ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。有志英訳を管理人拙訳にて。日本語表記がわからないものはアルファベットのままにしています。今回はラーズが「楽器」を始めた頃のお話。

- ロック・ミュージシャン誕生 -

7歳の誕生日に(ラーズのいとこ)ステインは赤いエレキ・ギターとワウペダルをもらった。ラーズはそれを「クールだ」と思った。ステインはラーズにひっきりなしにギターを持っていいか尋ねられたと振り返る。ラーズはこの頃からすでに説得の達人であったため、ステインのギターを自分のものとしたのは当然の成り行きだった。つまり、ラーズはジョン・モーエンセン(訳注:デンマークのピアニスト、ソングライター)のデビューアルバムと交換したのだ。

実際に真剣に音楽の方向に進む最初のステップは、学校で授業を取ることだった。そこでラーズは音楽の授業でギターのレッスンを受け始めた。今からそれを振り返るとラーズは吹き出した。ギター・レッスンはすでにロック愛好家だった少年にとっては滑稽な挑戦だったのだ。

ラーズは笑い声を沈めると、笑みをたたえたまま、Maglegaard小学校で音楽教師レイフ・ダールガード(Leif Dahlgaard)の教え子として過ごした頃のことを興奮して話した。「俺はギターを習いに行った。出来はまあまあ。ギターを演奏している時、ギターを左足のどこに置いたらいいのか分からなかった。スパニッシュ・ギターみたいに3冊の本の上で片足立ちでいるみたいだった。そうやってみたけど(ラーズはエアギターでその様子をまねながら)それがギターの全てじゃない。全然ロックじゃなかったからやめたよ。それだけが原因じゃないけど、それが実際にドラムを始めた理由だね。」

ドラムセットは持っていなかったが、1974年から1975年のあいだラーズは「バンドで演奏する」のが好きだった。

「そう、バンドを始めたんだ。テーブル・フットボールの台をキーボードに見立てて、段ボール箱と箸をドラムセットみたいに塗って、リードシンガー用に特別なほうきの柄を用意して、2つのテニスラケットはもちろんギターとベースさ。そうやってバンドを始めたんだ!いろんな「楽器」を試しては考えていた。一度リードシンガーも試したんだ。Dunlopのテニスラケットを持ってね。でも結局、段ボール箱に落ちついたよ。」

段ボール箱と絵筆がその場しのぎの最初のドラムセットになった。ラーズはそれをあたかもヘヴィなロックビートを奏でるチャンピオン、ディープ・パープルのイアン・ペイスばりに振り回していた。ラーズの叔母、ボーディルが「あの子が食事をしているとき、いつもあらゆるものを叩いていたのよ。ナイフとフォークでグラスとかお皿とかをね。」と語っているあいだ、父トーベンは鍋とナイフやフォークを使ったドラム癖を直させたことも思い出していた。

しかし、12歳の少年と仲間たちがバンドの真似事をしていた頃に、本当のドラムセットを手にするまでは長い道のりだった。

「一番最初に演った曲はスウィートの「Ballroom Blitz」だった。ステータス・クオーやスレイド(Slade)、そしてディープ・パープルの曲もあった。Lundevangの俺の部屋か、ローウラライ(Raageleje)の小さな2階の部屋に集まってた。金曜日の午後はステインとピーター・タルベックって子と他の子たちと外でステータス・クオーのライヴレコードの全曲を演ったのを覚えているよ。俺たちがやっていたのは、部屋まで「楽器」を持っていくってことだった。どんな季節でも、できるだけ暑くなるように暖房をいじってた。だから5分か10分もしたら汗が噴き出してくる。それがステージにいるみたいに思えたんだ。たぶんそれが最初の足掛かりになったと言えるんじゃないかな?」

ラーズは少し考えてから続けた。「どうやってドラムを始めたのか本当はわからないんだ。親父の友だちの一人だったクラウス・ボイエ(Claus Boje)って人が俺に衝撃を与えたんだ。彼はアイスホッケー選手でありドラマーだった。ある時期、ホッケー選手とドラマーはまったく同じだと思ったんだ。ホッケー用のスケート靴を持っていたし、ゲントフテのスケートリンクに行っていたよ。75年から76年あたりかな。そしてもう一人、親父とよく集まっていた人がいた。彼の名はアレックス・リール(Alex Riel)。彼はNHOP(デンマークのベーシスト、Niels-Henning Orsted Pedersen)のドラマーで、コペンハーゲンに来ていた外国人ジャズマンのひとりだった。彼はデンマークのドラマーとして1位にランクされた人だった。彼にも本当に衝撃を受けたね。」

「俺がお祖母ちゃんにひざまずいて本物のドラムキットを買ってくれるようお願いしたっていう身内じゃ有名な話があるよ。ジョン・ハートヴィ(John Hartvig)っていう店があって、たしか街でいくつかドラムを買ったところだと思う。イアン・ペイスが何年も持っていた銀色に光るドラムみたいだった。でもそれはイアン・ペイスとステータス・クオーのジョン・コーラン、あとちょっとボーナム(ツェッペリンのジョン・ボーナム)も入った感じの同じセットアップだったんだ。バスドラム、タムタムがあってタムドラムが2層になってる。あれは当時のワルがみんな持っていたものだった。」

「そうやってイカしたドラムキットを手に入れて、地下室の自分の部屋に置いたんだ。そこに座るだけで楽しかったし、自分もドラムが演奏できると想像していた。あれは76年夏のことだった。ただ、あれは遊び場の一部だった。そこまで真剣なものじゃなかった。わかるかい?でもブラック・サバスのアルバム『Sabotage』の「Hole In The Sky」を演奏していたのを覚えているよ。」

ラーズ・ウルリッヒの初めての聴衆のひとりであるステインは当時のドラム演奏を振り返る。

「あの部屋は家族が地下室に住むようになってから、(家族が生活している部屋から)遠く離れてはいなかった。でも少なくとも両親がドアを閉めればラーズがやかましくできるくらいは離れた部屋だった。ディープ・パープルの『Made In Japan(邦題:ライヴ・イン・ジャパン)』に挑戦していた。『Burn(邦題:紫の炎)』を「Burn」からB面の「Mistreated」まで演ってたこともあったっけ。彼は数年間、ドラムを演奏することはすごいことだと思っていた。それから先に進んだんだ。」ステインはそう付け加えた。

「音楽はテニスほど重要ではなかった。」とラーズは言う。「その頃を振り返ると音楽のために生きてはいなかった。自分ではテニス選手になることを想像していた。親父のように、音楽は趣味に過ぎなかった。」

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/7/

lars-ulrich-denmark
ドラムを打ち鳴らすラーズ少年

小さい頃から交渉に長けていたり、聴く側だけではなくすでに演る側としての楽しみを追求していたり、と現在のラーズの片鱗が垣間見れるエピソードでした。

はじめてバンドの真似事をした曲、スウィートの「Ballroom Blitz」はこちら。


次回はラーズが将来の仕事と考えていたテニスとの関わりについて。

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