「だから俺たちはもうレコード会社やマネージメントのせいにできない。彼らがうすのろなんじゃない。うまくいかなかったら、それはもう俺たち自身のせいなんだ。」(MM誌1984年11月10日号)

    バンドの3rdアルバム時代の到来はラーズの必須要件を課すものでもあった。その時代は全くの対照をなす出来事を含むこととなる。つまり「バンドの芸術的頂点と実際の躍進」 vs 「バンド最大の個人的悲劇」である。

    『Ride The Lightning』時代はまだ終わってなかった。1985年前半、メタリカは有名なヘヴィメタルバンド、W.A.S.P.の前座を含む『Ride The Lightning』ツアーを続けていた。これだけがバンドとアルバムのプロモーションを行う唯一の方法だった。ビデオとラジオ向けシングルはまだバンドのプロモーション戦略を担ってはいなかったのだ。メタリカはきっちりアメリカのツアーに集中し、バンドの拠点であるメタリマンションから車でわずか20分のオークランドの巨大な野球場で8月31日に行われたプロモーター、ビル・グラハム主宰の伝説的コンサート「Day On The Green」でクライマックスを迎えた。

    数日後、8月から9月になり、ラーズとジェイムズは(訳注:デンマークのコペンハーゲン空港のある)カストルプに上陸し、フレミング・ラスムッセンの待つスウィート・サイレンス・スタジオの近所にやってきた。重要な3rdアルバムは事実上、メタリカのカレンダーのうち、1986年の残りを全て費やした。

    この時、アマー島のスウィート・サイレンス・スタジオは、バンドの最初の選択肢ではなかった。夏に行われたメタリカのツアーの合間にラーズとジェイムズとフレミングは、一週間でロサンゼルスのさまざまなスタジオをチェックした。

    「存在している全てのスタジオに行ったよ。」ラーズはそう語る。「次のアルバムをレコーディングできる場所をみつけるために毎日8つのスタジオを廻ったんだ。最高のスタジオはワン・オン・ワン(One On One)だという結論に至るまでね。俺たちは85年秋にレコーディングすると話したんだけど、彼らはオーバーブッキングしてやがったんだ。マヌケ野郎どもだよ。だから俺はフレミングに、デンマークに戻ってレコーディングして、50%近く経費削減した方がよくないか?って言ったんだ。」

    スウィート・サイレンス・スタジオは、ワン・オン・ワンに欠けていたおなじみの利点が全てあった。

    「俺たちはフレミング、スウィート・サイレンスの(スタジオのオーナーである)フレディ・ハンソンともとてもいい関係だった。」ラーズは語る。「スタジオルームではさらに良いセットアップになったと感じていた。できるだけ早くレコード会社を出て、できるだけ多くの時間をスタジオに費やす。それはとても重要だったんだ。だからワン・オン・ワンで7、8週間いる代わりに、フレミングとスウィート・サイレンス・スタジオに戻って4週間とれたことは最善だったんだよ。」

    最終的に、レコーディングする場所を決めたのはバンドそのものだった。はるかに安い料金のスタジオが、ニューアルバムのレコーディングにことのほかピッタリであることを証明した。そしてメタリカのメンバーはもはやスウィート・サイレンスの屋根裏部屋で一緒に寄り集まって寝泊りする必要はなくなった。

    「俺たちはアマー島のホテル・スカンジナビアに移ったんだ。そこはリッチー・ブラックモアやその他のアーティストがデンマークにいるときに住んでいたとこだったからね。」ラーズは70年代にノートとペンを持ってホテルの外で待っていたことを引き合いに出してそう話した。「俺たちにとって、デンマークでのレコーディングは経済的にも本当によかったんだ。(レートの良かった)ドルのおかげでもあるんだけどね。それで俺たちは角2つの互いに面したスイートを予約した。ジェイムズと俺でひとつのスイート、カークとクリフでもうひとつをね。あれはよかったよ。それが4ヶ月も続いたんだ。走り回ってたら、靴擦れまで出来たよ。ハッハッハ!(笑)」

    そんなことがありながらも、やっていたことのほとんどは完全にアルバム制作に集中していた状態だった。ラーズ・ウルリッヒとジェイムズ・ヘットフィールドは完璧なメタルアルバムを作ることに本当に集中していた。そして確かに完璧なアルバムでありながら、さまざまな感情表現、これらの表現が互いに息づく、耳目を引く特別なものであった。細部に宿る力は、いわばアルバムの駆動力をなしており、単純化した「スラッシュメタル」というラベルからメタリカは喜んで最後の一歩を踏み出したのだった。ラーズは、長きに渡って続く素晴らしいロックバンドは常に出自のサブジャンル以上のものになるということをよく知っていた。

    「スラッシュという言葉は、いずれにしろ俺たちには合っていなかったんだと思う。」とラーズは『Master Of Puppets』と題する次の新しいアルバムについて論じた。「たしかに俺たちはその手のスタイルの枠内だった。スピードもエネルギーも不快な感じも俺たちの曲にはあるからね。だけど、俺たちはいつもその限界の向こう側を見ていたし、メタルに対してヨーロッパ的なアティテュードを持ったアメリカのバンドという方が俺たちにはふさわしい定義だな。『Ride The Lightning』で、俺たちはペースがゆっくりになっても、充分パワフルでいられるのだということを学んだ。そして今、俺たちは音楽に繊細な部分があっても、充分ハードに攻撃できるということを理解したんだよ。」(マーク・パターフォード/ザビエル・ラッセル共著「Metallica : A Visual Documentary(邦題:Metallica 激震正史)」(1992)より)

    『Master Of Puppets』はその前作同様に成功したテンプレートとなっていった。『Ride The Lightning』のように『Master Of Puppets』は美しいアコースティック・ギターのイントロから始まり、モンスター級のスピードが後に続く「Battery」は、サンフランシスコのバッテリー・ストリートにあるオールド・ウォルドルフで行われたクラブ・コンサートについて歌っている。A面のタイトルトラックでもある「Master Of Puppets」は「Ride The Lightning」よりもはるかに良い編曲で、どれだけバンドの(特にラーズ・ウルリッヒの)アレンジセンスが早くに成長していたかを示すいい例だ。ヘットフィールドが全ての歌詞を書き、とりわけ薬物中毒者の依存症と無力感について歌った「Master Of Puppets」は強烈だった。この曲と幻想的なミドルセクションはメタリカが今やメタル、不快な音、ハーモニー、美しさ、哀愁、巧妙さのあいだの平衡を保つマスターであることを明らかにしている。

    A面(我々はまだLP時代にいるのだ)でも激しいバラード「Welcome Home (Sanitarium)」で静まっていき、B面では『Ride The Lightning』の「The Call Of Ktulu」のように明らかにクリフ・バートンが手がけたH.P.ラヴクラフトを参照した長編のインスト曲(「Orion」)が含まれていた。

    表面的には、このアルバムは『Ride The Lightning』とある種の類似性を持っていたが、それにもかかわらず強力な価値を持っていた。バンドが革新的な『Ride The Lightning』によりすでに富を得て、エレクトラとの契約により制作期間の延長が可能となった。『Master Of Puppets』は、この2つの要因によって創造力に富む雰囲気のなか創られたのだ。85年秋の創造的な特典として、メタリカが自分たちの音楽、そしてヘヴィメタルそれ自体も新たな高みへと突き動かしていく巨大な力を持っていた。『Master Of Puppets』という驚くべきメタルの作品がもたらしたこれらすべての要因が、速さと技巧のバランスのとれたメタリカ自身のスタイルを完成させた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングのため、ジェイムズとラーズがコペンハーゲンに前ノリしたのは、主にひとつの事柄のせいだった。盗まれたアンプがみつからず、ジェイムズがまだ適切なギターサウンドをみつけるために奮闘していたのだ。それまでに確保しておかなければならないプロセスもあった。ラーズが自身のドラムを揃えてもらうようマネージャーのピーター・メンチと彼のもうひとつのクライアントであるデフ・レパードの助けを必要としていた。その年のはじめにデフ・レパードのドラマー、リック・アレンはオートバイ事故によって片腕を失った。メンチはリック・アレンのLUDWIGの特注ブラック・ビューティー(手作りの黒く塗装されたドラム)をロンドンからコペンハーゲンに持ってきたのだ。

    しかしラーズはコペンハーゲンの店で生産終了になろうとしていたまさに同じモデルのスネアドラムを見つけた。たとえ古い「1978」の値札がついていたとしても。(訳注:デフ・レパードのレコードデビューは1980年のため、リック・アレンのニセモデルと思われる。)一方、リックは足で操作できるユニークなオペレーティングシステムによって失った片腕の代わりを務める自身のドラムキットを設計していた。

    ギターサウンド、スネアドラム、その他万事整って、『Master Of Puppets』のレコーディングが始まった。

    「私たちは本当に一生懸命やったよ。日に12時間から14時間、それを3ヶ月毎日さ。」プロデューサーのフレミング・ラスムッセンは振り返る。彼はスタジオで争いがあったことも思い出していた。「でも兄弟・姉妹喧嘩よりひどいことはなかったよ。私たちは家族のような関係だったからね。」フレミングはそう付け加えた。彼はすでにメタリカと最初に共作した頃から「親父(Dad)」とあだ名で呼ばれていた。

    さらにメタリカファミリーにおいては明確に定義された役割があった。フレミングは回想する。「クリフがベースにまつわることに対して中心に置かれながらも、ラーズとジェイムズの手中にあった。ラーズとジェイムズはスタジオでは独裁的権力は持っていなかった。でも彼らの言葉はある種の重みを持っていたね(笑)」フレミングは外交的な言い回しで笑いながらそう言った。

    さらにメタリカのマネージャーとして、ラーズが初期に果たした役割は『Master Of Puppets』のレコーディングのあいだ、ますます顕著になっていた。

    「ラーズは純粋にプロのドラマーとして非常に進歩していた。」ラスムッセンはそう語る。「でも彼はまた、物事のビジネス面において、とりわけビッグバンドの一員として、明らかに著しく素晴らしい掌握力を持っていたよ。『Ride The Lightning』から『Master Of Puppets』までにたくさんの進歩があったわけだけど、ラーズはほとんどの時間を電話に費やしていた。ジェイムズが理想のギターサウンドを探し求めていた頃、多かれ少なかれ彼自身がバンドを管理していたんだ。ラーズはツアーやTシャツやその他もろもろのために可能な限りの場所に連絡を取っていた。」

    アマー島にいるラーズとマンハッタンにいるクリフ・バーンスタイン、あるいはロンドンにいるピーター・メンチとのあいだで交わされたたくさんの会話は、来るべきツアーに向けての戦略に焦点を当てていた。前述の通り『Master Of Puppets』のレコーディングの前日、バンドは有名な「Day On The Green」で6万人のハードロックファンを前に自らの力量をテストすることが出来たし、ベイエリアに戻って、メタリカはスコーピオンズやラット、Y&Tのようなバンドの前座を務めてもいた。この経験は、メタリカに小さなクラブや会場の親密さよりも、幾分大きな場所で全力を傾けることができるという感覚を与えた。ラーズとQプライムの計画は自身がヘヴィメタルのアイコンであるオジー・オズボーンのサポートアクトとなることだった。彼は86年の春と夏を通じて、15000人から20000人収容のホッケーやバスケットボールの最も大きなアリーナで全米ツアーをしていた。そしてメタリカは最後までそのツアーに帯同することとなった。

    ソロアーティストとして、オジーは『Blizzard Of Ozz』『Bark At The Moon』アルバムを出して熱狂的ファンを増やしていた。よって(そんなオジーのファンを迎える)タフなギグがメタリカを待っていたのだ。しかしタイミングは絶好だった。この戦略は正しいことを証明した。ラジオ向けシングルやビデオは、86年当時のメタリカの選択肢ではまだなかった。オジーとブラック・サバスが70年代初頭にヘヴィという定義そのものを打破するためにこういったプロモーション手段を必要としなかったのと同じように。そしてある程度、『Master Of Puppets』は、オジーとサバスの時代の『Black Sabbath』から『Paranoid』『Sabotage』までの一連の陶酔感以来、最もクラシックな傑作アルバムとなった。

    実際、オジーとメタリカはお似合いのペアだった。オジーと彼のクルーはメタリカにまともな待遇を施し、ツアーの最後にはメタリカを観た昔からのサバスファンのなかでゴッドファーザー(訳注:オジーのこと)のセット中におむつをつけることでオジーに感謝の意を示すものもいた。

    『Master Of Puppets』のレコーディングは1985年のクリスマス・イヴに完了し、その後3人のアメリカ人たち(訳注:ラーズ以外のメタリカのメンバー)はアメリカへ帰っていった(ジェイムズのみ、デンマークを学ぶ試みとして伝説的な「スノー・ビール」ツアーを行った後で)。一方、ラーズは母親の住むコペンハーゲンの家でクリスマスと自身の22歳の誕生日を祝った。ラーズとフレミングはその後、スタジオ入りし、ラーズがサンフランシスコへ去る前に最後のドラムのレコーディング処理をしていた。サンフランシスコでメタリカは、カリフォルニアの新たな熱狂的なメタルシーンから出てきた仲間たちと大規模な新年コンサートのブッキングがあったのだ。83年以来初めて、ラーズ、ジェイムズ、クリフは以前のギタリストで今や自身のバンド、メガデスのフロントマンであるデイヴ・ムステインとステージを共にすることになった。カークの前のバンド、エクソダスもそこにいた。オジーとの今後のツアーで重要な役目を果たすこととなるジョン・マーシャルがギタリストとして在籍するメタル・チャーチ同様に。

    『Master Of Puppets』がアメリカでマイケル・ワグネルによってミキシングされていた頃、ジェイムズとクリフはホームであるサンフランシスコでお遊びバンド、スパスティック・チルドレンを組んで楽しんでいた。ラーズは1986年3月7日のアルバムのリリースまで熱心にメディア取材ツアーを行っていた。ラーズは話題がメタリカとなり、メイントピックが『Master Of Puppets』となるといつも夢中になっていた。バンドは著名なハードロックの出版物のなかで、表紙を飾る存在となっており、購入者からの反応は目に見える形で現れた。リリース最初の週に『Master Of Puppets』はアルバムヒットチャートTOP30まで登りつめたのだ。(メタリカが86年夏の終わりにオジーとのツアーを終えた時点で、アルバムはアメリカでゴールドディスク、つまり50万枚を売り上げた。)

    そんなわけで、3月27日から始まったカンザスシティーのオジーとのツアーは確かにメタリカのための春といえた。1時間のセットを終え、シャワーを浴びたら、バックステージでアルコホリカ・パーティーの始まりだ。忘れてはいけないことは、彼らのアイドルのコンサートを毎夜タダでそしてベストの位置で見られるということだった。

    1986年のツアーのあいだラーズはこう語っている。「俺たちはこのギグ以上のサポートを得るなんて望むべくもないことだよ。オジーは本当に度を越えた観衆を魅了していた。俺たちは最も度を越えた新進気鋭のハードロックバンドのひとつなわけで、理想の観衆のためにキッチリ演奏する機会を得たってわけだ。バンドは55分のセットを毎夜やって、本当にクールに迎え入れられた。メタリカもオジーのクルーからファーストクラス級の扱いを受けたんだ。」(マーク・パターフォード著『Metallica in Their Own Words』(2000年刊行)より)

    しかしメタリカのビーカーに苦味が数滴落とされた。『Master Of Puppets』の最後の曲に触発され公式ツアーのタイトルは「Damage Inc.」だった。この超高速の曲はこの当時のメタリカで支配的なムードを完璧に捕らえていた。ステージ上でもバックステージでも彼らのキャリアの面でも。しかし情け容赦ない運命は、全くツアータイトルの文字通りのごとくとなっていくのである。

    ニュージャージーのメドウランズ・アリーナ(現アイゾッド・センター)で、オジーの観衆が凶暴化し、機材が壊され12万5千ドルの被害に遭ったこともそのひとつであり、一方でロングビーチアリーナでファンがバルコニーから転落し、オジーのライヴ中に怪我が元で死亡したというもうひとつの悲劇的な側面もあった。そしてそれから2ヶ月と経たないうちに信じられない悲劇がメタリカを襲うこととなる。

    英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/
    metallica-ozzy-86
    メタリカとオジー・オズボーン(1986年)

    ちょっとずつ訳しためていたものを一気に放出してしまったので、続きはまたしばらく先になりそうです。しばらくお待ちください(汗)

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    FearFestEvilが行われるサンノゼの地元紙でカーク・ハメットがインタビューに答えていました。カークの語る最近観たお気に入りのホラー映画、ホラー映画にハマるきっかけ、新譜の制作状況等を管理人拙訳にてご紹介。

    KirkHammett_and_KirkVonHammettsHead

    カーク・ハメットは世界有数のホラー映画メモラビリアのコレクターの一人だ。もちろん史上最大のロックバンド、ベイエリア出身のメタリカのギタリストでもある。

    サンノゼのロックバー・シアター(RockBar Theater)で土日に行われるホラー映画とメタル・ミュージックの祭典、2周年を迎える「Kirk von Hammett's FearFestEvil」で彼の二つの世界は激突する。

    カーク・ハメット(52)−史上最もヘヴィなギタリストのひとり−は両日パフォーマンスを行う。他の出演者は、容赦ない請求書付きのメシュガー、ハイ・オン・ファイア、オーキッド、グール、アグノスティック・フロント、アサダ・メサイアたちだ。

    多くの(元ガンズ・アンド・ローゼズのギタリストのスラッシュのような)有名なロッカーや、(ロブ・ゾンビ監督の傑作、『デビルズ・リジェクト マーダー・ライド・ショー2(原題:The Devil's Rejects)』に出演したビル・モーズリーのような)ホラー映画のアイコンも出演する。野外開催の「カオスのカーニバル」、カーク・ハメットのホラー映画に関する個人コレクション「Crypt Collection」の展示も行われる。

    実際にはパーティーは金曜日に始まる。カーク・ハメットはサンノゼのウィンチェスター・ミステリー・ハウスで殺人ミステリー・ディナーを主催する。しかし悲しいことに悪霊が集まるチケットは完売した。

    私(訳注:記事の著者、ジム・ハーリントン)は先ごろ、サンフランシスコ出身エル・ソブランテ育ちの彼とホラーへの情熱について話した。彼はちょうどその時、レコーディング・スタジオを出て、マリン(訳注:カリフォルニアの海岸地方)を車で移動中だった。

    −私もホラー映画の大ファンなんです。私が観るべきオススメは何かありますか?

    最近観てよかったホラー映画は『キャビン(原題:Cabin in the Woods)』(2012年公開)だね。『武器人間(原題:Frankenstein's Army)』も本当に楽しかったな。設定がすごくいいんだ。フランケンシュタイン博士が別の村に引っ越してきて、第二次世界大戦が始まる。彼は研究を続けるためにナチスに認可を受けて、おびただしい数の生物を用意するんだ。

    最近観た中で本当に気に入った他の映画だと、ホラー映画と俺は思っているんだけど、ジェイク・ジレンホール出演の『複製された男(原題:Enemy)』かな。


    −そう、ジレンホールは素晴らしい役者ですよね。

    『ドニー・ダーコ(原題:Donnie Darko)』(2001年公開のジレンホール主演映画)は俺の人生のなかでもお気に入り映画のひとつだね。あの映画は10回、20回、30回と観ても、違ったものが観える。違うものをそこから捉えることができるんだ。観るたびにね。


    −ノートを取るのでもう少しオススメを教えてください

    本当に好きなものは60年代、70年代の映画にたくさんあるんだ。今日まで趣味の悪いヤツにもかかわらず、いまだに大好きなんだ。そのなかのひとつが『怪奇!双頭人間(原題:The Incredible Two-Headed Transplant)』(1971年公開)っていう最もクソ変てこな映画なんだ。あとこれに類する(1972年公開の)『Mr.オセロマン(原題:The Thing with Two Heads )』っていう映画ね。

    −どのようにしてホラー映画にハマったのですか?

    5歳の時に最初のホラー映画を観たんだ。『トリフィド時代(原題:The Day of the Triffids)』(1951年公開)っていう映画。それからそれが好みのタイプの映画だとわかった。それで、そこから数年以内ぐらいにボブ・ウィルキンスの『Creature Features』が始まった。


    −『Creature Features』!私もそれを見て育ちましたよ。(1971年から1984年までベイエリアのテレビ局KTVUで放映されたホラー映画番組)

    俺は週末になるとあれを観ていた。TVガイドを手に入れて、ボブ・ウィルキンスが俺たちに『Creature Features』でどんな映画をみせてくれるのか確かめるんだ。

    (そこから)子供の頃はずっとコミックとモンスター・マガジン(monster magazine)を収集して、その時点で入手できたクールなモンスターのおもちゃをたくさん買ったんだ。


    −それはあるあるですね。

    音楽の良さが分かってから、俺のなかにあった他の全てのことはすっかり拭い去ってしまった。モンスター映画もコミックも。やってみたいことはレコードを聴くことだけになった。それからギターを弾き始めると、やってみたいことはギターを弾くことだけになった。そうして8、9年と過ごしていたんだ。それが俺がやった全てさ。そしてエクソダスを結成して、それからメタリカに加入した。

    メタリカからちょっとした収入を得始めるようになってからだね。1984年の『Ride The Lightning』ぐらいかな。(ホラーに)舞い戻ってきたってわけさ。今は自由に使える収入があるから、またコミックの収集も始めたんだ。子供の頃持っていたものと同じ、たくさんのおもちゃを探し求めたり、子供の頃にはとても買えなかったおもちゃを買ったりしているよ。


    −ホラーがあなたを魅了するものは何だと思いますか?

    俺はいつも物事のダークサイドに惹かれるんだ。いつもモンスターと結び付けていた。(モンスターは)文化や社会の末端にいるっていう事実と結び付けていた。はみ出し者、のけ者といった孤立した人々といつも結び付けていた。どういうわけか、ちょうどそれが俺の仲間だったんだ。

    −メタルとホラーのあいだには自然な相乗効果があるように思えます。

    ホラー映画とヘヴィメタルにはたくさんの同じ成分が入っている。権利を奪われた多くの人たちが本当にヘヴィメタルを楽しんでいる。権利を奪われた多くの人たちがホラー映画につながりを感じる。俺のFearFestEvilはホラー映画とヘヴィメタルと2つのあいだにある類似点の祭典なんだ。

    −当然ながら私はメタリカの近況を聞かずして、電話を切らせるわけにはいきません。新譜はいつになりそうですか?

    完成したら、見られるよ。俺たちには曲がある。それは保証する。俺たちは音楽に取り組んでいる。それも保証する。


    −あなたは会話の冒頭でスタジオを出たばかりだと言っていました。私はメタリカのものをやっていたと思っていましたよ。

    あぁそうだよ。プロジェクトの早い段階であって、物事は一週間のあいだに右だか左だかに大幅に変わりうるんだ。いますぐ何か言うのは難しいね。本当に何も不変じゃないから。

    San Jose Mercury News(2015-04-06)

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    RollingStoneのインタビューでロバート・トゥルージロがジャコ・パストリアスやメタリカの新譜について語ってくれました。管理人拙訳にてご紹介。

    rob_8

    メタリカのロバート・トゥルージロは、ファンキーな即興演奏で知られるジャズの名手、故ジャコ・パストリアスの人生についてのドキュメンタリーを見たいといつも思っていた。そして、初めてジャコの息子ジョニーに出会った時、自分でそれを作ってしまおうと急き立てられるほど強く思ったのだ。約20年後、トゥルージロが共同プロデュースを行った『Jaco: A Documentary Film』は、4月に初開催される「Asbury Park Music in Film Festival」で上映が企画され、映画祭を巡回し始める。

    「これは教育ビデオなんかじゃない。もっと深い、物語なんだ。」

    ジャズ・フュージョンの巨大グループであるウェザー・リポート、ジョニ・ミッチェル、イアン・ハンターのアルバム、そして自身も同じくらい多く出したソロ作品における独創的な演奏で70年代半ばにロックとジャズの境界線の橋渡しをした伝説のベーシストを持ち上げたフィルム・クロニクル。躁鬱病が彼の後半生のキャリアにどう影響を及ぼしたかにも触れている。

    しかし、内容のほとんどは、このベーシストが1987年にクラブの用心棒から殴られて脳出血により35歳で亡くなる前に、多くのミュージシャンにどれだけ影響を与えたかの証左となっている。

    過去5年間に渡って制作されてきた、このドキュメンタリーではジャコを尊敬してやまない多くの人々が出演。そこにはフリー、スティング、ゲディー・リー、ブーツィー・コリンズ、そして彼とジャムを共にしたジミー・ペイジ、元ガンズ・アンド・ローゼズのドラマー、マット・ソーラムも含まれている。

    何より、トゥルージロは人々がパストリアスにどれだけの情熱を持っているのか観て欲しいと願っている。「これはとても特別な映画なんだ。」メタリカのベーシストはこう語る。「彼の物語をシェアすることは重要だと思っているよ。」

    −いつジャコ・パストリアスがあなたの人生を変えましたか?

    1979年にサンタモニカ市公会堂で彼が演奏したのを観たんだ。本当に自分の世界が変わったよ。それ以前まで最前線でメロディックな楽器として弾かれているベースを観たことがなかった。ギタリストのいないウェザ・リポートで演奏していた。あのなかではジャコが一番ヒッピーだった。彼のステージでの存在感は本当にパワフルだったよ。ほとんど彼のショーと言っていいくらいさ。みんな、彼を観にやってきたんだ。ヴェニス・ビーチからたくさんのスケーター仲間、サーファー、ジャズ・プレーヤー、メタラーやジョン・ベルーシ(訳注:ブルース・ブラザーズで知られる俳優)までいた。そんなたくさんの人たちが彼をチェックしに来ているように見えたね。

    −なぜジャコの演奏は特別なのでしょうか?

    ジャコは信じられないくらいファンキーなんだけど、本当にヘヴィでもあるんだ。彼のサウンドには多くのエッジとうなりがあった。俺は彼がいまだにユニークなサウンドを持っているってことが大好きなんだよ。そして彼のダイナミックな存在感が楽器を通じて感じられるところがね。でも同時に彼はメロディックで、たくさんのプレイヤー、ことさらベーシストにとってはとても貴重な存在なんだ。

    俺にとって特別だったのは、ライヴの体験とジョニ・ミッチェルとイアン・ハンターと一緒にやっている音源を見つけたことかな。もちろん彼のセカンドアルバム(訳注:『ワード・オブ・マウス』)もね。「Teen Town」のような曲のようにドラムとベースだけで本当にアグレッシヴなこともできる。実際、あの曲では彼はドラムも叩いているんだ。クレイジーだね。「Portrait of Tracy」ではハーモニーで曲を構成している。ハーモニー・コードを?ベースでだって?
    それまでに誰がそんなものを聴いたことがあるかい?

    −ジャコを初めて聴くのに一番いい出発点は何だと思いますか?

    「Come On, Come Over」を聴くといいよ。ファンキーなプレイヤーとしてジャコのスタイルに通じるのが重要だと思うからね。楽器の上で動く彼の指はさながらパーカッションのようだった。それはとてもユニークなサウンドで、だからレッチリのフリーやゲディー・リーや俺が彼に魅力を感じるんだ。彼のテクニックは本当に特別なんだよ。あれはみんなが聴くべき、頭をぶったたかれるようなファンク・ダンス・ナンバーなんだ。それからテクニックとか彼の革新者としての能力を知りたいと思ったら「Portrait of Tracy」を聴くといい。俺にとって、あれはベースである点を除けばエディ・ヴァン・ヘイレンがやった「Eruption」みたいなものなんだ。ウェザー・リポートの「Havona」もいい曲だね。もしロック好きならイアン・ハンターの「All-American Alien Boy」がある。最後に挙げた曲は誰もがこれまで聴いたなかで最高のベースソロになるかもしれない。


    −なぜベーシストは、ギタリストのように名手として認められることが難しいのでしょうか?

    昔から、ベーシストの役割というのはシンプルでソリッドなものを維持していくだけだったから、実際に視覚的なものを含めた大きな存在感をもたらすプレイヤーと出会えた時というのは本当に特別なことなんだよ。メタリカのクリフ・バートンなんて重大事件さ。彼はその楽器を手にとって、ヘヴィメタルに違う何かをもたらした。俺はそれが革新的だと思う。俺にとってそれは特別なものなんだ。

    俺は90年代にインフェクシャス・グルーヴスっていうバンドを組んだ。その音楽は本当にミクスチャーのスタイルで、パンクロック、スカといったものをやっていたけど、それからそこでたくさんのファンクをやり出した。ファンクはジェイムズ・ブラウンから始まったけど、ジャコ・パストリアスからでもあるんだ。俺はインフェクシャス・グルーヴスのなかでメインの作曲をやっていたけど、ジャコに本当に重大な影響を受けていた。そしてこうしてみんなをモッシュさせるようなクレイジーな曲を書いているんだ。結局、俺は全部彼から出来ている。もちろん他の大きな影響として明らかに(ブラック・サバスの)ギーザー・バトラーがいるわけだけどね。ギーザー・バトラーとジャコ・パストリアスのあいだなのは間違いない。


    −ジャコに会ったことはありますか?

    彼にちゃんと会ったことはないんだ。でも彼に遭遇したことはある。1985年にハリウッドで行われたギター・ショーでね。そこではホテルの各部屋にフェンダーとかギブソンとかアンプの会社とかスポンサーになっている音楽関連会社が入っていたんだ。そこのある部屋にいたら突然、壁や窓を震わすほどの馬鹿でかい刺激的な音が聴こえてきた。みんなこうさ。「一体何なんだこれは?」

    その部屋に行ってみると、ジャコがベースを弾いていたんだ。それだけでクレイジーだったね。俺は数フィート離れて彼の真正面に座った。数分のうちに部屋は人でいっぱいになった。彼はそこにいた俺たち全員の目を観たんだ。それが挨拶代わりみたいなものだった。彼は笑いもせず、何も言わずに真剣な目でこちらを観て「そうだ。俺はここにいる。よく聴け。俺はまだおまえらをぶちのめせる。」と言われているように見えた。俺にとってはとても強烈な瞬間だったよ。


    −ジャコの訃報を知った時、あなたはどこで何をしてましたか?

    訃報を知った時、俺はスタジオにいた。俺のベーシストの友だちの多くはジャコに敬意を表して実際に黒い装いをしていた。もう1回言うけど、こういう人たちはジャズ・ミュージシャンじゃなかった。本当にベースに夢中になっている人たちだった。俺たちベーシストはジャコの身に起きたことに絆と心からの悲しみを覚えたんだ。特に80年代にジャコについてのたくさんの悲しい物語やうまくやっていけてなかったことを聞くに及んでね。(ギター・ショーで)彼を観たとき、そんなにすごいことはやっていなかった。彼はちょっと謎を秘めてそこにいたんだ。

    −あなたはこの映画に多くの時間を投入してきたようですね。

    もう5年になるよ。たくさんお金がかかった。多くの人は「へぇ、あんたは金持ちロック・スターだね。」って思うだろう。俺たちはこの映画を作るために実際に資金を調達しなきゃならなかった。ポケット・マネーで約80万ドルも費やしたよ。俺はいつも言っているんだ。「あぁ確かに俺はメタリカの一員だ。でも俺はブラック・アルバムの時にはいなかった。」ってね。ロバート・トゥルージロについて間違った考えを持って欲しくないんだ。でも情熱が俺を動かした。この映画はそれを表しているよ。自分が感化された影響をシェアしたいと思ったのさ。普通の人は、5年間かけて俺がジャコ・パストリアスのためにしてきた冒険のように、ドキュメンタリーにそれだけ多くの情熱と時間をかけることを理解できないだろうね。監督のポール・マルシャンはジャコの映画を終わらせるために他の映画を断ったんだ。

    −新しいメタリカのアルバムはどうなっていますか?

    俺たちは楽曲に取り組んで、楽しい時間を過ごしている。生産的であることを楽しんでいるよ。

    −その楽曲はどんな感じですか?

    メタリカみたいに聴こえるね(笑)

    −『Death Magnetic』の延長線上のようなものに感じますか?

    それはまだ何とも言えないな。本当にどのアルバムにも関連付けられないんだ。メタリカはどのアルバムもそれぞれが独自にユニークになっていると俺は思う。俺たちがやっていることは特別でそれ自体がユニークなんだけど、いまだにヘヴィであり続けている。リスナーとしての俺にとって、メタリカと共にする旅路っていうのは、必要とされる特定のエッジがあるんだよね。メタリカに加入する前、スイサイダル・テンデンシーズにいた時、俺はツアーのために『Ride The Lightning』を練習したもんだった。小道をジョギングするようなものは一切なかった。「Fight Fire with Fire」みたいに。俺が言えるのは俺たちはヘヴィなものをやっているってこと。でも、もう一度言うけど、どのアルバムも独自の経験がある。だから俺たちはどうなるのかもう少し様子をみる必要があるだろうね。

    RollingStone(2015-04-02)

    ちなみに『Jaco: A Documentary Film』が公開される「Asbury Park Music in Film Festival」は、場所こそ全然離れていますがカーク・ハメット主催のFearFestEvilと日程的にモロかぶり(2015年4月10日-12日)。おそらく新譜制作の合間の休日の期間を充てているのでしょう。

    最後にインタビュー中にロブがオススメしていたジャコ・パストリアス参加の曲を。

    Come On, Come Over


    Portrait of Tracy


    Havona


    All-American Alien Boy



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    来週金曜日(2015年4月10日)からいよいよ開催されるカーク・ハメット主催のホラー・フェスティバル「FearFestEvil 2015」。これに伴い、フェスについてや自身のホラー映画の趣味について、カーク・ハメットのロング・インタビューが行われました。記事中のカークのQ&A部分のみ管理人拙訳にてご紹介。

    kirkvonhammett_zombie

    −あなたのコレクションがFearFestEvilで展示される予定です。もし火事になって、ひとつだけ持ち出せるとしたら、ひとつお気に入りの傑出したアイテムはありますか?

    参ったなぁ。それは難しい質問だね。1934年の映画『黒猫』でボリス・カーロフが着ていた衣装かな。あのコスチュームをひっつかむと思う。あるいはミイラの3枚もの(の映画ポスター)。でもあれは7フィート(2メートル強)で300パウンド(約140キロ)以上もあるから厳しいね。ドアの外に出るのも難しいだろうね。蝶番の外れたドアの家を出るのと同じくらいに。家が火事になったら、耐え難いものになるよ。黒猫の衣装は火事から逃れるのは比較的容易いと思うけどね。

    −(ハーマン・メルヴィルの小説)白鯨のように、あなたがまだ手に入れていないものはありますか?自分のものにしたい一番のアイテムは何ですか?

    存在しないと思われていて探している映画ポスターがいくつかあるんだ。20年代、30年代、40年代のホラー映画のポスターは超レアなんだよ。そのほとんどが第二次世界大戦のあいだに古紙回収運動で無くなってしまったんだ。古紙回収運動っていうのは紙をリサイクルして、近所に行ってはそこにいるみんなにこう言うんだ。「もし余っている紙があったら、今持ってきて」。だから、20年代、30年代、40年代のたくさんのポスターが無くなってしまった。まだみつかっていない30年代の映画ポスターがいくつかある。あるいはコピーしかみつかっていないものなんてのもある。一番俺が欲しいのはコピーしかないもので、1932年に制作されたベラ・ルゴシの映画『モルグ街の殺人』のポスターだね。もし『モルグ街の殺人』のポスターをみつけたら、ぜひ俺に教えてくれ!

    −所有しているホラー映画のポスターで、一番お気に入りのものは何ですか?

    いつも変わるけど、間違いなく大好きなのは3つ言える。一番は『フランケンシュタインの花嫁』、二番は1934年の『黒猫』、そして三番目が『死霊のはらわた』、『死霊のしたたり』、『ヘル・レイザー』、1作目の『エルム街の悪夢』、1作目の『エイリアン』のあいだでどれかなって感じだね。この三番目の地位は埋めるのが難しいね。大好きな素晴らしい現代のホラー映画がたくさんあるから。

    −あなたが惹きつけられがちなサブジャンルはありますか?

    悪魔のようなものに占有される映画、幽霊屋敷の映画、SFホラー映画のような、それ自体がジャンルになっているものが本当に大好きなんだ。『エイリアン』とか『イベント・ホライゾン』とか『スペース・バンパイア』のようなものがそうだね。かなりひどいホラー映画には弱点がある。そういう映画を観るのは知ってるなかでは俺だけ。本当にひどいホラー映画を観ているって人がみつからないのさ。

    −本当にひどいお気に入りのホラー映画は何だと思いますか?

    それならずっと喋ってられるよ。お気に入りのホラー映画は、そうだな、2つあるな。『Mr.オセロマン(原題:The Thing with Two Heads )』と『怪奇!双頭人間(原題:The Incredible Two-Headed Transplant)』(訳注:どちらも「双頭」ホラー映画)だね。両方とも70年代初頭の映画なんだ。どっちも不埒な映画で、明らかにどっちかがどっちかをコピーしているんだけど、どっちも全く違っていて、とてもひどくて最高だよ。ひとつは一人が人種差別主義者で、そいつの頭が大柄なアフリカ系アメリカ人の体に移植されるんだ。もうひとつの映画では知的障害者の体に頭を移植される。どちらも−本当に素晴らしい設定だ。言い表す言葉がないよ。

    −それ自体でいろいろ話せそうですね。私はホラー映画の曲にも興味があります。ミュージシャンとしてのあなたにとって傑出したものはありますか?

    ホラー映画のサウンドトラックでお気に入りなのは『ハンガー(原題:The Hunger)』のサウンドトラックだね。クラシックで心に響く作品で、とてもファンタスティックだ。『シャイニング』のサウンドトラックもかなり好きだよ。『死霊のしたたり』のオープニング・シーンもいいね。『サイコ』のテーマ曲に似ているんだけど、あれは狙ってやってるね。これが俺の大好きな3つのサウンドトラックだよ。

    −ひどい映画、おかしな趣味の悪い映画があるんだとあなたが言う時、もし純粋に怖がりたい人に観るべき映画を選ぶなら何を最初に持ってきますか?

    自分にとって『エクソシスト』は、これまでで一番怖い映画だね。1作目の『死霊のはらわた』も大好きだね。あれは本当に素晴らしいよ。『パラダイム(原題:Prince of Darkness)』っていう映画も本当に怖かったなぁ。何でかわからないけど。とにかく本当に怖かったんだ。

    俺はスプラッター映画の大ファンってわけじゃないんだけど、スプラッター映画の起源となった『13日の金曜日』のような映画は本当に素晴らしいと思う。『バレンタイン』っていう本当に信じられないほど良い映画もあるし、『The Ghoul (The Thing in the Attic)(訳注:邦題不明・日本未公開?)』っていう映画も本当にいい映画だよ。もし暴力的な恐怖を味わいたいなら、今言ったような映画を挙げるかな。


    俺にとっては、そんなことを考えるたびに『エクソシスト』が一番に出てくるけどね。いまだに死ぬほど怖がらせてくれるよ。少なくとも20回は観たね。ツアー中、遅くにホテルに戻って午前3時に各チャンネルをザっと見て、『エクソシスト』を観るんだ。でもホテルの自分の部屋でパニックになりたくなかったから、意図的にチャンネルを変えなきゃならなかったよ。過去3年間そんなことをやっているんだ。俺にとって最高の映画だ。

    −あなたが今後、特に興奮している公開予定のホラー映画はありますか?

    新しい『ターミネーター』はきいているものからすると本当に素晴らしい映画かもしれないね。みんなが考えていないであろう最近観たホラー映画についていくつか教えてあげよう。『ゴーン・ガール』って映画を知ってるかい?あれはホラー映画だと思うね。ちょうど最近、ジェイク・ジレンホール主演の『複製された男(原題:Enemy)』って映画を観たんだ。本当に怖かったよ。本当に怖かった理由は、とても抽象的でいまだにエンディングが一体何だったのかわかろうとしているカフカ風の作品だったからなんだ。俺にとっては、費用に見合うたくさんの価値があった。映画を観に行って、それが気に入って、何か考えさせてくれるようなことがあって、映画のことを考え続けるようなことがね。

    俺は興奮させてくれるようなホラー映画が好きで、『複製された男』は素晴らしい映画だと思うよ。あれは誰のレーダーにも引っかかってないね。ホラー雑誌やホラーサイトを見たけど、それについては大して書いていなかった。俺はたまたまみつけたんだけど、あれは観ておくべき素晴らしい映画だよ。

    −メタル界でホラー要素をステージに持ち込む最高のバンドは何だと思いますか?

    ミスフィッツだね。分かってるくせに。彼らは実際、映画をよく知ってるから、イメージがよく分かってるんだ。ただの上っ面じゃない。彼らは実際にホラー映画のファンでもあるし、俺たちは互いに電話するんだけど、お互いモンスター・キッズって呼んでるよ。ミスフィッツの連中はみんなモンスター・キッズなんだ。


    −ミスフィッツは昔のメンバーたちですか?グレン・ダンジグがフロントマンの時の・・・

    そう。70年代、80年代の編成の時だね。ジェリー・オンリー、ドイル、グレン・ダンジグ、ロボ。俺にとって完璧なホラー映画バンドだよ。

    GWARの芝居じみた感じも楽しいし、グール(Ghoul)ってバンドも楽しいね。俺は彼らが死ぬほど大好きだし、こういうバンド全部が死ぬほど好きなんだ。でもホラー映画について話していて、一番本物で説得力のあるバンドとして受け止められるのはミスフィッツなんだよ。最近もグレンとホラー映画について話したし、ドイルはFearFestEvilに来てくれたしね。


    −もうすこしFearFestEvilについて話しましょう。昨年、参加者は剥製の授業のように、興味深いホラー関連のものを現地でたくさんすることができました。今年は何に一番期待していますか?

    今年は金曜日から始まる3日間のイベントで、金曜日はウィンチェスター・ミステリー・ハウスで殺人ミステリー・ディナー(チケット完売)をやる予定なんだ。本当にエキサイティングなものになるよ。自分と何人かのスペシャルゲストも参加する。解決すべきミステリーの全シナリオを俺たちは演出するんだ。そしてさまざまなスペシャルゲストがチケットを買った参加者に手がかりを与えてくれることになっている。

    ウィンチェスター・ミステリー・ハウスのことを聞いたことがあるかわからないけど、あの家には本当に興奮しているよ。本当に不気味だし、幽霊が出そうな雰囲気が最高にクールなんだ。夕方のあいだにある手がかりを明らかにしていくスペシャルゲストを伴って降霊会が行われるんだ。だからディナーの後は連れ立って謎を解いて、ミステリーの最後には殺人者が何をやったのかがわかる大きな種明かしがあるって寸法さ。


    土曜日はFearFestEvilの音楽パートなんだ。屋外にはテーマ別のマーケットがあってたくさんのベンダーやその他もろもろが参加する。いろんなショーを行う予定で、一例としては見世物小屋とか、ゲームのカーニバルエリアとかね。俺のコレクションも展示予定だよ。これが土曜日の午後1時から始まる。午後7時頃からは夜の音楽パートさ。ハイ・オン・ファイア(High On Fire)のようなバンドがライヴをやって、どでかいモンスター・ジャムもやるつもりなんだ。ハイ・オン・ファイアのみんなと俺とコリィ・テイラー(スリップノット)、ジョン5、チャーリー・ベナンテ(アンスラックス)とかと一緒にね。楽しみだよ。


    土曜日と日曜日の予定で、コスプレ・コンテストを含むさまざまなコンテストがあるって言ったっけ?日曜日にはテーマ別のマーケット、遊園地式の乗り物、見世物小屋、本当にたくさんのクールなエンタテイメント、いくつかのコンテストがあって、夜にはメシュガー(Meshuggah)さ。このイベントのために音楽パートにより重きを置いたんだ。次のイベントではホラーに重点を置くつもりで計画している。それが俺たちがやろうとしていることなんだ。FearFestEvilは絶対に連続して同じものにはならない。いつも違って、フォーマットを変え続けるつもりだし、イベントもいつも変えていくつもりだし、必要とあらば何でも取り替えたり、使えたりできるものにしたいんだ。

    Mashable(2015-04-01)

    参考までにインタビュー中に出てきた『Psycho』のテーマと


    『死霊のしたたり』オープニングテーマ。


    確かによく似ています。

    FearFestEvil
    http://www.fearfestevil.com/

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