ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章完結編。有志英訳を管理人拙訳にて。前回予告どおり、デイヴ・ムステインの解雇、カーク・ハメットのメタリカ加入、そして『Kill 'Em All』のリリースまで。

- レコード契約(後編) -

言い伝えによれば、ジョニーZはすぐに店を飛び出し、電話ボックスをみつけて、この明らかに(どこのレコード会社の契約)サインのないバンドを探し始めた。さらに言い伝えによると、ジョニーZはそれからメタリカに興味を示していることを昔からの仲間でありファンジン編集者のロン・クインターナに伝えたという。ロンは、メタリマンションにいたラーズとバンドにその情報を提供した。そこにはギタリスト、マイケル・シェンカーのクールなポスターはあったが、ひとつの電話もなかったのだ。すばらしいことだが、メタリカの経歴の最も重要なこの部分のあまりにドラマ仕立てにされた説明でもある。少なくともラーズ・ウルリッヒはジョニーZが自分を造作もなく見つけたと振り返る。

「俺たちはメタリマンションで電話を持っていた。でも電話代を払っていなかった期間だったかもしれないね(笑)通常、電話を持っていた時には、俺たちまでたどり着くのはそんなに不可能なことではなかった。」ラーズはそう語り、自分の考えるレコード契約への道のりについて続けて語る。

「ジョニーZが電話してきた時、彼は2つのことに本当に熱心になっていた。(1つは)俺たちに東海岸でコンサートをさせたがっていた。そして、俺たちに東海岸でレコードを作らせたがっていた。俺たちはちょっとした旅行の準備くらいメチャクチャできていた。さらに俺たちが興味を持ったのは、彼の働きかけでヴェノムが4月にニューヨークでライヴをすることになりそうだってことだった。俺たちはヴェノムの大ファンだったからね。その当時俺たちはテープのトレードがうまくいきだして、東海岸からのファンメールも届き始めていた。だから俺たちはそこで始まろうとしていることにもう夢中になったよ。それにジョニーZは面白そうな人だったしね。俺たちがつかんだチャンスだった。俺たちは契約も何もなかったから。」

メタリカにはお金はなかったが、大きな野心があった。『No Life Til Leather』が好評だったことと、とりわけジョニーZが野心を植えつけてくれたおかげで。選択肢はもはや明白だった。4月1日、バンドはUホールで車を借りて、アメリカ大陸の向こう側、もっと具体的に言えば、エルセリートのメタリマンションから4,726キロ離れたクイーンズにあるミュージック・ビルディングに向かった。

ラーズ・ウルリッヒ「ジョニーZはいくらかお金を送ってくれた。ほんの少しのお金だったけど、Uホールで車を借りて自分たちの持ち物を突っ込むには充分だった。バンの後ろはたぶん5から6フィート(訳注:1.5〜1.8メートル)くらいあったかな。そこに自分たちの機材、スーツケース、安いマットレスを入れたんだ。全然豪華じゃなかったよ。ジェイムズとデイヴが前に座って運転して、クリフとマーク・ウィテカーと俺が後ろのマットレスの上でマーシャル・アンプとか俺のドラムセットに囲まれて、横になったり寝たりしていた。俺たちが出入りできたのは、誰かが後部ドアを開けた時だけだ。運転中、12時間暗闇の中で過ごした。唯一の明かりはクリフのライターだけだったね。そんな感じでサンフランシスコからニューヨークまでちょっと刺激的でハッピーな数日があったんだ。」

ジェイムズ、ラーズ、クリフ、マークがバンドのトラブルメーカーにうんざりする日もあった。デイヴ・ムステインは自分が運転しなければならない時でさえ、かなり酔っ払っていた。酔っていると、雪だまりにバンを突っ込んだり、マークにケンカをふっかける時さえあった。

ラーズ「西海岸から東海岸への旅で俺たちはデイヴ・ムステインの邪悪な面を見た。彼はあまりに予測不能で、あまりに飲酒その他もろもろ羽目を外しすぎたんで、おそらくそこで俺たちが決めたんだと思う。ジョニーZに会ったその日に、たしか俺はジョニーに、バンドあるいはバンドのうちたった一人のメンバーが東海岸に戻る交通費を払ってもらわないといけないと伝えなければならなかった。俺たちはデイヴをクビにしなくちゃいけないかもと考えていたからね。」

もうひとつの「実務上の問題」もあった。ザズーラ夫妻は既に彼らの2人の子どもと共にいくつかのバンドにスペースを占有されていた。メタリカはミュージック・ビルディングに引越し、地元ニューヨークのバンド、アンスラックスとリハーサル室を共有した。彼らとメタリカはすぐに友だちになった。アンスラックスはこの貧乏なメタルバンドをヒーター、冷蔵庫、ある時は少しの食べ物によって手助けした。ミュージック・ビルディングの地区に出回っていた麻薬はバンドにとって大きな関心を寄せるものにはならなかった。

彼らのヘヴィメタルの野心は、明らかに低予算の宿泊施設に基づいていた。特にヘレルプとその他の世界に慣れていた若者にとっては。しかしミュージック・ビルディングの半ば哀れな生活はラーズと今や有望株の彼のバンドにとって最も差し迫った問題ではなかった。日曜の夜、ヴァンデンバーグとザ・ロッズのサポートで行われたバンドのショーの後、バンドにおけるムステインの将来はもはや論議することではなくなった。手に負えないデイヴを追い払わなければならなかったのだ。しかしそれを誰が彼に告げるのか?次の日の朝、バンドはジェイムズをその役に選んだ。ジェイムズは寝ているデイヴの肩をつつき、手厳しい言葉で起こした。「俺たちは決めたんだ・・・おまえはもうこのバンドの人間じゃない!」西に向かうグレイハウンズの始発バスが出発する2時間前だった。長い別れへの理由は何もなかった。彼らは全員先へ進んだのだ。

ラーズはこの悲しくも必要だったエピソードについて説明する。「時おり彼はちょっと羽目を外すことがあった。(そんな状態で)彼が予測もできなかったことに直面したらどうなっちまうんだろう?ってね。それで俺たちは彼を早朝に起こして、サンフランシスコ行きのグレイハウンドのバスにできるだけ早く乗せた方がいいと決めたんだ。彼が何が起きようとしているのか完全に理解する前にね。それで彼はバンドから放り出されて、4時間のフライトの代わりにあの忌まわしいバスで3日間不機嫌に過ごさなければならなかった。でも当時、俺たちには(航空)チケットを買うお金がなかったんだ。俺はデイヴと一番仲が良かったし、おそらく彼と一番緊密な友情関係があったと思う。だから俺にとって彼にそんなことを告げるのはあまりに難しいことだと思っていた。クリフはまだ新メンバーでバンドに来て5、6週間しか経っていなかった。だから俺たちが言わなくちゃいけないことを言う資格はなかった。そうしてジェイムズが担当者として選ばれた。でも俺たちはみんなジェイムズと一緒にいたんだ。ジェイムズ一人でやることじゃないからね。」

しかしながら、ラーズ、ジェイムズ、クリフ、そしてマークにとって悲しい状況だった。とりわけ、その経験と紛れもないギターの才能によって確かな成果をバンドに持ち込んでくれたデイヴと1年以上過ごしたラーズとジェイムズにとっては。創造性とユーモアで満たされたギャングな日々はそう多くなかった。全員マンハッタンの観光に行き、変わっていったメンバー編成のなかでも飲み続けていた物、ウォッカを飲んで酔っ払った。

しかしメタリカは運を持っていた。タイミングが良かったのだ。バンドが優先したギタリストの選択肢、カーク・ハメットはチャンスをつかむ準備ができていた。エクソダスにいた彼の人生も悪くなかったが、メタリカと共にアルバムをレコーディングするためニューヨークに飛ぶことを考えた彼は完璧なキャリアアップを果たした。カークはデイヴが去った同じ日の夜に到着した。ミュージック・ビルディングで行われたカークのオーディションはほとんど形式的なものだった。これより数週間前にラーズとジェイムズはカークが『No Life Til Leather』デモを手にできるよう適切に手配した。彼らはカークの特質や音楽の好み、そしてギター・プレイはメタリカの相性や展望によく合っていると確信していた。そして彼らは正しかった。

「カークは彼のギターとマーシャルのアンプと共にやってきた。デイヴを追い出した日と同じ日に彼とジャム・セッションをしたんだ。俺たちがやった最初の曲は「Seek And Destroy」だった。ソロの途中でジェイムズと俺は互いを見て同時にうなずいたよ。そうやって(オーディションが)行われたのさ。俺たちがムステインを追い出した時、カークはバンドにいなかった。彼は間違いなく最初の選択肢だったんだ。俺たちはそれがうまくいくとかなり自信を持っていたよ。でも月曜日の夜のジャム以前は彼はバンドにいなかった。そこで俺たちは互いに親指を立てて(OKサインを出して)彼にバンドに加わるか尋ねたんだ。」そうラーズは付け加えた。

カーク・ハメットのジャム・セッションのデビューは最高だった。1週間しないうちに彼はニュージャージー州のドーバーでメタリカとしてのステージ・デビューを果たす。

カークもメンバー編成の中でサンフランシスコ出身だ(カリフォルニア州サンフランシスコ出身1962年11月18日生まれ)。彼は悪名高いヘイトアシュベリー地区でヒッピー生活を送っている年上の親族と共に育った。そしてその期間にジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そしてグレイトフル・デッドのような音楽のビッグネームと出会った。15歳でカークはギターを弾き始め、そこで70年代のシン・リジィ、キッス、UFOのようなハードロックバンドに自らのアイデンティティーを見つけた。後にカークはセックス・ピストルズや暴力的なパンクに夢中になった。しかし同時に名手ジョー・サトリアーニを師にもっていた。そこでカークはメロディー、テクニック、スピード、そして攻撃性のあいだの完璧な共生関係を有効に探すことができた。1981年、カークは初めてのバンド、レジェンド(Legend)を結成する。これは後にエクソダスとなった。

ジェイムズのように、カークは離婚した家庭の生まれだ。カークの父親は飲んだくれだった。そして、しばしばカークとカークの母親を殴っていた。16歳の誕生日、彼が父親からもらったのは尻に大量に見舞われた蹴りだけだった。カークの父はその後すぐに家からいなくなった。そして母親がカークと彼の妹を育てるためにしっかり奮闘しなければならなかった。彼が10歳の時、カークは隣人に性的虐待を受けた。したがってギターを弾くことはカークにとって間違いなく癒しとなった。トラウマとなった全ての体験は彼を攻撃的で激しいヘヴィメタルの上に立つ怒りへと向かわせた。

メタリカは最初のアルバムのための大部分の曲を『No Life Til Leather』の曲に基にして書いていた。ついにミュージック・ビルディングで、来たるべき東海岸でのバンドのギグのためにバンドの曲をたくさんリハーサルする時が来たのだ。一方、ジョニーZはレコーディングに使えるスタジオをみつけた。ジョーイ・ディマイオというジョニーZが担当するニューヨークのバンド、マノウォーのベーシストがジョージ・イーストマンのコダック社でよく知られるカナダ国境近くのニューヨーク州ロチェスターにあるスタジオを薦めてきた。そのスタジオは「ミュージック・アメリカ」と呼ばれるマンハッタンのとても(使用料の)高いスタジオ以外の地元のスタジオよりもさらにずっと安かった。ミュージック・アメリカの2階にある大きなホールはラーズのドラムの音に完璧に合っていた。なぜなら「ラーズは不明瞭なドラムの音を出していた」からだとジョニーZは彼を見ていてそう打ち明けた。

若く熱心なメタルファンがホールでドラムを叩いている間、ジョニーZはニュージャージー州の家に戻って予算に対処するよう頼まれた。ミュージック・アメリカとそのオーナーであり、プロデューサーのポール・カーシオ(に払う金額)はニューヨーク価格からすれば安かったが、全てがそれほど安いわけではなかった。メタリカは5月末まで6週間アルバムをレコーディングした。そしてホームのロック天国で得たレコード売上げから超過金をロチェスターのアルバム制作陣に渡した。ザズーラはこのバンドに本当に一か八か賭けたのだ。しかし、アルバムのセールに関して誤算していた。タレント・スカウトやあらゆる種類のレコード会社にいるA&Rの人々との数え切れないほどのミーティングは何の実りのなく終わった。ジョニーZが身銭を切ってメタリカのアルバムを出さなければならないことが明白となったのだ。

自身のレコード・レーベルの設立は、ジョニーZの膨大な計画においてこれまでやってこなかったところだった。だが、もはや引き返せない。彼は「この1つのアルバムのために」Megaforceを始めたのだ。ジョニーZ、そしてラーズと彼のバンドにとって幸いなことに、Megaforce Recordsは2つの善意あるディストリビューターと接触した。アメリカのRelativityとニュー・ブリティッシュ・ヘヴィメタル会社、Music For Nationsだ。この会社はニューヨークのバンド、ヴァージン・スティールのリリースでその前の年に始まったレーベルだった。しかし前者は、せっかちな若者がロチェスターでエネルギーをぶちまけた後に思いついたアルバムのタイトルに問題を抱えていた。そのタイトルは『Metal Up Your Ass』だ。

最初は仮タイトルだったが、バンドは最終的に選んだタイトルとして、もはや本気になっていた。彼らは断固として譲らなかったが、ラーズと彼のバンド、メタリカに音楽業界の本当の状況について少し学ぶ時が来た。メッセージは明らかだった。どうあってもタイトルを『Metal Up Your Ass』することも、提案された妥協案『M.U.Y.A』やその他頼んでもないのに送りつけられた提案に乗ることもできなかった。怒ったクリフは制約を課してくるディストリビューターに対する感情を露にした。「あいつら全員殺っちまえ・・・とにかく殺っちまえ」

それがタイトルになった。『Kill 'Em All』だ。

『Kill 'Em All』は7月に発売された。ジェイムズ・ヘットフィールドによってデザインされたバンド・ロゴと無検閲の一節「Metal Up Your Ass」とともに。アルバムは9曲から成り(『No Life 'Til Leather』からさらに発展した6曲を含む)、クリフのソリッドなベースソロも収録されていた。リフを基調としたヘヴィメタルの速い曲が次から次へと繰り出され、使える場所があればすぐにテンポの変化や燃えるようなソロが差し込まれ、メタリカがアメリカのシーンから無視されていると感じてきたヘヴィメタルへの愛の大々的な声明を抒情詩調の領域でもって表現していた。

全世界的にラーズとメタリカと同じ意見を持った人々がいた。2週間以内で『Kill Em All』は20,000枚近く売れた。それは独立系レーベルのリリースでは全く聞いたことのない数字だった。

「それまで書いてきた最初の9曲をこのアルバムに使った。次のアルバムでは次にできた9曲を使う。そしてその次も・・・ってね。それがメタリカの世界征服計画なんだ。」とは、ものすごい熱意とものすごく若く陽気な、ほとんど絶え間なくメタリカについて話していそうなラーズの言だ。

ラーズは明らかに正しかった。そのウィットに富んだ「世界征服」という言葉は。そのうち、曲やレコーディング、メディアやレコード会社とのミーティング、リハーサル、スタジオ(数ヶ月、それから数年)、家からの電話やファックス(時おり)、バンクーバーや全世界へのロードにおける、世界征服への戦いはそう容易くはなくなった。

しかし、ラーズは全ての準備ができていた。重要な利点である疲れを知らない献身と固い決心を彼は持っていた。最も重要なのは、彼は1983年夏、ついに完全なバンドを持ったのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

dave-and-kirk
メタリカ時代のデイヴ・ムステインとエクソダス時代のカーク・ハメット

ラーズの認識と裏腹に、カークはこの時点でハッキリと正式メンバーと言われたわけではなかったようで、しばらく自分が正式メンバーなのか助っ人なのかわからなかったそうです(苦笑)

女手ひとつでカークを育てたお母さんとは今年(2014年)2月のFearFestEvilにいらしていてお会いすることができたのですが、非常にパワフルで可愛らしい方で「この方があのカークを生み育てたのかぁ、なるほど。」と妙に納得したのを覚えています。

そしてデイヴ・ムステインの解雇については、スコット・イアンが自叙伝で語っているところがあるので、後日紹介します。

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