ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』有志英訳を管理人拙訳にて。有志英訳が今回分で終わっており、尻切れトンボではありますが、ついに最終回となります。ジェイソンのベースについての話題が多い『...And Justice For All』の制作過程ですが、また別の角度からの秘話を。

metallica_1987

1987年の終わりには、メタリカのファン層は巨大なものとなっていた。それはグローバルで、忠実で、献身的で、本当にただ「メタリカ」と呼ぶしかない自分たちが築いたメタルのニッチ分野に分類されるものだった。それは、どんなロックバンドや音楽のマーケッターにとっても夢のシナリオだ。

しかし、純粋に芸術的にも、メタリカはいくつかの挑戦に直面していた。ヘヴィメタルのほとんどのファンは、新旧ファンともに、『Master Of Puppets』は最高傑作だと考えていた。大雑把なスラッシュメタルのテンポとエネルギーに行き詰まり、速さ目的のためのただのスピードから、アルバムのオープニングとエンディングの曲(「Battery」「Damage Inc.」)でやったごとく、メタリカは大きな一歩を踏み出した。何よりも、タイトルトラックと「Welcome Home (Sanitarium)」で完璧に示されたように、即時で極度なエネルギーと感情的で深みのあるバイヴを1曲のなかに入れ込む素晴らしいバランスを保つバンドの能力が『Master Of Puppets』の揺ぎない力となっていた。

メタリカが実際にリフに基づいたメタルソングをどこまで技術的にこなせるのか、もしメタリカが望んだとしたら?それが分かった時には、とんでもないものとなった。

メタリカは『Master Of Puppets』の曲を書くのに数ヶ月を要していた。新曲作りはさらに早いペースだった。そう驚くべき早さだ。9つの新曲をたった8週間で書いたのである。一方で、メタリカには今やスケジュールの問題があった。「壊れていないものを直すな」は音楽業界でもおなじみの標語だ。それはすなわち、メタリカの意図は、年が明けてすぐにフレミング・ラスムッセンとレコーディングを行うということを意味していた。しかし、スウィート・サイレンス・スタジオとラスムッセンは、すでに歌手アン・リネット(Anne Linnet)の予約が入っており、早くとも2月の途中からでないと一緒に仕事ができないということだった。

したがって、ラーズとメタリカは明白なジレンマに直面しなければならなかった。とりわけサウサリートのスタジオでのスロースタートを経た後で、ほぼ2ヶ月間ラスムッセンの準備ができるのを待つべきなのか?それともレコーディングは始めておいてラスムッセンが現在のプロジェクトを終えたら加わってもらうべきか?

解決策は後者だった。

メタリカはガレージのカバーで成功を収めていた一方、自分たちのやり方でアンダーグラウンドからチャートに這い上がってきた新しいガレージバンドがいた。ガンズ・アンド・ローゼズである。ラーズはすぐにこのバンドのセンセーショナルで熱狂的で無鉄砲なデビューアルバムを好きになった。ガンズ・アンド・ローゼズはメタリカとは全く異なり、ロックンロールに基づいた音楽を演奏していたが、アルバムのドライでダイナミックなサウンドはほとんどのロック愛好家に一杯食わせるものがあった。このアルバムのプロデューサー、マイク・クリンクは1987年という年にロック界で最もホットな名前のひとつとなっていた。

目まぐるしく変わる状況のなかで、ゲディ・リー(ラーズとジェイソンの大好きなラッシュ(Rush)のベーシスト/シンガー)を雇うこともメタリカは考えていたが、彼も1988年の最初の月は他のことにスケジュールを押さえられていた。そこでマイク・クリンクに選択肢が落ち着いた。彼は幸いなことに当時充分時間があった。しかも彼の履歴書にはこうあった。ラーズとカークの70年代バンドのお気に入り、UFOのスタジオ・エンジニアであったと。

年が明けてすぐに、メタリカはバンドの実の誕生地であるロサンゼルスに位置する小さいながらも設備の整ったスタジオ、ワン・オン・ワン(One On One)でクリンクに会った。しかしメタリカとクリンクは一緒にノることはなかった。ラーズとデモテープ時代からの友人であり、バンドの最初のファンクラブ会長K.J.ドニントンは自著本『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』のなかで「クリンクはピンとこなかった(原文:Clink didn't click)」としっかり述べられている。

ワン・オン・ワンの外でメタリカが始めていたアルバム・レコーディングがほとんど実りのないものだったと最初に気がついたのは・・・フレミング・ラスムッセンである。

「1月下旬にLAからラーズが電話をかけてきて、こう言っていたんだ。「ダメだ。全然うまく行ってない!」彼らはアルバムをレコーディングするだけならできると思っていたようだが・・・パーだ!「曲は全曲ある。アルバムにしないといけないんだ!」彼らはそう言っていた。ラーズが電話してきた時、彼らはまだコイツができてない、全部クソみたいなサウンドだと思っていた。それで私はこうさ。「すぐにそっちに行こうか?」実際に可能だったからね、14日後には。もし全ての週末を犠牲にして、私がすでにやったことを他の誰かにやらせればの話だけど。そしたらラーズはこう言ったよ。「最高だ、契約書をそっちに送るよ!」」

フレミングがワン・オン・ワン・スタジオに到着したのは2月中旬だった。航空機のエンジントラブルのせいで夜遅くの到着だった。

「そこで私は全ての曲をもぎとって、私が望むように一緒にして戻したんだ。」

フレミングが語るところによると、彼はバンドメンバーと同じように、メタリカが初めてコンサートを行った(そして、そこから彼らは新しいツアーを始めることになる)いくつかのクラブの近く、サンセット大通りすぐのところのアパートに移った。

レコーディングは午前10時か11時に始まり、「俺たちはもう構わないよ」というところまで行われたとラスムッセンは語る。そして、ワン・オン・ワン・スタジオにいた3ヶ月のうち3日しか休みがなかったという。その3日はバンドがマスコミ用の撮影をしていた日だった。

『...And Justice For All』と題されたこのアルバムのレコーディングでメタリカが抱えていた問題は、盗まれたアンプが奏でていた素晴らしいギターサウンドを探すというジェイムズのおなじみの問題だった。

「クリックトラックは時間がかかったよ。」フレミングは慎重にそれが「ドラマー」であることをほのめかして、そうコメントした。「でもラーズは初めて会った時よりも百万倍良くなっていたよ。当時、私はこう思ったんだ。「あちゃー、彼は一体どこでドラムを学んだんだ?」ってね。でも私はこうも思った。彼は自分の限界を知っていると。彼は四六時中、限界を押し広げようと努めていた。あれはとても合理的だと思ったよ。4ヶ月もスタジオにいたわけだからね・・・それは4ヶ月の集中トレーニングみたいなものだ。そりゃあ良くもなるだろう。」

ドラムトラックに多くの時間がかかり、すぐに終わると思われた、すでに形になっていた9曲のレコーディングは、この年の最初の5ヶ月を費やすことになった。アルバムのミキシングを除いて。

フレミング・ラスムッセンはこう説明する。「メタリカのアルバムにこれだけ時間がかかった理由のひとつは、彼らの熱望した水準が音楽的に彼らが提供できるものよりも純粋にもっと高いところにあったからだ。小分けのパートにしていかなければならないんで時間がかかるんだよ。」

「小分けのパート」に取り組むなかで、ラスムッセンがアルバムに入るドラムの多重録音のひとつをこなすことさえあった。

「そうなんだ。ラーズが打てなかったジャスティスアルバムのドラムのひとつを実際に私が叩いてレコーディングしたんだ。あれは彼を相当怒らせたね。ひとつだけビートに欠けるドラムがあってね。残りは超クールだったんだが。そこで我々は余分なトラックを作って、そこに入れたんだ!ラーズは何回も挑戦していたけど、うまくできなかった。だから私は言ったんだ。「あぁもう、ボタンを押すだけだろ、そっちに行って私がやる!」そうして(レコーディングルームの)中に入って一気にやってしまったんだ。彼は怒っていたよ。プライドの問題だった。持ち合わせていなければならないものだけどね。」

ラーズとジェイムズはニューアルバムを誇りに思っていた。夏のツアーのオフ日は全てアルバムのリリースのために押さえられた。ラーズとジェイムズの2人はミキシングの進捗をチェックするためにニューヨークのベアズヴィル(Bearsville)まで出向いていた。

一般的に、新しいメタリカのアルバムを聴いてすぐの印象は、曲から曲、テンポの変化からテンポの変化と新しい素晴らしいリフが行き交う確たる魅力がある。1曲目とタイトルトラックのような曲は、実にこのアルバムがどんなものであるかを要約してくれている。ドラマチックで、シャープで、ハードで、素晴らしいリフ、目まぐるしく変わるテンポ、素晴らしいツインギター。そしてヘヴィで、ソリッドで、メタルでありながら、壮大で、プログレッシヴで、きらびやかだ。

『...And Justice For All』は耳だけでなくその他の感覚への挑戦であることがわかった。メタリカは叙情的に辛辣な社会批判をしている。アルバムで最もアップテンポな曲のひとつである「The Shortest Straw」の主題が(50年代のマッカーシーによる赤狩りを引き合いに出した)さまざまな人への嫌疑追求である一方、前述のタイトルトラックでは司法の汚職と腐敗が主軸となった。同様に「Eye of the Beholder」は、この数年前に(映画『エイリアン』でのSFデザインの仕事で知られる)H・R・ギーガーによるペニスの肖像を描いたポスターを含むアルバム『Frankenchrist』を通じて未成年者に有害な画像をみせたと告発されたサンフランシスコのパンクバンド、デッド・ケネディーズのシンガーで風刺家で社会評論家でもあるジェロ・ビアフラの裁判を取り上げて前述した2つのテーマを共生させている。

それからアルバムのなかで最もエモーショナルな曲「One」は、おそらくアルバムのなかで最も洗練された歌詞と音楽であろう。繊細でキャッチーでパワフルで「Fade to Black」「Welcome Home (Sanitarium)」の系譜を行くバンド自身が築いてきたパワーバラードの形を見事に発展させている。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/11/

「The Shortest Straw」の題材となったマッカーシズムについてはこちらを参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E7%8B%A9%E3%82%8A

マッカーシズムがハリウッドに与えた影響を題材にした『真実の瞬間(とき)』というタイトルの映画があるのは何かの偶然でしょうか?ちなみに「Eye of the Beholder」のインスピレーションになったという、裁判で争われた『Frankenchrist』のアートワーク。興味ある方は「frankenchrist poster」で検索してみてください(^^;


英訳が完結していないので続きを知ることができないのが本当に残念ですが、翻訳を通じて異様に詳しいラーズの生い立ちなど新しく知ったことがたくさんあり、読んでいて楽しかったです。ラーズが掲げたメタリカという旗印のもとにメンバーやさまざまな人たちが出会い集っていった過程が胸熱でした。英訳してくれた有志の方に感謝です。

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