引き続き『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第4章3回目。(前回までのお話は関連記事にてどうぞ。)有志英訳を管理人拙訳にて。今回は『Ride The Lightning』のレコーディングについての話が中心です。

metallica-on-tour-1984

思いつきの一時的な郊外でのアパート住まいではあったが、メタリカが2ndアルバム『Ride The Lightning』をレコーディングした時にたまたま住むこととなったブレンビュベスター地区という場所に、我々は実際に明らかな歴史的特色を見ることができる。60年代初め、ミドルクラスの郊外は活況となり、多くの家庭が郊外に移り住んだ。そのようなどこにでもある活気づいた郊外でコンクリートのビルと一戸建ての住居だけでなく、ロック史における魅惑的な展開があったのである。

1965年、ラーズ・ウルリッヒが初めて本当に好きなバンドとなったディープ・パープルが、コペンハーゲンひいてはヨーロッパの現代ポップ・ミュージックにおける有数の拠点であるKirkebjerg通りから数キロ離れたブレンビュー・ポップ・クラブでコンサート・デビューを果たした。その当時、バンドはラウンドアバウトと呼ばれていたが、ラーズの初めてのスーパーヒーローとなったイアン・ペイス、リッチー・ブラックモアがメンバーにいたのだ。同じ場所でレッド・ツェッペリンもデビューしている。(1968年にニュー・ヤードバーズの後身として登場し、アルバム毎に段階的な進化を遂げてきたバンドとして、後にメタリカとよく比較されることになる。)メタリカの一時的な住まいの角を曲がったところにブレンビュー・ホールがあった。若きファンとしてのラーズが昔からのお気に入りであるディープ・パープルとレインボーを観てきた場所であり、アイアン・メイデンがデンマークにブレイクスルーをもたらした場所でもあった。

だが、メタリカの創造的な進展が起きたのはアマー島だった。一部はStrandlods通りのスタジオで、また一部はメタリカのインスピレーションとなったマーシフル・フェイトや新しい若きメタルバンド、アーティレリーと共有していたスタジオ施設の向かいにあったリハーサル室で。メタリカはこの部屋を使って、アルバムのレコーディング前に曲を書き、仕上げていった(実際にそのリハーサル室で作られたバラード曲「Fade To Black」のアレンジを含む)。

しかしながら、メタリカがリハーサル室に行っていた時、マーシフル・フェイトはツアーで離れていた。その代わり、アーティレリーがメタリカを迎えることとなったのである。彼らはその当時、ヨーロッパで最も革新的なメタルバンドのひとつであり、革新・パワー・アグレッションにおいてメタリカと多くの点で合致していた。

メタリカがリハーサル室の前を初めて通りがかった時、トストルプ(ブレンビュベスターの西部)の今どきの少年たちはリハーサルに忙しかった。アーティレリーのリードギタリスト、マイケル・ステュッツァー・ハンセンはこう振り返る。

「彼らは静かに座って、俺たちのジャムを最後まで聴いていた。「さぁ、続けて続けて!」彼らはそう言っていた。信じられないくらい堅実でとてもポジティヴだった。彼らは音楽に対して本当に何か感じるものがあったんだ。俺たちのものでさえね。」


マイケルはラーズの熱意、そしてデンマークのメタルシーンに関する知識について覚えている。「彼はデンマークのヘヴィメタルバンド全てをチェックしていて、Maltese Falcon(※1)とEvil(※2)ってバンドについて詳しく語っていたよ。どんなバンドも知っているんだ。82年以来リリースしてこなかった俺たちの『We Are The Dead』のデモテープのことまでラーズは知っていたからね!ラーズは俺たちのことをサクソンをファストにしたサウンドだと思っていた。」マイケルはそう付け加えた。

ラーズとメタリカは70年代あるいはNWOBHMのヨーロッパのメタルサウンドをとりわけ好んでいた。そして今、バンドはヨーロッパで新しきヨーロッパのヘヴィメタルバンドと共にいる。さらには、メタリカが必要であれば、リハーサル室も機材もアンプも使える準備もできている。そして、メタリカが『Ride The Lightning』をレコーディングしている間、(アルバムのために)作曲を必要としているという理由だけではなく、作曲をしばしば行っていた。

(後にキャンセルとなった)ボストンにあるチャンネルクラブでの1月のショーの前に、バンドは盗難にあった。盗まれたものの中にはラーズのドラムキットやジェイムズが『Kill 'Em All』で使っていた特別なギターが含まれていた。その晩、マサチューセッツ州では強烈な猛吹雪に見舞われており、そんな危険を冒してまで機材は盗まれた。ジェイムズが特に気に入っていたアンプを失ったことは、バンドのレコーディングにとって残された問題となっていた。それは時間、お金、そして終わりのない労力というコストとなっていたのだ。

「アーティレリーとアージ(アージ・ジェンセン音楽店)からさまざまなアンプを借りなければならなかったし、それらを試すのには時間がかかったよ。7つぐらい違うマーシャルアンプがそこにはあった。」フレミング・ラスムッセンはそう振り返る。彼はラーズの(新しい)ドラムをスタジオの中の広くて何もない奥の部屋に置いていた。

「ガツンとくるサウンドを得るためにね。」フレミングはそう説明する。「ラーズはちょっと訝しんでいたけど、私はレインボーのレコードもそういう風にしていたから。」

ガツンとくるサウンドは『Ride The Lightning』の至るところで響いていた。メタリカがクリスマス前に書き上げた最初の4曲のデモは大部分のファンの心をすぐにとらえた。そう、「Fight Fire With Fire」は『Kill 'Em All』の収録曲に速度と重さの両輪を合わせた圧倒的なスピードと重量感だ。タイトルトラックの「Ride The Lightning」もそうだ。そしてインストゥルメンタルの長編曲「When Hell Freezes Over」(後に「The Call Of Ktulu」と改題。)はミドルテンポでしっかり構築されていた。最後は、最初の4曲の中でも後にバンドの定番曲となる「Creeping Death」だ。しかし最も保守的なファンたちは恐れるべきものをそこに見た。メタリカはバラードもレコーディングしていた。「Fade To Black」である。

ラーズは新しいメタリカがどこに行こうとしているのかハッキリ分かっていた。

「俺はあの音楽的変化は、それ自身とても妥当だったと思ってる。計画されたものじゃない。」ラーズはその当時、新曲についてそう考えていた。(K.J.ドートン著『Metallica Unbound: The Unofficial Biography』(1993年刊行)より)

「『Kill 'Em All』全曲ほとんどは1982年の春に作られた。俺たちが音楽的にやってることは下手くそだった。それからたくさん学んできたんだ。そして俺たちは作詞作曲、ハーモニー、その他もろもろについて、以前の2人のメンバーよりもよく知っている2人がバンドに加入した。」

ラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカはすぐに自分たちの音楽について、とても気にするようになった。したがってフレミングがプロデューサーだけでなくサウンド・エンジニアとして、監修する以上にバンドを手助けできたことは重要だった。

フレミング・ラスムッセン「彼らは音楽的にどこに行きたいのか、クレイジーでハッキリとした感覚を持っていた。彼らがやったことは実に新しいものだったんだ。それまでそのジャンルでは誰もやったことはなかった。少なくとも同じだけヘヴィにはね。彼らは「音楽プロデューサー」がやってきて、コントロールされすぎるということを恐れていたんだと思う。」

フレミングはそうではなかった。彼はすぐにグループの5番目のメンバーとなり、監修者としてよく働き、スタジオにいるメタリカの4人のエネルギーによって、よりいっそうワイルドになった。

「スタジオの他の人が彼らの楽曲を聴くと、彼らはこれまで聴いてきた中で最悪で最も酷いノイズだと思っていた。我々はただ駆けずり回り、手をとめることはできなかった。単純にめちゃくちゃクールだと思っていたからね!(笑)「こいつはクソだな、おい!」とみんなは言ったが、「こいつは最高だ」と私は言っていたよ。」

『Ride The Lightning』のレコーディングは、フレミングがハッキリとメタリカと出会った日から数週間を共にした日々を覚えている通り、5歳年下のラーズとの長い交遊の始まりでもあった。

「彼は全速力で走るただの子供だった。我々が一緒にすごいことをやっていると気づくのにそれほど時間はかからなかった。効果的なリズムと言葉をみつけて、本当にただ前進したんだ。」フレミングはそう語る。彼はラーズの自己認識や壮大な野望、ラーズが実際にできることと、まだできないこと、その間をどうバランスをとっていくのかもわかったのだ。

「彼は学ぶことに間違いなく興奮していたよ。でも他のドラマーの音を聴いて、彼らが演奏したものについてよく考えていたのも明白だった。彼はフィルインとかそういうことに関しては最高によかった。でもフィルインとそれ以外の間でテンポを保つことは・・・彼は全くうまくいってなかったね。」フレミングはそう言って忌憚なく笑う。

「彼は「For Whom The Bell Tolls」をクリックに合わせて叩いたんだ。最初は彼にとって本当に難しかったんだよ。彼はそんなことを以前に全くやったことなかったからね。まぁあの曲は本当に難しいってこともあるけど。」フレミングはそう補足した。彼は、どうあってもラーズを使いこなすというもうひとつの素晴らしい能力も備えていたのである。フレミング・ラスムッセン自身、昔はドラマーだったのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

文中に出てきたデンマークのバンドについてはこちらを参照。

※1:Maltese Falcon
http://www.metal-archives.com/bands/Maltese_Falcon/1597

※2:Evil
http://www.metal-archives.com/bands/Evil/5242

さすがにデンマーク語で書かれた伝記本だけあってデンマークに関するメタリカスポットは異常に詳しく描かれています。次回はレコード契約がらみの話です。続きはいましばらくお待ちください。

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