ラーズ・ウルリッヒの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章デンマーク編最終回。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズとヘヴィメタルとの本格的な出会いからアメリカに移住するまでのお話。

- ヘヴィメタルとの出会い -

フロリダのテニス・スクールに通い始めた時、ラーズはよりもっと私的な、それでいて非常に興味を持てる「学校教育」をコペンハーゲンで既に受け始めていた。この「学校教育」は後に彼がヘヴィメタルへ進み、テニスを排除する決断を下す上で重要な影響を及ぼすこととなる。「学校」で受けた基本的な授業はNWOBHM(New Wave Of British heavy Metal)だった。

ロック史におけるその他多くのストーリーと同様、それはジャズから始まった。1978年秋のある日、ラーズとトーベンはストロイエにある街の音楽店、ブリストル・ミュージック・センターに行った。1階がトーベンが頻繁に出入りしていたジャズのフロアで、地下フロアがロックが大半を占めるフロアとなっていた。よってラーズは父親が上でブルースを鑑賞しているあいだ、地下フロアに居座ることができたのだ。

ロック・フロアのカウンターには、ケン・アンソニーというヘヴィメタル界ですでに大きな経験をしてきた当時23歳の長髪の青年が立っていた。ケンもディープ・パープルやその他70年代のハードロックを聴いて育った。しかしさらに新しいものやもっと強烈なサブジャンルとされていた「NWOBHM」に関してとんでもなく膨大な知識を持っていた。「NWOBHM」はこれまでより攻撃的で、ブラック・サバスやジューダス・プリーストのような革新的なバンドから影響を受けたヘヴィメタルの明示型だった。78年、NWOBHMは反体制的でかなり市場に出回ってきたパンクの影にまだ隠れていた。セックス・ピストルズとそのマネージャー、マルコム・マクラーレンの無秩序でありながら、よくしつらわれた「パンク革命」のおかげで新しい波が来ていたのだ。

ラーズはいつも先取りした好奇心の強い子だったので、すぐにケンと連絡を取り合うようになった。ケンは自分の好みだがあまり人気のない音楽スタイルを自分より若い弟子に紹介することができて本当に幸せだった。

「ラーズにはたくさんの音楽をみつけてきたよ。ちょうどNWOBHMが始まった頃だったから、その界隈のタイガース・オブ・パンタン、ダイアモンド・ヘッド、ウィッチファインダー・ジェネラルといったバンドを(店内で)流していた。彼は少なくとも週に1度は店に来るようになった。」とケン・アンソニーは振り返る。

ラーズ「ブリストルはコペンハーゲンの音楽の聖地だった。地下フロアは当然のごとく(笑)ロックとハードロックがあった。「ヘヴィメタル・ケン」がドイツやカナダ、日本からたくさんレコードを仕入れていた。バウワウ、トライアンフ、ティーズ、ストリートハード、ナイト・サン、ルシファーズ・フレンド、トラストとかそういった全てのバンドをね。週に何度も行っては、午後ずっと居座ってヘッドホンが使えたカウンターで曲を聴いていたんだ。」

ケンとの出会いはラーズにとって新しい音楽、つまり目立たないNWOBHMのバンドたちに関する啓示となった。ラーズがフロリダに発つ時、両者は連絡のやり取りを続けることをお互いに同意した。ラーズがフロリダの学校で過ごした時間は全然ハッピーな時間ではなかったので、それはいいことだった。

「あそこは全寮制のテニススクールだった。でも俺は「テニス刑務所」って呼んでいたけどね・・・。急に学校の生活リズムに合わせるのは俺にとってはハードなことだった。俺は自由に育てられたってこともあるし、78、79年頃にはハッパを吸い始めていたからね。そんな生活から途端にあそこじゃ貯蔵庫のある1つの部屋に4人ぐらいが生活していた。俺とベルギーのヤツを除いて、みんなあのアカデミーの近くの学校に通っていた。だから俺たちがテニスをしていた時は午後中、他の誰もいなかった。夜11時には消灯でテレビもないのにそこから出られないんだぜ。」

あらゆる意味で、あのLundevang通りの天井の高い家でアートと音楽で夜更かししていた生活から突如変わったのだ。したがって、1979年のクリスマス休暇は学校から離れる待ち望んでいた時間となった。ヘラルプで過ごす待ちに待ったクリスマスはラーズを生気づけた。一番重要だったのはブリティッシュ・ヘヴィメタルをケンと一緒に天国のようなブリストルで過ごしたことだった。

「あの当時、イギリスでは本当に何かが起こっていた。」とラーズは回想する。特に覚えているのはモーターヘッドの2つのアルバム『Bomber』と『Overkill』、そして「ブルースブルース」と呼ばれていたリード・シンガーがいたサムソンというデビューしたてのバンドだった。アルバム『Survivors』はその当時からのラーズのお気に入りの1枚となった。

しかし大晦日の後、すぐにラーズは「フロリダ刑務所」に戻っていった。

「2、3ヶ月で、もう耐えられなくなったよ。同部屋の外国人にできうる全ての悪いことを提案した。学校をこっそり抜け出して、ビールを買おうと地元のセブンイレブンに行き始めた。ある晩にはハッパを吸った。才能あるアメリカの上流階級のお方々が寝静まった後で俺たちはハッパを吸っていたんだ(笑)。それから彼らが俺たちをチクった。そうして先生と5、60人の生徒とで会議が招集されて「誰かが悪かった」だの「ここでこんなことは許しません」だの言う人がいた。それから俺たちは全生徒の前で立たされて、悪い見本だと言われたんだ。親父があんな人だから、平手打ちだけでどうにか済んだ。親父はとても人気があって尊敬もされていたから、そこで退学にはならなかった。」

こうしてラーズは自らの決断でテニス・アカデミーを退学することにした。

「3月、4月の段階でもうこんなくだらないことは十分だと思った。あの自由なコペンハーゲンで育った後じゃ、あらゆるルールをしっかり守るなんてできなかったから、俺は最悪のトラブルメーカーのひとりになっていた。でも、たぶん退学を決めたのはさまざまなことが起因していたと思う。毎日2時にバックハンドをライン上に打つ練習を30分、2時半からフォアハンド、それから1時間サーブの練習して、50回の腕立て伏せ、それからコートのサーブ・コーナーからネットラインまでダッシュしなければならなかった。日柄一日そんなクソみたいなことをやっていた。とてもよく規律が守られていたよ。まるで軍隊さ。(退学の決断をしたのは)だんだんテニスから離れていって、全ての時間を費やして誰かさんになるために練習をするっていうのは自分のためにならないと気が付き始めたからかもね。」


「振り返ってみると、俺には続けられるだけの持って生まれた才能が充分になかったんだ。ジョン・マッケンローみたいな人は100%持って生まれた才能だし、彼の当時のライバルだったイワン・レンドルは別の極致、つまり毎日8時間練習漬けだったんだ。こういう2つの極致、すなわちテニスをたやすくやっていた選手とテニスに多くの時間をつぎ込まなければならなかった選手がいた。俺は自分のやり方だけでやっていくだけの充分な才能は持っていなかったんだ。ちゃんと練習しなければならなかった。トップに留まるためのあらゆる練習をやる忍耐力を持っていないと気付き始めたんだ」

「デンマークではそこまで競争はなかったし、ウルリッヒという名だけで扉が開けた時もあった。でもアメリカでは才能の次元が違ったし、みんなもっと覚悟を持っていたし、ハングリーだった。アメリカでは親からのプレッシャーがもっとキツかった。70年代のデンマークではそんなことはなかったかもしれない。でも、このフロリダでの滞在によって俺は結論を得たんだ。あれは俺のためにならないと。でも、1年経つまでそのことに気付かなかった。」


ラーズは自らの才能を徐々に気付かせたフロリダでの学校生活を振り返るのを終えた。気付いたのは「テニスの経歴とテニスそのもの」vs「強く浮かび上がってきた他の情熱」であった。

コペンハーゲンに飛んで帰る代わりに17歳の都会っ子は西海岸、正確に言うとサンフランシスコのベイエリアの東側、バークレー・ヒルズへ引っ越した。そこは70年代、トーベン・ウルリッヒがベテラン・トーナメントでプレーしていた頃にウルリッヒ家が滞在していた場所であった。テニス選手たちは地元のテニスクラブのメンバーと個人的にしばしば住宅を提供されていた。そうしてウルリッヒ家はフォルミケッリ家と良き友人となった。

「彼らと自由に外出していた。」ラーズは語る。「俺たちは家の女主人、マリエルのことを「西のおばあちゃん(Grandma West)」と呼んでいた。彼女は実際、アメリカでは家を提供してくれた俺のおばあちゃんだった。」

1980年の春、ラーズはそのフォルミケッリ家と「西のおばあちゃん」と共にそこに住んでいた。この滞在でラーズがヘヴィメタル界に深くのめり込んでいくさまざまな出会いがあった。

「ある日、地元のレコード屋でヘヴィメタルの輸入盤が置いてあるところに行った。レコードを見渡していると、それまでで一番クールなジャケットのレコードを見つけたんだ。本当にヘヴィに見えた。それはアイアン・メイデンという、それまで聞いたことのないバンドだった。俺はそこに立ってアルバムを眺めていた。それは新しくリリースされたばかりで、たくさんのライヴ写真とかそういうものが裏面にプリントされていた。それから俺はそのレコードを数週間聴いたよ。本当に最高だったんだ。」

アルバム『Iron Maiden(邦題:鋼鉄の処女)』は、表のカバーに骸骨のようなモンスターの絵がプリントされていた。先にラーズが語ったようにバンドメンバーのライヴ写真はラーズを極致まで魅了した。この『Iron Maiden』でラーズは後に最も伝説的な筋金入りのファンの一人となった。

ラーズは5月にコペンハーゲンに戻った。穏やかな空気、花香る木々や低木に春の輝き、生き生きとした人々の笑顔と相まって、おそらく街に戻る最も理想的な月だっただろう。同時にNWOBHMはピークを迎えていた。ラーズはケンの店にいた。そこでは絶えず若きメタルの弟子のために新しいレコードと情報が仕入れられていたのだ。

「ケンのことはヘラルプの友だちや家族の前では「アイドル」と呼んでいた。」ラーズは80年春当時のケンの立ち位置について語る。「彼は本当にヘヴィメタルのアイドルだったんだ。彼はメタルとつながる全てだった。彼の家に招待された日には、お店が閉まった後もレコードを聴くことができた。俺はヘヴィメタルの聖地に招き入れられたみたいだった。」

ケン・アンソニー「ブレンビュベスターにあった俺のアパートにヘヴィメタルのコレクションがたくさんあった。だからラーズはよくやってきた。彼のためにテープに録音して、その全てのバンドについて教えてあげなければならなかった。俺たちは座ってソーダを飲んでチップスを食べてヘヴィメタルを聴くのさ。彼はまだ全てを知りたがる少年に過ぎなかった。俺たちは同じ趣味を共有していた。それは素晴らしいことだ。音楽はその核となった。テニスとか他のことについては一切話さなかったよ。」

夕方にトーベンはKirkebjerg通りに面したケンのアパートまでラーズを車で送り、真夜中に車で家に連れて帰った。ラーズは数日後、新しい何かが手に入ったかどうかケンに電話するのだった。

「ラーズはひっきりなしにここにやってきた。」
ケンは笑顔を浮かべて語る。「週に何度も電話してきて新しいレコードはないか、それらを聴くために金曜日に来なくちゃならないかと尋ねるんだ。そうして頻繁に来ていた。そういった全ての音楽は持っていたのは俺だったからね。」

しかし、街の反対側にあるウルリッヒ家では、テニスはまだ重要なものだった。ベテランのトーベンはまだかなり熱心に多くのトーナメントに参戦していた。ラーズの最も基礎となるゲームの楽しみはいまだ無傷だった。フロリダで意気消沈を味わったにも関わらず、彼の野心はそのままだった。おそらくテニスをプレーすること、テニスの経歴に適切な場所を見つけることができたからでは?もしそうならば、答えはコロナ・デル・マーにある。そこはロサンゼルスにあるスポーツスクールで、ラーズが奴隷のようにテニスを練習することなく、テニスと勉強に集中した場所である。

ラーズ「俺は高校を出て大学に進み、そのあいだテニスをし続けて、大学を出てからプロ選手になろうとしていた。そういう考えだったんだ。」

「ラーズは集中していたよ、本当に。」ステイン・ウルリッヒは語る。「彼はテニスのスター選手になるんだと言っていた。テニスで食っていくんだと。コロナ・デル・マーのテニス・キャンプはテニス選手製造所だった。当時すべての最高のテニス選手たちがここで育てられたんだ。」

そのうちの一人がアンソニー・エマーソンだ。彼はウィンブルドンの覇者ロイ・エマーソンの息子でロイはトーベン・ウルリッヒと一緒にプレーをした選手だった。エマーソン家とウルリッヒ家は一緒に旅行をしたこともある。ラーズがオーストラリアで初めてアンソニーと会ったのは、わずか2歳の時だった。

「親父はロイ・エマーソンの真の良き友人だった。彼は(カリフォルニアの)ニューポート・ビーチに住んでいて、それが俺たちがそこに行った主な理由だったんじゃないかな。」
ラーズはそう考えていた。

ニューポート・ビーチへの引越しは息子のテニスに対する明るい将来への関心だけでなく、親自身の希望もその動機となった。トーベンの参戦するテニス・トーナメントのほとんどはアメリカだった。そしてアメリカとデンマークのあいだを行ったり来たりするのに多くの時間を費やしていた。ローン・ウルリッヒもロサンゼルスですでに交遊関係を持っていた。

こうして1980年夏、トーベンとローン夫妻はLundevang通り12番地のあの大きな家を売り、家族はヘラルプを離れカリフォルニアに引っ越した。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

アルバム『Iron Maiden』での強烈な出会いを考えると、念願かなって共演できたバックステージでラーズがこんな顔になってしまうのは無理もない。

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ラーズ・ウルリッヒ、スティーヴ・ハリス(アイアン・メイデン)とともに

メタルの師とあおぐケン・アンソニーとのエピソード、興味があるとトコトン行くとこまで行ってしまうのは今も昔もあまり変わっていないようです(笑)。なかなかあきらめきれないテニスはいつ踏ん切りがつくのでしょうか。

いよいよ第2章アメリカ上陸編ではジェイムズとの出会いが待っています。
(2章から記事のタイトルは変更予定)

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