ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。大きな家に住んでいたことによって、ラーズの性格形成に及ぼした影響について。なかなか音楽の話が出てこない、マニアックなラーズのルーツをどうぞ。

- 人とは違う毎日の生活 -

たとえラーズが長期間旅行に出て欠席をしていたとしても、クラスメートから特別レッテルを貼られるようなことはなかった。彼はあまりに違うリズムの生活をしていたのだ。それは両親の国際人的な生活のためだけではなかった。

Lundevang通り12番地の自宅には、慌しい朝もなければ、時間通りにしろとしつける両親もいなかった。朝食はもっぱら独りで食べ、早朝には時計から目を離さないようにしていた。

ラーズは語る。「両親とかに何かしら反抗を示すようなことはなかったね。親友みたいなもんさ。でもあの頃を思うと、俺はかなり早くに完全に独りで何とかすることを学んでいた。俺は朝のルーティーンを独りで確実にやり始めていた。7時に起き、オートミールを作るために階下に降りる。毎朝同じことをね。母さんはいつもオレンジジュースを絞って前夜に冷蔵庫に入れてくれていた。だから果肉はいつも底に沈んでいた。俺はいつもちゃんと混ざっているか確かめていたっけ。でもあの一杯のオレンジジュースは最高だったよ。オートミールを作れるようにSolgryn(訳注:オートミールの商品名)と計量カップは大概出しっぱなしだった。皿とかバターのかけらとかも・・・。母さんは俺が学校に行く前に摂る昼食を前の晩にいつも詰め込んでいた。」

自分への躾の結果として、ラーズは日付・時間・数・早く着席することに集中した。学校へ行く途中、家からMaglegaard小学校のあいだにあるヘラルプ駅の時計をいつも見ていた。

「俺が自転車で駅を7:53に通れば、ぴったりに着くんだ。もし7:54だったら、ちょっと遅れている。7:55だったら、よろしくないね。」とラーズは言う。

「彼は時間通りに着くことに集中していた。集中するのは本当にすごかったね。」従兄弟のステインはそう付け加えると、すぐに別の例を引き合いに出した。「ラーズは、10歳から12歳の頃には、アメリカン航空の運航スケジュールをそらで暗記していたんだ!あんなものをわかってたんだぜ!俺に112ページぐらいに載っている、日に4回あるいは今と同じくらい運航していたシアトル発サンフランシスコ行きの便について俺に言ってみせるんだ。あいつはいつも自分を管理していたし、管理しなければならなかったんだ。」

ラーズはヘラルプ駅から中央駅までのあいだ、本当に時間のことで頭がいっぱいだったのを思い出していた。自分のとても計画的なふるまいや熱情をコントロールしてきたことは、子供の頃に放っておかれたところから来ていると今日でも彼は信じている。ざっくり言えば、彼は自分の人生をコントロールし続けなければならなかったのだ。両親が何かしてくれるとは期待できなかったために。

「でも否定的な意味で(親が)必要ないっていうわけじゃないんだ。両親は彼を放っておいたわけじゃないからね。」ステイン・ウルリッヒは語気を強めた。「彼の両親は別のことに重きを置いていた。例えば、「おまえはこれを見なきゃダメだ!」と言って彼をジャズのコンサートに連れて行ったり、ジャズについて教えたりすることで彼の面倒をみていたんだ。だから、彼の面倒をみていなかったから、必要ないってわけじゃない。彼の両親は別の生活リズム、別のやり方で子育てをしていたんだ。」

自立した子供時代に、ラーズは自分で何とかやっていき、後に自分をコントロールすることを学んだ。それは1973年10月に起きた、かのオイルショックも彼の理性ある基本的感覚に長く影響を及ぼした。オイルショックはガソリンと燃料不足を引き起こした(これに従い、デンマークではいわゆる「車無しの日曜日(カー・フリー・サンデー)」が導入された)。その現象はLundevang通り12番地の大きな家にも特にあてはまる事態となった。

ラーズ「俺たちは大きな家を持っていた。もちろんオイルショックのあいだ、暖房は節約した。寝室とバスルームと階下の家族の部屋だけ暖房をつけた。そのときにドアをちゃんと閉めることを学んだんだ。そんなだから、今じゃアメリカ人といるときは特に(ドアを閉めてくれと)あがくはめになっているよ。ドアを開けなければならないときは、熱を逃げさないように再び閉めなければならないことを意味するってことを叩き込まれたんだ。暖房のかかっていない部屋がたくさんある家のなかでは、ドアを閉めることをすぐにでも学ぶってわけ。

俺にとってはいまだにその影響があって、部屋を出るときはドアを閉めて明かりを消すのもそうさ。それで妻とさえ問題が起きる!家では、英語で言うところの「Shutting the House Down(窓閉め/電気を消す)」が進行中なのさ。毎晩寝る前に俺は家をくまなく廻って電気を消し、ドアを閉めていく。誰もやらないからね。アメリカでは部屋に入って電気をつけて、また部屋を出るときは電気を消さない。俺はそれとはまったく真逆なところで育った。1973年のいまいましいオイルショックから端を発しているのさ。」


ラーズに影響を与えた子供の頃の家について、もうひとつ付け加えるならば、彼は幾度も大きな家で独りでいたということだ。父親がツアー中は通常、母親は祖父母の住むローウラライ(Raageleje)にいたのだ。

「暗いところは怖くなかったけど、不気味な妄想にとりつかれた。いつも何てことないこともチェックしなければならなかった。ドアを閉めて、クローゼットの中から何から全てチェックしていた。俺がこの話をすると父は大げさだって言うんだけど、少なくともかなり早くから自立する方法を学んだ。週末36時間は独りで家の中をぐるぐる移動していたよ。

そしてそこから不気味な妄想に行き着くんだ。いまだにそういうものがある。今日も家に帰ったら、全ての部屋と窓をチェックして、クローゼットに誰かいないかチェックするんだ。長い手順になるよ、特に今みたいな大きな家に住んでいるとね。3つあるゲストルームのクローゼットの中とかそういう諸々に誰もいないことをチェックする。家全体を見廻るには毎晩15分はかかる(笑)」


ラーズは子供の頃からとりつかれた妄執を心から笑う。もちろんあの家は、主に人々と暖かさにあふれていた。ユニークなウルリッヒ家はたしかに退屈することはなかった。

音楽、テニス、旅行の繰り返しというおなじみのラーズの人生を飛び越え、父親が不在中に母親としばしば養われたずっと見落とされてきた情熱もあった。映画である。

「俺は映画にいつだって興味を抱いていた。父が4、5、6週間とツアーで不在のとき、母と一緒に映画館に行っていた。いとこのカレンはトライアングル・シネマのチケット売り場で働いていたから、いつも俺たちのために無料チケットを用意してくれていた。もちろん70年代の話だけど、あの頃は毎日新しい映画が上映されていた。75年・76年の夏休みなんかは週5回は映画館にいたね!PG-12とかR15とかは俺のいとこが入口にいるときには大して意味がなかった。もちろん俺たちはホールの真ん中でチケットをもらうんだ。

母と俺は上映前に食事をとっていた。Osterbro通りの右側にあるカフェテリアに駆け込んで食べていた。ベアルネーズソースとグリーンピースが入ったハンバーガーを買ってね。家を6:15に出て、ハンバーガーを食べて、トライアングル・シネマの7時台の上映回で観るんだ。

『The Olsen Gang』(訳注:シリーズ化されたデンマークのコメディー映画)を観にパレスシネマまで行ったのを覚えているよ。あの映画はいつも秋休みの金曜日に公開で、最初の2時の回の上映には映画館にいられるように最後の数時間の授業をすっ飛ばさなきゃならなかったんだ。

後に俺は独りで映画を観に行くようになった。ひっきりなしに上映されていた信じられないようなバカげた映画を全部観たよ。『ワイルド・ギース』とか『ナバロンの要塞』とか『激突!タイガー重戦車 最後の砲火』とか『史上最大の作戦』とかそういう戦後に作られたヤツ。あとジョン・ヴォイトが出てた・・・『オデッサ・ファイル』ね!そういう映画ばっかりさ(笑)」


英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

larsulrich_student
ありし日のラーズ

さりげなくデカい家に住んでいるところを自慢するのはさすがラーズです(笑)クローゼットまでチェックするのは、後の「Enter Sandman」の歌詞に反映されたのかな等と思ったり。

ちなみに『オデッサ・ファイル』は管理人がずっと観たいと思っていた(まだ未見の)映画のひとつなんですが、ラーズの中では馬鹿げた映画(stupid movies)にカテゴライズされているんか・・・。

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