ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の(相当長い)第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。今回はラーズのバイト生活や最も影響を受けたディープ・パープルとの出会いについて書かれています。

- 自由に甘やかされて -

たしかにラーズ・ウルリッヒは裕福に暮らし、映画やコンサートや世界をまたいだ旅に連れて行ってくれる素晴らしい家族と暮らした一人っ子であった。しかしデンマークの家ではお小遣いを自分で稼ぐ方法を見つけなければならなかった。

「両親から完全に自由だった。もちろん自分のお金をいつも補填していた。一年中、テニスに出かけ働いていた。Hartmann通りのHIKのショップとかその他の店でクロックムッシュ(訳注:チーズとハムを食パンに挟んでトーストしたホットサンド)、リコリス菓子、ゼリー、コカコーラ、水を売っていた。午後にはそこに行っていたよ。水曜日には新聞・雑誌(Villa CitiesとGentofte Magazine)も配達していた。それが70年代に俺がBristol Music Centerであらゆるイカしたレコードを買うためにお金を稼ぐやり方だったんだ。

俺は何かを買うにはお金を稼がなければならなかった。そして、俺はそれに慣れっこだった。親から自由を与えられていたけど、ラクラクと自分のお金を得ていたわけじゃ決してなかったんだ・・・。」

いとこのステインはラーズと一緒にチラシ配りをすることもあった。またあるときにはテニスコートで相手をすることもあった。変わったこととしては、ラーズはテニスコートを練習や試合用に整備するグラウンド整備員としても働いていた。

それがラーズにとって天から降ってくるわけじゃないお小遣いを得る道だったのだ。ラーズ自身が語っているように「自由だけが俺を甘やかせた唯一のこと」だった。自由は、彼が本気で獲得するやり方を順に知っていった要素だった。特に(レコードが欲しいと)涎をたらした音楽ファンとして。

1973年2月にKBホールで行われたディープ・パープルのコンサートでロック、そしてハードロックを好きになり始めたとラーズはいつも語っている。しかし、実際はそれ以前の1969年夏にロックコンサートに出かけている。ウルリッヒ家がトーベンのウィンブルドン出場のために7月初旬にロンドンに滞在中、5歳のラーズは新聞の興味をそそるある部分に目星をつけた。そこには長い髪の男たちの写真が・・・。ラーズはその新聞記事をいぶかしげに指差して母親を見て尋ねた。「お母さん、これなあに?」

ローン・ウルリッヒは新聞をつかむと、ローリング・ストーンズと呼ばれるバンドが街でコンサートを行うという記事を読み上げた。ラーズは即座に「行きたい」と叫んだ。それはウルリッヒ家での定型的な率直でざっくばらんな表現だった。ローンは答えた。「わかったわ。でも独りで行くのは大変よ。わたしも一緒に行きましょう!」幸運で風変わりなヒッピーやロックファンたちが集まったハイドパークでのストーンズのコンサートへ5歳の息子と母親、トーベンと彼のテニス仲間である南アフリカのレイ・ムーアと一緒に行った。レイ・ムーアは1973年2月10日、コペンハーゲンのKBホールで行われたラーズが初めて観たハードロックのコンサートにも同席している。

ラーズ「KBホールで開催されるテニス・トーナメントに行くという話だった。トーナメントの開催前の日曜日にテニス選手はコンサートに招待されていたんだ。父とレイ・ムーアがそこにいたのを覚えている。父とレイ・ムーアは同じ音楽嗜好や見方を共有していた。レイはそんなヒッピーだった。」

たとえジャズが数十年間、我が家を特徴付けていたとしても、多くの異なる音楽的表現−ロックあるいは彼らがビート音楽と呼んでいた音楽の目覚しい発展−にいつもオープンだったのだ。そしてそれらは60年代、Lundevang通り12番地の音楽領域の一部まで広がり、支持されていった。レッド・ツェッペリン、ジミ・ヘンドリックス、ディープ・パープルのような開拓者たちの名前は、後にロックをよりハードでヘヴィな方向に向かったバンドたちの地ならしを助けた。特にディープ・パープルは、今でもラーズのハードロック界への旅路として存在していた。

2月の魅惑的な夜の啓示と両親から与えられた素晴らしい自由は9歳の少年に強い結びつきをもたらした。しかしすでにラーズ・ウルリッヒは快活で行動的だった。独りでコンサートに行き始めるのにそう時間はかからなかった。付き添いもなしに次のディープ・パープルのコンサートに出かけて行ったのだ。

ステイン・ウルリッヒは我々に語った。「ラーズと俺は6歳か8歳の頃にはディープ・パープルのレコードをすでに持っていた。ラーズのお爺さんがいるローウラライ(Raageleje)の夏の別荘に行っては、ディープ・パープルでエアギターとエアドラムで完全に狂ってたよ。そりゃもう、汗いっぱいかいてね。エアギターをたくさん弾いた後はお風呂に入らなきゃならないほどだった。ある日、ラーズは俺を呼んで、KBホールのディープ・パープルの公演に行きたいか尋ねてきたんだ。そんなこと考えもしなかったよ。だからラーズに連れて行ってもらったんだ。」

1973年12月9日、デイヴィッド・カヴァーデイル、グレン・ヒューズが新加入した第3期ディープ・パープルの初めてのコンサートだった。「あの日はカー・フリー・サンデーだったね。」ラーズは前述したオイルショックを回想していた。

その当時、(普段使われている)貴賓席は舞台に変えられていたため、ディープ・パープルが現れる貴賓席は2階へと続く席となっていた。若き少年2人はさも当然かのようにその席の隣に座る機会をつかんだ。

「俺たちはコンサートのあいだ、ほとんどそこに座っていたんだ。」ステインは熱を帯びて続ける。「バンドがアンコール前に休憩でバックステージに戻る時、彼らは俺たちのすぐそばを歩いていったんだ・・・俺たちは彼らが通れるように足をどけなければならなかった。それでリッチー・ブラックモアがさ・・・彼が俺に手を差し出したんだ!彼が俺にだぜ!!」

それはヘラルプへ帰るバスの中でも話されたことだった。どうにかしてロックないとこ同士2人はLyngby駅までたどり着いた。そこはステインによると「すっごい興味のわく」ある女の子と出会った場所であった。彼らは駅前の駐車場で1時間ほど過ごし、少しばかりナンパをしていたのであった。

ステインは笑う。「あぁ、あそこで馬鹿げた時間を過ごしたよ。家に帰ったら怒られたのさ。」

自由には責任が付きものだ。それはウルリッヒ家もしかり。次の年、いとこ同士の2人はコペンハーゲンのコンサートに歩いて行くことを許可された。たとえ反対側の街外れであろうと、ディープ・パープルが1975年3月20日にブロンディ・ホールでコンサートを行った時は、ラーズはコペンハーゲン中央駅のロックスター御用達のホテル・プラザまで新メンバーのカヴァーデイルとヒューズのサインをもらいに行ったのである。

疑う余地も無い。ディープ・パープルは若き日のラーズの人生にとって最も重要なバンドだったのだ。73年2月に初めてコンサートを観てすぐに、ラーズはレコード店に駆け込み、ディープ・パープルのLP『Fireball』を買った。発掘すべき新しいものだった。そして(リッチー・ブラックモアと)ほとんど目と鼻の先だった、もうひとつのお気に入りのコンサートの後、音楽の炎は絶対的なファンになり始めた少年たちの中で燃え上がった。ラーズはいつも音楽を聴くのを楽しんでいたが、ますますファンとしてのふるまいに磨きがかかった。次から次へとレコードを買い、コンサートに行き、サインをそろえていくのであった。

70年代、ブラック・サバス(ラーズは1973年のクリスマスに『Sabbath Bloody Sabbath(邦題:血まみれの安息日)』のLPを手に入れた)、AC/DC、シン・リジィ、UFO、ステイタス・クオー、そしてリッチー・ブラックモアズ・レインボー(ディープ・パープルの後、ギターのカリスマが立ち上げたプロジェクト)など、キッズが献身的なファンになることのできた良いバンドをみつけることはそう難しいことではなかった。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

しかし、その若さでナンパとは(笑)

73年に父親に連れられて行った、ラーズにとって初めてのディープ・パープル公演でラーズと会ったことをグレン・ヒューズは覚えていたようです。そのときのグレンの回想。

グレン・ヒューズ
「(前略)俺は73年のディープ・パープルのコペンハーゲン公演でラーズと会った・・・。彼は俺のサインを欲しがっていた。俺は何て若いんだと思い、直接彼と彼のお父さんのところに向かったんだ・・・。惚れ惚れしたね。(後略)」

グレンは2011年、自らディープ・パープルの本『Deep Purple & Beyond: Scenes from the Life of a Rock Star』を出したときにラーズにサイン付き限定版を送っています。

lars_glenn
限定本をSonisphereFestival2011のバックステージで受け取るラーズ

GlennHughes.com(2011-07-09)

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