元アンスラックス、ニュークリア・アソルト、S.O.D.、そして現在はブルータル・トゥルースで再び活動中のダン・リルカが最近のインタビューでメタリカについて語っていたのでご紹介します。

dan-lilker

(前略)

−80年代を振り返って、クリフ・バートンが亡くなった時、あなたはクリフに似たベースの音をさせていたので、ひょっとしたらあなたがバンドに加わるのはいい選択肢かもといつも思ってました。メタリカがクリフ・バートンの後任のベーシストを試していた、あの当時にそんなことが頭をよぎることはありましたか?

ダン・リルカ
「あぁそうだね。俺はその頃CBGB(訳注:ニューヨーク市マンハッタン区にあるライブハウス)でハードコアの昼興行をたくさんやってた頃だったから、他の人たちもそんなことを思っていたようだった。俺のところにやってきてはウインクして言うのさ。「それでダンはメタリカに加入するのか?」ってね。でも全くお呼びはかからなかったよ。」

「(メタリカに加入したとして)俺が持ちこたえられたかどうかなんて誰もわからない。でも、2人の男が全てのお金を儲け、他のみんなは給料を貰い、彼らは何をやりたいのかをキッチリ指示するそんなバンドさ。そしてクリフが死んでジェイソンが加入した後に出た最初のメタリカのアルバムが『…And Justice For All』さ。そこにはベースが全くなかった。」

「俺はわからない。(メタリカに加入していたとして)俺が創造的にハッピーだったかどうかはわからないね。つまり俺がいたほとんどのバンドでは、俺がメインのソングライターだったし、音楽の方向性を指揮していた。でも、『…And Justice For All』で何が起こったのかわかる機会を得ることは決してなかった。」

−驚きました。80年代初頭にメタリカが(ニューヨークの)クイーンズ区にやってきてアンスラックスと出会って以来、メタリカのメンバーとは親しかったのではありませんか?

ダン・リルカ
「あぁ。でもそれはクリフの死の約3年前のことだ。もちろん彼らはいまでも友だちやら何やらであることは間違いない。俺はずいぶん彼らとは会っていなかったんだ。その時までにSODはもう終わっていて、ほとんどニュークリア・アソルトについてのことをしていたからね。」

−試すべき考えうるベーシストとしてあなたの名前が挙がっているものだと思っていました。

ダン・リルカ
「きっと他の人たちの中に自分の名前も挙がっていたかもしれないね。きっと最終候補者リストか何かに入っていたかも。でも言うまでもなく何も起きなかったってことさ。」

1986年9月27日に起きたツアー中のバス事故によるクリフ・バートンの悲劇的な死からまもなく、メタリカは新しいベーシストとバンドを続けるという決断を下した。生き残ったメンバーは空いたポジションをさまざまな候補者で試した。リルカが説明するように、彼はその候補者のひとりではなかった。しかしオンラインのレポートによると、クリフに続く何人かの名高いベーシストを試し、結局ジェイソン・ニューステッドが選ばれた。プライマスのレス・クレイプール、テスタメントのグレッグ・クリスチャン、ニューステッドがメタリカに加わり、去ることになったバンド(フロットサム・アンド・ジェットサム)の後任者となるトロイ・グレゴリーを含む候補者の中から。

−クリフとは友だちだったんですか?

ダン・リルカ
「あぁ。クリフは本当にクールなヤツだった。彼は他のヤツらよりもハッパをよく吸っていた。俺たちはそれを通じて同志になった。彼は本当に地に足の着いたヤツだった。小さな町出身だったから、本当にクールだったし、パーティー好きでほろ酔いしてたヤツだった。(バス事故について)起きたことを聞いた時はかなり押しつぶされそうなほどショックだったよ。」

(後略)

Songfacts(2014-11-06)

外からメタリカがどう見られていたかの一端を垣間見るインタビューでした。

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