ラーズ・ウルリッヒ伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の続き、第4章完結編です。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回はメタリカの活躍を支えることとなるQプライムとの出会いについて。(読み方がわからない地名等はアルファベット表記のままにしています。)

エレクトラ・レコードとの交渉に先立ち、ラーズとバンドは自分たちのキャリアの中で重要な仲間と関わっていた。夏の間、ラーズの友人であり『Kerrang!』の記者でもあるシャビエル・ラッセルは、ラーズにあのピーター・メンチがラーズとバンドに連絡を取りたがっているとロンドンで知らせていた。このピーター・メンチという男はQプライムのロンドン支社長だとわかった。メンチと彼の仲間であるニューヨーク本社の代表、クリフ・バーンスタインはある日、ロンドン有数のヘヴィメタル・レコードショップであるシェイズ・レコードに行くと、そこにあったメタリカのTシャツ、ブートレグ、シングルの膨大なセレクションに圧倒されてしまった。2人のマネージャーは『Kill 'Em All』からメタリカを観続けていたが、その巨大な可能性を感じたのはそこからだった。彼らはその可能性を実現しなければならない。一時もそれを疑うことはなかった。

ラーズはピーター・メンチに連絡を取り、クリフ・バーンスタインと共にニュージャージー州で会う約束をした。ローズランドのコンサートまで、メタリカはニュージャージー州にいるジョニーZの友人の家に滞在していたのだ。だからラーズとバンドにとってニュージャージー州ホーボーケンへの小旅行はとても容易いことだった。ここはフランク・シナトラが最初にスターダムの夢を見た地区であり、今この小さな、グレーのあごひげをたくわえた、機を見るに敏なクリフ・バーンスタインとの会合後にメタリカが自らを方向付けることとなる地区でもあった。

ラーズは、バーンスタインがNWOBHMのお気に入りバンド、デフ・レパードのマネージャーであったのに、大富豪の住む郊外ではなく「たわいのないスラム街」に住んでいることに驚いた。しかし、バーンスタインの家はQプライムとメタリカとの間の交渉をさらに進める決定要因ではなかった。決定的な要因は彼らとの間にケミストリーがあり、戦略的なビジョンにおいて双方とも合意したことだった。しかし、メタリカが正式なコラボレーションを始める前、つまり、新しいもっと実入りの良いレコード契約へとジャンプする前に、ジョニーZおよびクレイズド・マネージメントとメタリカとのレコード契約上の法的な決着をつけなければならなかった。

ラーズ・ウルリッヒはこう説明する。「俺たちはメガフォースとジョニーZに契約で縛られていたから、ちょっと複雑になっていたんだ。俺たちは自由契約じゃなかった。他の契約を得る前に、契約外になっていたんで、84年秋の数ヶ月は俺たちはグレーゾーンにいたんだ。Qプライムがそんな状態を手助けしてくれたんだけど、ジョニーZとの契約が終わる前に俺たちのマネージャーとしては動けなかった。俺たちもポリグラムとか他の興味を持ち始めたレーベルと話をしていた。当時のアメリカあるあるだね。誰かが興味を持つとすぐに、他のところ全部も興味を持つんだ。彼らは他のヤツらが興味を持ったってだけで興味を持つんだよ!」

最終的にジョニーZはさまざまな契約によって「買収」され、エレクトラとの契約にサインをした。すでに売れ行き好調の『Ride The Lightning』は新しい会社によって再リリースできるようになった。メタリカもマンハッタン7番街にあるQプライムの公式クライアントとなった。

Qプライムは、すでに経験豊富なマネージャーであったクリフ・バーンスタインとピーター・メンチがパートナーとして、これより2年前に設立された。2人はロック革命期の60年代を10代として過ごし、今や専門的なマネージメントを行っている、ただの音楽ファンであった。しかし、バーンスタインとメンチは高学歴な人物でもある。バーンスタインはペンシルベニア大学で経済学と人口統計学の学位で卒業していた。そして1973年、ニューヨークのレコード会社、マーキュリーで自らのキャリアをスタートさせた。その後、1980年にコンテンポラリー・コミュニケーションズに入社し、ピーター・メンチと出会ったのだ。ピーター・メンチはシカゴ大学で都市研究とマーケティングの学位を持っていた。コンテンポラリー・コミュニケーションズに入る前、メンチはエアロスミスのツアー中の会計士として、1979年のAC/DCのあの『Highway To Hell』ツアーではマネージャーとして働いていた。2人とも同社を1982年に退社し、自らのマネージメント会社、Qプライムを始めたのである。

スタートから、QプライムはAC/DCとデフ・レパードというハードロックのビッグネームを抱えて安定し、それから1984年、高い見識と忍耐で構築されたであろうメタリカと契約した。(契約に際して)とりわけラーズの耳に響いたことのひとつは『Ride The Lightning』の販売促進のためにメタリカにツアーをたくさんやってもらおうという彼らの考えだった。Qプライムのボスたちは、MTVでビデオを流しまくるという80年代のポップ/ロックネームたちがやってきたように成功要因を増やす道へアクセスするためだけに、急ごしらえのヒット曲を強いたり、ビデオ出演を課したりはしたくないと思っていたのだ。

そう、メタリカのワールド・ツアーだ。それはQプライムが望んだことだったし、ラーズとメタリカが望んだことでもあった。既に強烈な売上げとなっていた『Ride The Lightning』、そしてメタリカについたエレクトラとQプライムにより、彼らは最大の楽しみであった、もっと良いホテルでのシングルルームという望みさえ叶った。彼らはまずヨーロッパに焦点を当てた。ヨーロッパには後に「スラッシュメタル」と分類される新しいヘヴィメタルに対する観衆がいたのだ。12月11日、ラーズは故郷で初めてのコンサートを行った。1年前に『Kill 'Em All』がリリースされた後、ケン・アンソニーはもう一度エリック・トムセンに話そうとしたが、このデンマークの大手ヘヴィメタル・プロモーターはメタリカにはまだ二の足を踏んでいた。

「俺はレコードを送ってまでして、エリックと連絡を取って言ったんだ。「今、アンタが聴いているのすげぇだろ、ビッグになりそうだろ!」そしたら彼はただこう答えたよ。「黙れ。なんだこの生半可パンクは!?」ってね。」

それでもなお、トムセンは経過を見ていた。1年後、彼はメタリカが初めてデンマークで行うショーのブッキングを担当した。

「あれからメタリカを信じるようになった。」エリック・トムセンはそう語る。「だから私は最近ブライアン・アダムスが218人の観客でコンサートを行った500人収容のSaltlageretじゃなく、約1300人収容のSagaをメタリカのデンマーク初のコンサート会場として押さえたんだ。」

コペンハーゲンのホヴェドガールドの近く、ヴェスター通りに面したSaga旧映画館はトムセンによって建てられ、別名ETプロモーションのコンサートで、少しオールドスクールなヘヴィメタルたち、アクセプト、サクソン、そしてスコーピオンズといった多くのバンドが使っていた。トムセンは正しかった。まさに正解だ。当時のメタリカの周りのメディアの盛り上がり不足もあって、メタリカのコンサートのチケットがほぼ売り切れたことは本当に驚くべきことだった。全てがアンダーグラウンドの世界で起きたことだった。文字どおり、ヘヴィメタルファンたちがケン・アンソニーのレコード店のアンダーグラウンド(地下フロア)でそのニュースを知ったのだ。

注目すべき例外はあった。最も優秀な類のジャズとロック愛好家向けのまともで信頼性の高い月刊誌『MM』が1984年12月号でラーズ・ウルリッヒのインタビューを掲載していたのだ。「ライトニングはエネルギーを乗せてやってくる」と題されたインタビューはかろうじて1ページを埋めていた。最初に目を引いたのは−そのタイトルと共に−写真だった。(訳注:コペンハーゲンにある)ノアポート駅に降り立ち、革ジャケットとタイガーズ・オブ・パンタンのTシャツを着て、スポーツマンらしい人懐っこい笑顔を浮かべた若きデンマークの少年がそこにいた。それは2つのメタリカのアルバムで見たものとは全く違っていた。それぞれ、薄い口ひげをした粗野な若者(『Kill 'Em All』)、ドラムの後ろにいるワイルドな男(『Ride The Lightning』)だったのだから。

インタビューで、ラーズはバンドの成り立ち、テニスのこと、「スラッシュメタル」という狭いサブジャンルの決まりごと、そしてバンドの新しいメジャーレーベルとの契約について詳しく語っている。Sagaで行われる予定のコンサートについても言及した。それにはちゃんとしたわけがあった。ヘレルプの大のメタルファンが初めて自分の故郷でパフォーマンスをするなんてことはこれまでなかったのだ。

Sagaでのコンサートはユニークで強烈な事件だった。「Fight Fire With Fire」のアコースティックのイントロがショーの進行中に流れるとそこからすぐに長いお楽しみが始まった。その夜の大きな衝撃となったのはクリフが『Kill 'Em All』収録の「Anesthesia (Pulling Teeth)」として知られるベース・ソロを弾いた時だ。筆者も他の多くの人も他のヘヴィメタルバンドのギター・ソロ同様、ギター・ソロだと思い、まさかリード・ベース・ソロだとは思わなかった。しかしメタリカは他のバンドとは違った。クリフ・バートンは確かに他のベーシストとは違った。ベース・ソロ、これ以上何を言おうというのか。

コンサートの数時間後、ヴェスターブロのエリアは、素晴らしいコンサートに押し寄せたヘヴィメタルのファンのアフター・パーティーで大いに盛り上がった。全員長髪でブルーのジャケットや服をまとった人々の中で、この暗くも夜には明るいコペンハーゲンで、何か新しい歴史的なことを体験できたという感覚が漂っていた。爽やかなラーズと、少しシャイで笑顔のカークは、そこではもはやロックスターではなかった。イステゲーゼを歩き、自分でホット・チョコレートとホットドッグを調達したのだ。

1984年12月11日は、メタリカが勝利の寿司を、アルコホリカが勝利の日本酒を味わう前のことだった。来日前の2年弱は、バンドの生存に関する決定的で不変のポイントとなっていくのである。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/10/

PeterMensch-CliffBurnstein
ピーター・メンチ(左)とクリフ・バーンスタイン(右)

『MM』誌に掲載された爽やかなラーズの写真、ネット上にないか探してみましたが残念ながら探し切れませんでした(苦笑)

2011年に書かれたものですが、クリフ・バーンスタインが為替変動の影響がツアー日程にどう影響するかについて語っている非常に興味深い記事をみつけました。彼らの仕事のひとつとしてご参考までに。
http://jp.wsj.com/layout/set/article/content/view/full/355982

私事でドタバタ続きのため、この伝記本翻訳はしばらくお休みします。再開までお待ちください。

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