ラーズ・ウルリッヒの母国デンマーク語で書かれた伝記本、『Lars Ulrich - Forkalet med frihed』を有志の方が英訳してくれていました。

larsbio

その冒頭部には、ラーズと名付けられるまでの過程、ラーズに大きな影響を及ぼしたであろう生家について書かれていました。英訳されたものをさらに管理人拙訳にてご紹介します(日本語読みがわからないところはアルファベット表記のままにしています)。長文のため、お時間のあるときにどうぞ。

第1章 音楽の名における洗礼

1964年の初め、トーベンとローンのウルリッヒ夫妻のあいだに生まれた赤子は「ラーズ(Lars)」と正式に名付けられた。名付けられる過程にはユニークな他の名前候補をめぐるやり取りがあったのだが、トーベン・ウルリッヒはそれを覚えていた。

「マッズ(Mads)かラーズ(Lars)のあいだで悩んでいたが、私はイーベン(Iben)もいいなと思っていた。私たちは必要とあらば、気のきいたデンマーク流の良い名前をいくつか見つけることもできた。(イーベンをミドルネームとして)ラーズ・イーベンかマッズ・イーベンはどうかと私たちは話したんだが、ローンはまだ他のたくさんの名前を候補として探し続けていた。彼女はイーベンは女の子の名前みたいだと考えていたんだ。私は他の候補よりは気に入ってたがね。」

かくしてラーズ・ウルリッヒが彼のフルネームとなった。家族の別荘があるローウラライ(Rageleje)の近くにあるブリストロプ教会(※1)でラーズは洗礼を受ける。ウルリッヒ夫妻は息子の教父として、家族ぐるみで友人として付き合いのあったアメリカ人のジャズ・サクソフォン奏者、デクスター・ゴードン(Dexter Gordon)を選んだ。

「デクスターがそれだけ強烈な才能の音楽人だと思ったんだ。それに、そうやってラーズの良き音楽人生を願ったんだよ。ハッハッハ(笑)」トーベンは笑顔を浮かべて「このことについて考えてみると可笑しいね。」とそっと付け加えた。

同時にローン・ウルリッヒと彼女の両親の良き親友であるカイア・ケーアボー(Caia Kjaerboe)がラーズの教母となった。

「彼女は劇場の出でね。彼女も強烈な才能を持った人物だったよ。」トーベンは語る。

しかし、ラーズはすぐに「Knirke(キーキー声の意)」というあだ名を付けられている。

「ラーズが子供の頃はずっと「Knirke」と呼んでいた。なぜなら子音に「N」がつく発音が出来なかったんだ。あの子にはそれが難しかったようだ。あの頃から「Knirke」と呼んでいて今でもそう呼んでいる人はいっぱいいるよ。」とトーベンは言う。

この子は世界の至るところにいる善意に溢れた愛情深い人々に囲まれていたのだ。

彼が子供の頃の家は、ヘレルプ(Hellerup)のLundevang通りに面したおとぎ話に出てくるような4階建て(訳注:地下室含む)の大きく特別な建物(※2)だった。はじめは両親と共に家の最上階に住み、祖父母は真ん中の階に住んでいた。その家には1973年から74年にかけて家族がローウラライの休暇用の別荘に完全に引っ越すまで住んでいた。それからウルリッヒ夫妻はLundevang通りの家をリフォームし、1980年夏に完全にロサンゼルスに引っ越すまで再び家族の普段の住処とした。

トーベンとローン、そしてラーズは自分たちのLundevang通りの家をより堅固なものとしたが、国際人としてのライフスタイルは決して捨てられなかった。たしかにラーズの子供の頃の家は、ヘレルプの小さな居住地で、大きくエレガントな家々と人目をひく大使館(※3)の建物があるLundevang通りに面しており、Ryvang街道や並行して走る鉄道はその騒音でメチャクチャになるにはあまりに遠すぎた。さらに現在では、屋根を越えるほど高く大きい象徴的な「瓶」がまっすぐ誇らしげに立っている近隣のツボルグ(Tuborg)の醸造所(※4)からホップとモルトの香りがしている。ラーズはNorgesminde通りを渡り、Phister通りにあるHIK(※5)の設備でテニスを練習し、近くの学校に通っていた。このMaglegard小学校は父トーベンも通っていた学校である。(※6)

以前言及したとおり、29年前(訳注:伝記本は2009年刊行?)にラーズと家族は完全に引っ越したが、ラーズは子供の頃の家をハッキリ覚えていた。2003年初夏に、父親と過ごしたコペンハーゲンに戻ったときには、よくこの近くを走っていた。(この様子は2004年の『Some Kind of Monster』DVDの特典映像で見ることができる)。

「大きな庭のあるとても特徴的な家だった。」ラーズは思い出していた。「フロアがたくさんあるし、いつも騒音を響かせることができたんだ。大好きだったよ。親父はあのバルコニーの部屋に上がっては毎日夜にジャズを聴いていたよ。俺は自分の部屋で音楽を流すか、何も聞かせないようにみんなが寝静まってから、地下室までの長い道のりを歩いていったね。」

Lundevang通りの家はとても大きな敷地で、それは子供の頃のラーズの全てを形成した精神的にも文化的にも広大な良きシンボルでもあった。彼の両親は音楽、文化、アート、地理学についてのさまざまなことを「文字どおり」彼に説明するのに多くの時間を費やした。常に外の世界からの新しく刺激と衝撃によって子供の頃のラーズに非常に魅力的なもの、好奇心、旺盛な知識欲をもたらした。

ウルリッヒ家のおもてなしとイカした家によって、この場所は日が暮れるとデンマークやその他のあらゆる場所から多くのミュージシャンや著名人たちが賑やかす場所となった。そのなかには世界的なジャズマンであるスタン・ゲッツ(Stan Getz)、ジョン・チカイ(John Tchicai)、ドン・チェリー(Don Cherry)、そして前述したラーズの教父デクスター・ゴードンもいた。ガソリン(Gasolin')のフランツ・ベッカリー(Franz Beckerlee)は、エリック・ウィダーマン(Erik Wiedemann)、ヨルゲン・リーグ(Jorgen Ryg)、ベント・ファブリシアス=ビュール(Bent Fabricius-Bjerre)、マックス・ブリュエル(Max Bruel)、ヒュー・シュタインメッツ(Hugh Steinmetz)といったデンマークのミュージシャンを伴い頻繁に訪れていた。

トーベンは次のように語る。「午後にウチにやってきて居座り、コーヒーを飲んで音楽を聴いている者もいた。あるときには皆がディナーにやってきたし、またあるときには私やフランツ、ヒューが座って音楽を聴き続けていた。夜明けまでなんてこともあったね。私たちはいろんな音楽を聴いていた。マディ・ウォーターズからインディー・ミュージックまで何でもさ。リビングにはピアノもあったから、ジャム・セッションをしたこともあった。スタン・ゲッツとだったり、別の日にはベント・ファブリシアス=ビュールともやったのを思い出すね。そんなわけであの家にはデンマークやアメリカのあらゆる人たちで埋め尽くされていたことがあったんだ。」

60年代、70年代はLundevang通りは本当にイカした場所となった。家には子供用の部屋があった。ラーズは同い年のフランツ・ベッカリーの子供とよく遊んでいた。アメリカで出会い、ヘレルプに一時住んでいたトランペッター、ドン・チェリーが訪問してきたこともトーベンは覚えていた。ときおりドンは幼い継娘ネネを連れてやってきた。「たぶん2人とも2、3歳頃じゃなかったかなぁ、彼女とラーズはつまずきながらドクター・ジョン(Dr. John)のレコードに合わせて踊っていたよ。」

しかし、最も長く遊び相手を務めたのは、ラーズと半年早い生まれの従兄弟ステイン・ウルリッヒ(Stein Ulrich)だった。ラーズの叔父ヨルゲン(Jorgen)(ちなみにトーベンにステインの教父となるよう頼んだ人物でもある)の息子だ。ラーズは後にステインについて、叔父ヨルゲンと叔母ボーディル(Bodil)と話していたときに「まるで兄貴のような存在」だと語っている。

今日までステインはあの魅力的な家への訪問がどれだけ刺激的だったかハッキリと覚えている。
「俺はラーズといつも連れ廻ったんだけど、よく覚えているのは4、5歳の頃、Lundevang通りの家に行ったときのことさ。ホールまで歩いていくと天井まで見えたし3階まであるのがわかった。ホールには幅3フィートの階段が地下室へと続いていた。いつも彼らはそこにいたんだ。大家族のキッチンみたいに準備していたからね。彼らはほとんどそこに住んでいたんじゃないかな。(他の人が出入りしない)あの場所なら日中ほとんどいることができたからね!」

ウルリッヒ家はゲストがいるいないに関わらず、ほとんど地下室にいたようだ。ラーズの祖父母が引っ越した時に、家の大部分はリフォームされた。ラーズはなぜ家族の長年のたまり場が今日の世界には普通に存在しないのかとハッキリ思い起こしていた。「俺たちはスーパーモダンなキッチンがあったんだ・・・。ドイツのミーレ社製のキッチンと新しい調理器具とかその他もろもろ、すごいの何のって。まぁそういうものが流行りだす前だったっけな。」

リフォームのあいだ、遊び部屋は地下室にもできた。寝室として装飾された1階をラーズは引き継いで使うことを許された。よってこのとき彼には(後にたくさんの騒音をたててクレイジーになるにも)十分な部屋があったのだ。この音楽愛好家の遊び部屋にはステレオと彼の憧れの人のポスターが貼られた。数年後の1976年には遊び部屋は再びリフォームされ、このとき彼にとって初めてのドラムキットが設置されたのだ。

英訳元:http://w11.zetaboards.com/Metallichicks/topic/794989/5/

※1:ブリストロプ教会(Blistrup Kirke)
http://www.blistrupkirke.dk/
http://www.visitdenmark.co.uk/en-gb/denmark/blistrup-church-gdk621148

※2:ラーズの生家。
07larshouse

※3:イスラエルの大使館が同じLundevang通りにあり、近くのNorgesminde通りにはタイ大使館もある。

※4:全長26メートル。デカイ(笑)
tuborg

※5:ヘレルプ・スポーツ・クラブ(HELLERUP IDRATS KLUB)のこと。

※6:『Some Kind of Monster(邦題:メタリカ 真実の瞬間)』の特典映像によると、父トーベンを教えていた教師が自分のことも教えていたとラーズは語っている

特典映像はYouTubeにアップされてました。(日本語字幕はありませんが)


文章中に出てきた場所のうち、洗礼を受けた教会以外はヘレルプに集中しています。少し地図でまとめてみたのでご参考までに。(リンク先で拡大縮小可能)

ラーズ・ウルリッヒのふるさとMAP
larsMAP
http://batchgeo.com/map/8f73f0a18d0373a960a850a57e9ae158


ラーズの生家はジャズのいわゆるサロンのような役割を果たしていたんですね。教父が音楽人で教母が劇場の出ということで、ラーズが音楽と映画に興味を抱くようになったのは生まれたときからの必然だったように思えます。

By Requestの北欧ツアーを計画したときは、ここまで正確な位置もわからず、時間も取れないということで断念しましたが、またデンマークへ行く機会があればぜひ訪ねてみたいものです。

やる気が出れば、続きも紹介できればと思います。やる気が出れば・・・

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