ロニー・ジェイムス・ディオが現地時間の5月16日
午前7時45分に亡くなりました。

病状は伝え聞いてはいたものの、正直、必ず復活してくれる
と思っていたのでホントにショックです。
レインボーは初めて買った洋楽CDなだけに。。

メタリカのオフィシャルページにてラーズ・ウルリッヒから
ロニー・ジェイムス・ディオに向けたメッセージが載っています。

いつもの通り、拙訳ではありますが。。


以下、日本語訳。

親愛なるロニーへ

俺はザグレブのステージを終えたところ。あなたが亡くなった
ってニュースに遭遇した。ショックだよ。俺がステージに立つ
大きなきっかけのひとつはあなただったんだってことを
知ってほしかった。1975年、あなたがエルフにいたとき、
ディープ・パープルの前座としてあなたを初めて目にしたんだ。
あなたの歌声にこもったパワー、ステージ上の存在感、
みなぎる自信、そしてエルフの曲をよく知らない6000人の
デンマークの人々と夢想的な11歳当時の俺とたやすく
気持ちを通じ合うサマに完全に圧倒されたんだ。

翌年、あなたが俺の大好きなギタリスト(リッチー・ブラックモア)
と手を組むこととなったと聞いて、待ちきれないほど
興奮したもんだった。あなたたちは互いにピッタリの音楽を奏で
俺はすぐにデンマークで一番のレインボーのファンになった。

1976年秋、あなたがコペンハーゲンで最初のショーをしたとき、
俺は文字通り最前列にいたんだ。そして何回か交わした
アイコンタクトで俺が世界一重要な人になったかのような
気分にさせてくれたんだ。

あなたたちが休日になにかで街にいるというニュースは、
俺の脳内に刻み込まれ、写真を、サインを、せめて
ほんの一時でも、とにかく何でもいいから手に入れようと、
あなたたちに会うためにプラザホテルまで巡礼したんだ。

何時間か経ったとき、あなたは姿を現し、とても親切に、
やさしく、写真やサイン、数分の気さくな会話に応じてくれたんだ。
俺は有頂天になって、奮い立った。よし俺もやってやるぜ!って
気分になった。その後、レインボーはコペンハーゲンに数年間
に渡って何回も来たけど、そのたびに興奮してたよ。
そしてこの3年間は俺にとってこの惑星上で完全無欠の
最強バンドだったんだ。

ここ数年の間にこうして6回かそこらあなたと思いがけなく
出会えたことは幸運なことだった。そして会うたびに1976年の
あのホテルの前のときと同じように親切で、やさしく、愛想よく
接してくれた。

2007年のオーストリアが俺とあなたが一緒にプレイする最後の
機会になった。そのときは口にはしなかったかもしれないけど、
俺は文字通り、31年前にあなたに会って奮い立った
鼻タレ小僧に戻っていたんだ。ムチャクチャ光栄だったし、
あなたとヘヴン・アンド・ヘルの他の伝説的なメンバーたちと
共にステージを踏むという夢が実現したんだ。

この6月に共演するはずだったSonisphereのショーに
あなたが出られなくなったことを数週間前にきいたとき、
俺は電話して残念に思う気持ちとどうか良くなって欲しい
と伝えたかった。でも意気地なしが顔をのぞかせて、
デンマーク人のドラマーでファンの小僧からの電話に出る
義務があるように感じられてしまうことは、あなたの回復に
とって最も不必要なことだと考えてしまったんだ。
電話をかければよかったと後悔している。

あなたの名前がツアースケジュールからなくなって
俺たちはとても寂しい。俺たちは今度のフェスのあいだ
称賛と愛情を持ってあなたを偲んでいると思う。

いわゆる「Big 4」とのツアーにあなたがいないことは
正解なのかもしれない。あなた(がセッティングされたこと)
は明らかに「あの4つのバンドすらいる」というのが
主な理由の1つだったから。

その2週間の間、あなたは確実にうわさの中心になっている。
なぜなら俺たちみんながあなたについて語らい、思い出話を
しながら、あなたを知っていることが、どれだけ俺たちの人生を
良くしてきたかって話をみんなで共有しあうからさ。

ロニー。
あなたの歌声は強烈で俺に力を与えてくれた。
あなたの音楽は俺を触発し、影響を与えた。
そしてあなたの親切心は俺の心をつかみ動かしてくれた。
ありがとう。

たくさんの愛をここに。

ラーズ


とりあえず来日決定の報でたくさんコメントいただいていますが
返信は後日行います。

R.I.P.


【追記】
拙訳じゃ満足できない方はもっとちゃんとした日本語訳の
こちらをご覧ください。