ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章4回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカの大きな転機となるバンド拠点の移動とクリフ・バートン加入について。

- ヘヴィメタルへの誓い(後編) -

新しいシンガー加入の代わりに2つのギグが1982年夏後半のメタリカの経歴に大きな影響を与えることになった。1つはハリウッドのクラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われたギグ、もう1つはサンフランシスコのクラブ、「ストーン」で行われた自然と沸き上がったパフォーマンスだ。後者がまず先だった。

「ブライアン・スレイゲルが『Metal Massacre』の宣伝のためにサンフランシスコで3つのバンドを手配した。その『Metal Massacre』参加3バンドのうちの1つ、キリス・ウンゴル(Cirith Ungol)が11時間前に出演をキャンセルしたんだ。」ラーズはそう語る。

「俺たちには何にもなかった。(『Metal Massacre』に参加できたこと自体が)ジョークだったのさ。でもブライアンはショーの1日か2日前に俺たちに電話をかけてきた。彼は俺たちに何をやらせても俺たちがろくに文句も言えないと思っていたのさ。そして彼は「サンフランシスコに行って、ショーを開きたいか?」と言ったんだ。俺たちは言ったよ。「Yes!」ってね。それがいとも簡単に人生が変わる出来事になった。俺たちは2、300人のサンフランシスコのヘヴィメタル・フリークの前に行って演奏をしたんだ。そしたら突然…わぉ!って感じだった。みんな俺たちの演奏する曲を知っているんだよ!バッジ付きのデニム・ジャケットにアイアン・メイデンの黒Tシャツに身を包んだ人たちがいる光景があった。LAのクソみたいなものの代わりにね。当時、グラムなんていうクソみたいなものは全部LA発だったんだ。」

「40分のステージを終えてステージを降りると、人生が変わる体験みたいだった。急遽、俺たちはとにかくサンフランシスコだ!ってなった。こんなレベルの出来事が起きたのは初めてだったから、俺たちは毎月サンフランシスコでギグをブッキングし始めたんだ。」ラーズはかなり浮かれながら当時を振り返った。

そんな驚天動地のコンサートの後、メタリカの初めてのアフターショー・パーティーが始まった。バンドはラーズの車であるライトブラウンのペーサーを運転して、U-ホールで借りた音楽機材と共にロサンゼルスの家まで帰ることに忙しくすることはなくなった。ケースごとビールをかっぱらって、(ライヴ会場の)ストーンから数ブロック離れた小さなホテル、サム・ウォンズ(Sam Wong's)でパーティーを開いた。その日以前にメタリカのメンバーは、開いたビール缶を手に持って歩いていて逮捕されたことがあったため、パーティーは室内で行われた。ホテルではファンがサインをもらって写真を撮り、メタリカは「Young Metal Attack」のTシャツを売った。

さらにストーンで行ったギグはメタリカに好意的なコンサート批評をもたらした。「Northwest Metal」の第2号で、ブライアン・ルーは最初にこう書き出した。「これぞまさしくと言った夜だった!アメリカでAランクの一番ヘヴィなバンド、メタリカはサンフランシスコで暴れまわった。1906年の大地震よりも多くの破壊をもたらした!(中略)彼らの圧倒的な激しさはとてつもない!彼らの狂気によってモーターヘッドとヴェノムの猛烈な狂気を融和させ、バンドはノンストップで速くて超凄まじいヘヴィメタルの曲で観衆をぶちのめした。」

自身の記録帳で、ラーズは熱くなって書き残している。「初めての本当にすごいギグだった。本物のヘッドバンガー、本物のファン、本物のアンコール。メチャクチャすげぇ週末だ。たくさんのステージを無駄にしてたぜ!!」

伝統的にリベラルでヒッピーの街のメタルファンはメタリカのメタルをヘッドバンギングと歓迎をもって受け入れていった。LAではソフトになったグラムロック文化にメタルシーンが支配されていた一方、サンフランシスコはアメリカのヘヴィメタルの温床になっていたのだ。

これで終わりではなかった。サンフランシスコで初めてのメタリカのショーが行われたのとほぼ同時に、サンフランシスコで酔っ払ったジェイムズとラーズの2人にカリスマ的ベーシスト、クリフ・バートンが存在を露わにした。2人が数え切れないほどの夜をハリウッドのロック・クラブで過ごしている間に。

ラーズ・ウルリッヒ「俺たちが「サンフランシスコ・ヘヴィメタル・ナイト」のイベントでウイスキー・ア・ゴー・ゴーにいたら、その夜演奏した3つのバンドのうち1つがトラウマってバンドだった。そこであの変わり者がベースを弾いてヘッドバンギングをしていたのを見たんだ。ジェイムズと俺はあんなのはこれまで見たことなかった。ベーシストを探しに行ったわけじゃなかったけど、そこでクリフ・バートンのヘッド・ハンティングが始まったのさ。それはその後数ヶ月に及んだ。」

不屈で外交的なラーズはすぐに長髪でワイルドで才能溢れるクリフに接触し、メタリカとの「リハーサル」を提案した。しかしクリフはまだサンフランシスコでトラウマに貢献することに集中していた。したがってメタリカはサンフランシスコで数回のショーを至急ブッキングする十分な理由ができた。ラーズはクリフにメタリカの次の出演について伝えることに注意を向けていた。それは10月18日の「メタル・マンデー・ナイト」コンサートだった。

「11月に俺たちはサンフランシスコで何回かギグをやった」ラーズは語る。「マブヘイ・ガーデンズ(Mabuhay Gardens)(サンフランシスコのダウンタウンにあるクラブで、俳優ロビン・ウィリアムズが1978年初めてスタンダップ・コメディでヘッドライナーを務め、後にパンクやニューウェーブのクラブとなった場所)で追加ギグを行った伝説的なツアーだった。そこから俺たちはコンサートに来た女の子とヤリ始めたんだ。本当に楽しかった。そうして俺たちは何百人ものヘヴィメタルファンと全音楽シーンを知って学んでいったんだ。ロンバート・ストリートにあるホテルでアフター・パーティーをやった時のことを覚えているよ。俺とデイヴ・ムステインが一緒に何人かの女の子をゲットしたんだ。たくさんの(女の子の)身体が横たわる場所にいたのはそれが初めてのことだった。ベッドに誰かがいて、ほかのベッドにも誰かいて、部屋の隅やらクローゼットにも誰かいるんだ。俺たちがモーテルの部屋をひとつ取っていただけの頃だったから、次の日の朝起きたら20人が床に寝ていることもあった。夢のようだったね…あれはクールだった。俺たちがそれまで夢見ていたこと全てかそれ以上の出来事だったよ。」

しかし、他の問題が間近にあった。みんなが夢を共有していたわけではなかった。というより、むしろ、みんなが夢の中にいたわけではなかった。

ラーズ「何が起きたか本当に覚えていないんだ。でもロン・マクガヴニーのガールフレンドが俺とジェイムズがクリフについて何か言っているところを立ち聞きしたんだと思う。とにかく彼女はそれをロンに話したんだ。俺とジェイムズがクリフのこと、そしてロンについての陰口を話していたことに気がついてひどく怒っていた。彼は怒って「ファック・ユー!」と言って去っていった。それが12月の始めのことで、クリフはまだ(メタリカ加入に)Yesと言っていなかった。でも俺はクリフを獲得するためにホントに奮闘していたよ。毎日毎日彼に電話してさ。集中的な「彼を俺たちのバンドに今すぐ入れよう」キャンペーンが始まったのさ。」

「マクガヴニーがバンドを去った時、ヘットフィールドは家を追い出されたんでデイヴ・ムステインと一緒にハンティントン・ビーチに引っ越してきた。俺たちはリハーサルも何もしなかった。でも、クリスマスから82年の年明けまでの間に、俺はようやくクリフが俺たちと一緒にジャムることを説得できた。12月の27日か28日頃だったかな、俺たちはエルセリトまで行った。マーク・ウィテカーの家のリビングでジャム・セッションをしたんだ。彼はエクソダスのマネージャーだった。彼と親友になって、俺たちのためにメタル・マンデー・ショーを何回か開いてくれていた。マークはすげぇいいヤツで、俺とジェイムズとムステインは何日間かそこで寝泊りしてもいいってね。それで俺たちはそこでクリフとジャムったんだ。素晴らしい時間だったよ。」

「俺たちがLAに戻ると、年明けにクリフは俺に電話してきてバンドに入ると言ったんだ。昨日のようにその会話を覚えているよ。「OK。オマエらがサンフランシスコに引っ越したら、俺はバンドに入るよ。それが唯一の条件だ!」「OK。」と俺は答えた。「俺たちは5週間でそっちにいることになる。いくらか金を稼いで、カーペットを買わないとな!」」

クリフとの初めてのジャム・セッションの途中、「Seek And Destroy」を弾いて、ラーズもジェイムズもデイヴもクリフがメタリカにうってつけの男であることを誰も疑うことはなかった。つまるところ、サンフランシスコはバンドにとってうってつけの本拠地だったのだ。クリフのポジティヴな反応は、サンフランシスコに戻ってくる前に、まだLAでいくらか活動をしていたラーズ、ジェイムズ、ムステインにとって最高のニュースだった。

ラーズ「俺たちはリハーサルとか何かをする場所を何も持っていなかった。だから1983年の1月・2月は朝の新聞配達を2コース廻っていた。ひとつは俺が住んでいた複合ビルのマンションで、そこで大きなカーペットを取り替えていた。ジェイムズとムステインが一週間、俺と外で過ごしたことを覚えているよ。俺たちはジェイムズのトラックを使って、巨大なコンテナに捨てられていた中古のカーペットを全部自分たちのものにしていた。」

「俺たちはマーク・ウィテカーに取引をもちかけた。もし俺たちのマネージャーになったら、俺とジェイムズを彼の寝室のひとつに住まわせてくれるようにね。ムステインには部屋がなかった。彼はまだ…部外者だったんだ。だからデイヴは代わりにクリフのお祖母ちゃんの部屋を借りたんだよ。それで俺たちは使い古しのカーペットをトラックに放り込んで、2月中旬にサンフランシスコに引っ越した。俺は両親にさよならを言った。俺が実際に実家を離れて住むのは初めてのことだったんだ。」

ラーズの両親との別れは、凍えるような寒さだったコペンハーゲンでの1963年のクリスマス2日目から一緒だった小さな家族の分裂を意味していた。

ラーズ「俺が家を出た後、母が重荷になって親父も実際に家を出たんだ。彼女は家族は一緒にいて歳を取っていくものと考えていた。だからあの時期は特に彼女にとってはおかしなことだったんだ。俺と親父の両方が同時に出て行ったんだから。とてもキツかっただろうね。」

「あの時は本当に理解できなかった。おそらく本当は気付いていなかったんだ。俺の親父は、家族がそこにいて、俺が家族の一員でいる間は家族を養う責任があると考えていた。そうなると俺がいったん家を出たら、、親父は何ら責任を持たないってことだったんだ。それから実際にそうなったんだけどね。親父はたくさんのことに興味を持っていた。仏教を勉強していて、そういったこと全てに興味を持ち始めていた。母親はしばらくニューポート・ビーチに住み続けて、それからその地域の周囲に引っ越した。そこには友だちがいて、そのうちの1人か2人と暮らしていた。おそらく俺に戻って欲しいとか、トーベンがいつか戻ってくることを望んでいたと思う。彼女にとってはつらい時期だった。俺はそんなこと何も見えちゃいなかった。19歳として理解できるものじゃなかった。俺はただ…前だけ見ていた。「さぁ俺たちはメタリカとしてスタートしてやるぜ!」とかそういうことだけだったんだ。」


トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は公式には離婚していない。しかしトーベンは、ワシントン州シアトル出身の30歳近く年の若いジャーナリスト、モリー・マーティン(Molly Martin)と共に引っ越していった。しかし両親は「いつもどうにか友人のままでいようとしていたよ。」とラーズは語る。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/9/

lars_guitar
クリフが加入したギグの後のバックステージにて

アフターパーティーで売られていたという「Young Metal Attack」のTシャツは現在もMetStoreで売られているこれのことですね。以前の記事の写真でもムステインが着ています。
T336
改めてクリフのメタリカ加入条件がメタリカにとっても渡りに船だったことがわかります。そしてメタリカの活動が軌道に乗る中で、ラーズの門出が家族の間のズレをハッキリさせてしまったのですね…。

ラーズがやたらカーペットにこだわるのは防音のためなのか、映画界に憧れていた隠喩なのか(笑)

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