ラーズの伝記本『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』の第1章の続き。前回同様、有志英訳を管理人拙訳にて。前回はラーズの生家にまつわる恵まれた音楽環境についてがメインでしたが、今回は父親トーベン・ウルリッヒがラーズに施した「教育」についての面白いエピソードが書かれています。長文にてお時間あるときにどうぞ。

- グローバルな子 -

Lundevang通り12番地は、心地のよい近隣者に囲まれた不思議で素敵な場所だったが、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻は世界中を仕事で飛び回っていた。頻繁に夫妻がツアーに出ていたとき、トーベンとローンには確固たる地盤がなかった。トーベンはまだ世界トップクラスのテニス選手だった。彼は60年代後半からベテラン・トーナメントに参戦し、世界を飛び回り、生計を立てることのできた唯一のデンマーク人テニス選手だったのである。

ラーズは人生最初の1年で、すでに世界を飛び回る赤子であった。

「俺たちはよく旅行に行った。」ラーズは回想する。「60年代最後の数年は、ヨーロッパ中を廻ったし、アメリカは何回も行った。オーストラリア、フィジー、タヒチまで行ったよ。68年頃にはデンマーク人家族とヨハネスブルグ(訳注:南アフリカ共和国)に住んでいたんだ。どうやら俺はアフリカーンス語(訳注:南アフリカとナミビアで話される、オランダ語の方言から生まれた言葉)を学んでいたらしい。4、5歳の子供にとっては朝飯前みたいなものだったんだな!」

1970年8月、ラーズはゲントフテ(Gentofte)のMaglegaard公立小学校に通い始めた。シンプルで良きデンマークの学校だ。だがラーズは出席日数についてはあまり気にしていなかった。教室で起きている事よりも、ラーズの両親こそが教育における必須要素であり、真っ当な学習手段だったのである。

彼の両親は旅行を、ラーズの「教育」の一部とみなしていた。そして家族が家に戻ると、トーベン、ローン、あるいは広大な家にやってくる多くの友人誰しもがラーズに音楽について教えたり、テレビで放送されたことをあれやこれや議論したりするのに時間を割いてくれた。それはしばしば夜遅くまで続き、夜12時をまわることさえあった。そんなわけで、ラーズは時おり数時間遅刻したため、トーベンとローンはラーズの学校への連絡帳に遅刻を正当化する理由を書かなければならなかった。

「親父は俺が遅刻するのが大好きだったんだ。」
ラーズはニヤリとしてそう語る。「俺たちは台所に座って音楽を聴くか、何かについて話しながら、親父は連絡帳にこう書くのさ。『ラーズは今日は学校に4時に到着します。これは私どもが彼に深夜までジャズをしっかりと聴かせることが重要だと考えているからです。そして彼のためには寝坊することも重要なことなのです!』」

ラーズはいったん話を止めると、さらにニヤニヤしながらこう語る。「俺の連絡帳は本当に見事なもんだった(笑)。『すいませんが、ラーズは昼休みも出席できません!!』とかね。親父と俺は同じオルガー・ザイアー(Holger Thyrre)先生だったんだ。だから通学最初の1年、親父は(自分の先生だった)彼にメッセージを書いていたんだよ。」

さらに学校期間の数年は、尋常じゃないほど多くの旅行に出かけていたが、トーベンは学校に連絡を取り続けていた。

ラーズは言う。「親父が、俺の教育にとって1ヶ月のアメリカ旅行がどれだけ重要かを説明し、(授業に出れない分の)算数、国語、ドイツ語を追いつけるようしっかり確認するということを書いた手紙を学校査察官のヴィクター・ラインヴァルトさんに送った。だから俺は両親とアメリカに1ヶ月行っているあいだ、母親と一緒にドイツ語や算数の教科書と格闘していたんだ。毎日ね。

4、5年生になるまでにたくさん旅行をした。1、2回は学校期間のあいだに3週間はここ、5週間はあそこなんてこともあった。刺激的だったし、もちろん最高だった。でも5週間もアメリカにいた後で、学校に戻って、自転車をラックに停めて、「Hej Hej(デンマーク語でHey)」なんて言うのは奇妙な感じだった。

俺はMaglegaard小学校のCクラスにいる他の生徒みんなとはちょっと違う状況だった。でも、問題なかった。ある意味、全然目立たなかったんだ。特別称賛されるものでもなかったし、ましてやそれで俺が特別クールになったわけでもなかった。だから、振り返ってみると、クールでもなかったし、アウトサイダーでもなかったし、いじめられたようなこともなかった。「へぇ!ラーズがアメリカに3週間行くってよ!」みたいな感じかな・・・(笑)。まぁそんなもんだった。俺が知る限り、それが俺の現実さ。俺はそれがとても変わっているとは思っていない。それがずっと続いていたしね。」


学校側からすれば、睡眠はラーズに必要というトーベンのドラマチックなスタンスには、おそらくそこかしこで驚かれたことだろう。しかし、教員陣もほとんどの場合、ラーズ・ウルリッヒとその特別なライフスタイルに大きな反対はしなかった。彼の物理学教師、フレミング・ステンサー(Flemming Stensaa)(戦後、ジャズを弾くトーベンの熱心な聴衆の一人でもあった)は回想する。「あの当時、すでに彼はずいぶん学校を欠席していた。(沈黙後)しかし、彼は非常に楽しい生徒だった。勤勉ってタイプじゃなかったが、丁寧で礼儀正しかったよ。彼も両親と家族の良いところを受け継いでいた。」(1994年2月取材)

かなり特別な彼の両親は、教育において有益でさえあったのだ。

ラーズは思い出していた。「俺にはかなりイカした先生がついていた。3年間俺についたその先生はジョン・ピーターセン(John Petersen)って人だった。彼は流行に敏感で、親父と一緒にいろんなことに夢中になってた。あるとき、現代社会の時間で教室にウッドストックのアルバムを持ってくるように頼まれた。俺たちがベトナム戦争に抗議するジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌を教室で聴けるようにね。あれは家族が所有しているものだと言っても先生の耳には届かなかったから、俺はあのアルバムを自分のところに持っておかなきゃならなくなった。彼はそういったことでは本当に新奇な人だったよ。Maglegaard小学校の保守的な生徒はたぶん彼はちょっと左寄りすぎると思ったかもしれないけどね。でも彼は本当にそういったものに夢中だったんだ。

学校に通っていた最後の数年間で、突然そういう右とか左とかってことを理解し始めたんだ。ある時期には核兵器「賛成」か「反対」かどっちだと決め付ける人たちがいた。それで7年生ぐらいに俺たちは核の力についてヤンチャで収拾のつかない議論をしたんだ・・・。俺たち何歳だったと思う?12歳だよ!!でも俺たちは核の力とその将来についての答えをもつ人となったんだ。」

ラーズが女の子に興味を持ち始めたのも、その歳だった。

「俺にはたくさんガールフレンドがいた。もちろんそこには同じ学校の子もいた。チネとカトリーヌとは手紙のやりとりなんかしてた。そして、ターストラップ(Taastrup)から来てたマリアンヌ・ハンセン(Marianne Hansen)に首ったけだったね。俺が15歳ぐらいだったかな。彼女は実際にアメリカまで何回か俺を訪ねてきてくれたんだ。後に俺がコペンハーゲンでレコーディングしたときにも通りがかった。彼女はとってもとっても可愛かったね。」

しかしラーズは18歳になるまで女の子と寝たことはなかった。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/6/

愛されてるなぁラーズ・・・。
larsulrich_childhood
ラーズ・ウルリッヒ、両親と共に

本人はそれほど変わってないと言ってますが、かなり特殊な家庭環境だったことがこのエピソードからも、うかがい知れます。

ちなみに文章中に出てきたジミ・ヘンドリックスのアメリカ国歌はこちら。


その時代に起きていたことをすぐに題材にするなんて何とも楽しげな授業です。

ざっと見た限り、しばらく続く第1章はデンマーク編のため、ラーズのコイバナは出てこない模様(笑)。やる気が出れば、さらに続きも紹介できればと思いますが、続きメチャメチャ長すぎ・・・。

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