ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』のご紹介。第3章2回目。有志英訳を管理人拙訳にて。メタリカ草創期に欠かせないデイヴ・ムステインが登場。訳していてニヤニヤしてしまったエピソードをどうぞ。

- メタリカ結成(後編) -

「俺たちはあの曲「Hit The Lights」を書いたんだ。」ラーズは語る。「あれは2つの組み合わせだった。曲はジェイムズがレザー・チャームにいた頃に書いた。曲の後半のアウトロは、俺がかつて初心者たちと会っていた時に1、2週間で出来た。そうして「Hit The Lights」を持ち寄ってロン・マクガヴニーの家でレコーディングしたんだ。」

この頃のラーズとジェイムズのふるまいの特徴は、自発的に組んだこのバンドのなかでベーシストを少し脇に置いておくという具合だった。

「ロンは公式にはバンドにいなかったかもしれない。でも彼がいた時、彼はベースを弾き、よくつるんでいた。」ラーズはそうコメントし、「Hit The Lights」の最初のバージョンでベースを弾いたのはジェイムズだったと認めた。だが、ジェイムズは曲のためのソロを弾くことができなかった。当時、彼はギターを弾くことにそれほど集中していなかった。歌うことにエネルギーをより傾けていたのだ。そこでバンドはヘヴィメタルの本質を構成するソロを弾ける誰かを確保しなければならなかった。このプロジェクトのほとんどと同様、それは同時並行で行われた。ラーズとジェイムズはブライアン・スレイゲルのスタジオに行く途中でギタリストのロイド・グラントに会い、ソロをレコーディングしてくれるよう頼んだのだ。

「そう、彼はやって来た。」ラーズは認めた。「彼は自分のソロを弾いた。充分の出来だったよ。そうして俺はブライアン・スレイゲルにテープを渡したんだ。」

ブライアン・スレイゲルはそれを聴いて衝撃を受けた。「あぁ、本当に素晴らしかったね。彼らが一緒にやったものだとは信じられなかった。」それこそがスピードを増したエネルギーの放出、かつ『Metal Massacre』の最も速いパートに対するブライアンの最初の自然な反応だった。(クリス・クロッカー著『The Frayed Ends Of Metal』(1993刊行)より)

しかしながら、「Hit The Lights」のプロダクションにはちょっとした問題があった。ブライアンは少ない予算から曲のサウンドを調整できる技術者のために50ドルを費やさなければならなかった。だがラーズとその友人たちとブライアンはこの曲について本当にいいものだと実際に感じていたようだった。

「本当に「ガレージ」だったよ。」ラーズは振り返る。「他のバンドと比べると、サウンドはクズみたいなものだった。でも本当にある種のエネルギーと誠実さがテクニックの欠如を補っていたよ。「プロダクション」ってのは当時は本当に大げさな言葉だったんでね(笑)。」

彼はついに最後の手段であった小さなグループを任された。バンドの名前はコンピレーション盤のために必要不可欠なものだった。そこでラーズはすぐにとてもいい提案をした。と、伝説は語る。実際、真実に近かったのは、ラーズとよくつるんでいたサンフランスシコのメタルファンでヘヴィメタルのファンジンをまとめようと奮闘していたロン・クインターナという人物の提案だった。ロンはラーズにファンジンの名前候補のリストを見せた。そのなかに明確なビジョンのある名前があった。ファンジン向きではないが、ラーズのバンドにぴったりな名前「Metallica」だ。(もし彼がそうなるよう動いていたとしたら、素晴らしい日だ。)ロンに「Metal Mania」という名前を提案するくらいの人の良さはラーズにもあった。

その名前はアメリカ西海岸のメタル・アンダーグラウンド・プロジェクトの名前となった。メタリカファンはおそらくその選択について祝うことができるだろう。Metallicaという名前がヘヴィだったというだけでなく、ロン・クインターナのリストにはBleeder、Blitzer、Grinder、あるいは暫くのあいだラーズのお気に入りだったThunderfuckというゾッとするような名前まで載っていたのだから。

だが、バンドの名前、Metallicaは目新しいものだった。それゆえ、『Metal Massacre』のレコードには「Mettallica」と印刷されてしまった。さらに最新メンバーの名前もスペルを間違われた。ロイド・グラント(Lloyd Grant)は「Llyod Grant」に、ロン・マクガヴニー(Ron McGovney)は「Ron McGouney」に。しかしこれらについて彼らは何もすることはできなかった。

ブライアン・スレイゲルは説明する。(『Metallica 激震正史)』(1992)より)「その時は既にアルバム用に用意してあった2000ドルも使い切っていたんで、もうそれでおしまいだったよ。もちろん、当時はそんなに大事なことだと思わなかったからね・・・。」

しかし、バンドにはまともなヘヴィメタルのバンドとして最も重要な要素が欠けていた。ライヴ・パフォーマンスである。ラインナップの点でも、メタリカにはその場所がしっくりきていなかった。ラーズとジェイムズはすでに自身をバンドの中心軸に据えており、ロン・マクガヴニーは傍観者としての位置に置かれ、ロイド・グラントはバンドの雇われ人にすぎなかった。初のギグを試みようと、メタリカは初めてのデモテープをレコーディングした。そのテープは「Hit The Lights」と2つのカバー曲から成っていた。ラーズお気に入りのNWOBHMシーンの「Killing Time」(スウィート・サヴェージ(Sweet Savage)の曲)と「Let It Loose」(サヴェージ(Savage)の曲)である。

「俺たちがソロのギタリストを加入させる前に、ロイド・グラントは1stデモのテープでソロを弾いた。だから彼はメタリカに一時的にいたことになる。でも本当はリズムをキープしていくこともできなかった。」とラーズは語る。

ジェイムズは本当はギタリストよりもシンガーとしての役割を貫きたかった。ラーズとともに代わりをみつけるまでリズム・ギターを弾くだけだと思っていた。そこで2人は再び「Recycler」に募集広告を載せた。

ラーズは1982年の1月か2月まで時計の針を戻した。「ある日、俺の家の電話が鳴った。「Recycler」の広告を見たというデイヴ・ムステインというヤツからだった。俺たちはまだギタリストを探していたんだ。そしてデイヴ・ムステインは・・・単刀直入にこう言った。「俺は機材を全部持っているし、本当にいいぜ。運転手もいるし、カメラマンもいる。それに・・・」とアイツは全てをなんだかんだと口走っていたよ。それから俺はジェイムズに電話して言ったんだ。「彼はいい意味でどうかしてるみたいだから、会ってみなきゃダメだ!わかるだろう?」とね。デイヴはノーウォークから手持ちの機材全てを持ってやってきた。」

「アイツはとても感じがよくて魅力的だった。当時、俺たちのほとんどはまだ女の子ともお付き合いしたことのない18歳のシャイなガキだった(笑)。これは本当のことだけど、俺は童貞をアイツの元カノに捧げたんだからね!俺たちはそんな負け組だったんだ。そして鋲付きブレスレットを身につけた真のヘヴィメタルなヤツになり始めたんだ。でも特にヘットフィールドはとんでもなくシャイだった。デイヴは胸毛があって、見た目もよかった。ハンティントンビーチで大麻の売人をやっていた。いつも周りには取り巻きがいた。すでにパニック(Panic)というバンドもやっていた。そのバンドは何回かギグをやっていて、ファンも少しばかりいたんだ。だからデイヴをバンドに入れたら、突然レベルが上がったのさ。ウチの母親もあの子は美しいなんて思っていた。俺の母親と話す時、アイツはとても気楽で本当に魅惑的に話すんだ。「お元気ですか?ウルリッヒさん。」とね。」

「当時、ヘットフィールドはまだ人の目を見ることができなかった。本当にシャイで、顔中にキズが残るようなニキビもあった。それにロン・マクガヴニーはスターという素材じゃなかった(笑)。そこへ胸毛と度胸を持ったムステインが現れたわけだ。」


「彼は凄かったね。自分のアンプとペアのギターとかそういうものを持っていた。ダイアモンド・ヘッドを知らなかったけど、よく人の話は聞くし、いとも簡単に新しいことを身につけていった。俺が「Am I Evil」を聴かせると、アイツはそれを10分で手に入れていた。前後左右裏表を完璧に学んでいたのさ。ギターを弾く生まれ持っての才能を本当に持っていたし、物事を理解しようとする意志があった。アメリカではまだ誰も知らないダウンピッキングを理解したからね。」

「個人的には最初の数ヶ月のあいだは少し奇妙な感じだった。俺はニューポートビーチに住んでいて、アイツはウチから10分のハンティントンビーチに住んでいた。だから俺が毎日アイツを迎えに行ったんだ。アパートに迎えに行くと俺はいつも中庭で待っていた。アイツはアパートのなかでソファに座って、10人くらいに囲まれていた。ミニ・スカーフェイス(訳注:麻薬の売人がのし上がるギャング映画『Scarface』(1983)のこと)みたいだったよ。ただ座って、大麻の入ったいろんな袋を売りさばいていた。最初にジェイムズと俺にとって、それはちょっとおかしいなと思ったことは、明らかにデイヴが俺たちのバンドに加わったはずなのに、俺が迎えに行ったら、中庭にいた俺に向かって「あれが俺の新しいドラマー、ラーズだ!」と言ったことだ。本当に理解できなかった。「俺のバンド、メタリカだ!」とも言っていたよ。驚きだね!」

「アイツはクールなものを持ち合わせていた。本当に個性的な魅力を持っていた。カリスマだ。周りにはいろんな女の子がいたし、俺の母親はアイツに首ったけさ。だから俺たちはアイツをNWOBHMへと溺れさせるんだ。でもそれはアメリカでより保守的な傾向を持った人たちとの初めての遭遇にもなった。俺とジェイムズはヴェノム(Venom)に熱中していて、彼らのアルバムが81年の8月に出たんだ。そのレコードをデイヴに渡しに持っていったら、アイツはいらないだとさ・・・。悪魔主義じゃないか!だと。最初は怖がっていたみたいだよ。でもヴェノムを除けば、俺が聴かせた音楽はアイツにとっては皆とてもクールだったようだ。」

このカリスマ的な赤毛の人物(カリフォルニア州ラ・メサ出身、1961年9月13日生まれ)はヘヴィメタルにものすごい熱意を持ち、強固なギター・プレイにより、メタリカはダイアモンド・ヘッドの曲のソロだけではなく、セットリスト構成の範囲を広げ、初めてのコンサートを待ちわびるまでになった。

1982年のロサンゼルスでは、ソロを演奏するエネルギッシュなムステインのいるラインナップを持ってしても、ヘヴィメタルの力で自己主張するのはかなり難しいことだった。当時のロサンゼルスの問題は、ハードロック・シーンがますますメロディックでグラムロック寄りのソフトなヘヴィメタルによって支配されていたということだった。

街でギグをやるのも難しかった。一つには、ほとんどのクラブでバンドはオリジナル曲を演ることを要求されていたし、さらにもう一つはメタリカの音楽が、メタルのクラブにとっては速すぎてパンクだったし、パンクのクラブにとってはメタルすぎたからだ。(これらの互いに異なる要素は、それからまもなくして、共生して大きな成功を収めていく。)しかし、メタリカは最初の問題を解決した。「Hit The Lights」は別として、ダイアモンド・ヘッド、ブリッツクリーグ、スウィート・サヴェージといった内輪以外にはまだ知られていなかったNWOBHMバンドのカバー曲が彼らのセットリストに含まれていることを誰にも言わないことによって。クラブでギグをやるためのもう一つの問題も、大きなネットワークと最初の好機に飛び乗ったおかげで解決した。最初のライヴは1982年3月14日アナハイムのレディオシティで行われた。デビューのショーはデイヴがオープニング曲「Hit The Lights」の演奏中に弦が切れ、経験不足のバンドは皆、彼が弦を直すまでバックステージに引っ込むという意図しない滑稽な幕開けとなった。

記録魔のラーズは「メタリカのギグ」と呼んでいた緑色の学校仕様の小さなノートにメタリカとして初めてのショーの印象をこう書き残している。「これまでで初めてのライヴ。とても緊張した。ワンマンライヴ。デイヴが最初の曲で弦を切った。演奏はまぁまぁ!!!かなり良いとまではいかなかった。」

ラーズの記録によると「おおよそ75人」の見物客が9曲のセットリストを観たとある。(この75人の熱狂者たちはみんな、誇りを持ってそこにいたと後に認めたことだろう。)さらにラーズはデビューしたギグでバンドは15ドルの報酬(訳注:当時のレート換算で3000円ちょっと。)を得たと書いていた。

しばらくして、ラーズのヒーローでイギリスのNWOBHMのスターであるサクソンが、ヘッドライナーを飾るハリウッド西端のサンセット・ブルバードにある伝説的なロッククラブ「ウイスキー・ア・ゴー・ゴー」で行われる2つのショーでサポートバンドを必要としていた。アナハイムで最初のパフォーマンスで失敗したことに怖気づかず、メタリカはそこへ現れた。彼らは同じ日に2つのサポートアクトをこなしたのだ。

ラーズの記録帳は初めてのショーと数え直されていた。「サクソンのサポート。サウンドチェック無し。サウンドはひどかった。デイヴはチューニングずれっぱなし。自分の演奏はよく出来ていた。でもバンドは全体としてクソだった。OKレベル以下。」もう1つのライヴでは「サクソンのサポート。今回はいいサウンド。デイヴと俺の演奏はよかった。ロンとジェイムズはまぁまぁ。かなり良いとまではいかなかった。楽しかったけど、サクソンには全然会えなかった。」

一ヶ月ほど後にメタリカはLA中心街とサンディエゴのあいだ、コスタメサにあるコンサート・ファクトリーで50人を前にライヴをした。この時メタリカは初めて5人組として登場した。ブラッド・パーカーという名前の友人がリズム・ギターとして参加したが大きな成功は得られなかった。次のギグはラーズの学校であるバックベイ高校のホールで生徒たちの昼休み中に行われた。メタリカはもう一度5人組を試した。しかしラーズの記録帳にはこの記憶すべきライブについて言及されていない。1982年5月25日のページにはひどい動揺が記録されていた。「完全に忘れ去りたい日だ!!演奏もクソ、ライヴもクソ、サウンドもクソ。本当に最悪だ。」

アナハイム、ハリウッド、そしてコスタメサで行われたショーで、メタリカはパフォーマンスによる爆発的なスタートを切ることはなかった。しかし、それらのギグによって彼らの野心が突き崩されることもなかった。そしてまもなく、いつも野心的で積極的なラーズ・ウルリッヒはブライアン・スレイゲルの元にやってきた。メタリカは絶対にアルバムを作らなければならないとラーズは考えていた。ブライアンは反対だった。彼は自身のレコード・レーベルを運営していくに充分な仕事があったし、現金収入はあったが額は低かった。(収入の1つには『Metal Massacre』が1982年6月14日に4500枚リリースされるからであった。)だからアルバム制作に必要な8000ドルは融資できなかったのだ。その代わり、ラーズとメタリカは自分たちの野望を少し抑えなければならなかった。アルバム制作とレコード会社との契約へのもっと自然の道を進むこと、つまりデモテープによって。

むしろ、それが適切だったのだ。デイヴ・ムステインの加入後、まだメタリカはこの時の楽曲をまとめたいわゆる「Power Metal」と呼ばれるデモテープしかレコーディングしていなかった。(デモテープ・ネットワークにちなんで名付けられ、ラーズの名刺にも「Metallica - Power Metal」と書かれていた。)

ただし、最新の機材でより良くプロデュースされたデモ、あるいは少なくともかなり良いデモにもお金がかかる。しかし、運命が良い助けをたぐり寄せる。メタリカは他の場所でスタジオに時間を費やすことができた。独立系レコード会社「High Velocity Records」にいたケニー・ケーンという熱狂的なパンクファンがメタリカのライヴ録音を聴いていたのだ。ケニー・ケーンにとってそれは十分に良いものだと確信していた。速くて荒削りでガチャガチャした「パンク・ノイズ」のEPをプロデュースしたいと思っていたのだ。しかし、彼はスタジオでレコーディングし終えたものを聴いてガッカリしてしまう。彼にとってこれらの楽曲は「ヘヴィメタル過ぎ」たのだ。なぜ彼がライヴで聴いた曲をレコーディングしなかったのだろう?

「そりゃあ、あれはカバー曲だったからだよ。」バンドはそう答えた。

スタジオ代はすでに払われていたので、「High Velocity Records」が提案したEPのプレスを断念しているあいだにメタリカは自分たちの新しいデモテープを自分たちの元へ持ってくることができた。

そしてそのデモテープは、持って帰るには、そして世界中に送るには充分の出来だった。こうしてラーズ・ウルリッヒと彼のバンド、メタリカは1982年7月に本当の意味で始まったのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/8/

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デイヴのメタリカ在籍時の一枚(左からジェイムズ、ラーズ、デイヴ)

ミュージシャンとして(あるいはフロントマンとしても?)、すでに抜きん出た才能のあったデイヴには、メタリカに加入した当初からメンバーをリードしている自覚があったからこそ「俺のバンド、メタリカ」発言につながっていったのかなぁ。ラーズにとっては相当不愉快に感じたであろう不用意な発言でしたが(苦笑)

こんな話を読みつつ、ロイド・グラントとデイヴ・ムステインの弾くソロを聴き比べてみるのも一興です。

『Metal Massacre』収録の「Hit The Lights」


デモ『No Life Til Leather』収録の「Hit The Lights」


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